花は泡立つ──『水辺のつつじ』ep.20
人の流れを堰き止めてまで靴紐を結び直す勇気もなく、僕は白い紐を汚しながら大学へと向かう。
夏はこの幾日かの雨の内に雲散霧消したらしく、空の青に対して行き交う人の服の色はすっかり落ち着き払っていた。
キャンパスに沿って植えられたつつじは狂い咲きの三輪ほどを残し、やつれ果てていた。
それを掻き分け黄色く泡立つ花穂が頭重げに揺れている。
風の吹くたびにきらきらと光の飛沫をそこらじゅうに撒き散らした。
ここで僕の悪癖が顔を覗かせる。
気づいた時には石段に左足を引っ掛け緩やかなつつじの傾斜面に足を踏み入れていた。
そして自分の背丈の半分より少し高いくらいの花を二、三本抜き、花を地に向け逆さ吊りにして歩いた。
門を過ぎた頃にはもう、授業開始の鐘は余韻すら残していなかった。
開店前の古本屋の前を通り過ぎ、一旦戻って硝子越しに品定め。
店の中、白髪の女性がはたきを大学方向に向けて唇だけで言う。
「は・や・く、い・き・な」
彼女はリエさんという。
今は息子さんと二人でこの店を切り盛りしているそうだ。
リエさんは僕を可愛がってくれて、四月には「学生さん」だったのが五月には「孫」になり、六月には「瑞樹君」、七月には「みー君」、先月にはついに「恋人」になったのだった。
こうなってくると今月は「夫」だろうか。
そんなことを考えつつ、現状「恋人」に留置の僕はリエさんに手を振り歩を進める。
足取りは、極めて重い。
例の猛犬の名を欲しいままにするチワワは、夏の暑さに当たったのか静まり返っていた。
たかだか十分の道のりを三十分もかけて歩いたのだから、間に合わなくて当然だ。
誰に見せるわけでもないのに、やれやれと肩を落とし、ふうと怠い息を吐く。
図書館前の彼岸花はもう間も無く花盛りという局面まできていた。
やたらに重厚な外階段を蹴り上げる足は軽やかで、「ああ、また逃げ癖が始まった」と今度は心の底からのやれやれ顔でカードキーをかざした。
エラーした。
もう一度かざす。
またエラーした。
トライ・アンド・エラーとはよく言ったものだけど、いくらなんでも出鼻を挫き過ぎるこのシステムは早急に改修してほしいと僕は切に願う。
それよりもっと早く、自分の後ろに人間の澱みが渦巻いていることに気づくべきだった。
僕はへどもどし、薄ら笑いなどという間違った表情で頭を下げる。
「先にどうぞ」がうまく言えなくて、どこぞの出来の悪い新人執事のように恭しく掌を天井へと向けた。
それからさらに六回のトライ・アンド・エラーを繰り返し、七回目のトライでようやく入館することができた。
そこからはもう早い。
僕はいつものように窓側の席に荷物を置く。
もうすっかりそこが身体に染み込んでしまっている。
だからこれが何階のどのあたりなのかと言われると困ってしまうのだが、僕を訪ねてくる人もいないのだからなんら問題はない。
僕の右側の窓硝子では、時折雨粒がツーと滑り降り大きな球を形成していた。
そこで僕は最近、また読めるようになってきた小説の続きを開く。
花やら虫やら病人が出てくる、古い小説。
やっと終わった現実の夏を、自分の生まれるよりずっと前の美しい夏でやり直す。
僕は高原の涼やかな風を肺いっぱいに吸い込んだ。
野薔薇で服を破いたり、恋人の描く油絵を取り上げたり……
虚しくなった。
何気なしに見上げた先は、穏やかな陽の光ではなく無機質な蛍光灯の白光だった。
「隣、いい?」
僕の意識はまた白樺だの草むらだのの内に沈んでいたから、咄嗟に反応できなかった。
本の中の文字の群を指で追った。
──隣、いい?
そんな文言は見当たらなかった。
「瑞樹君?」
名前を呼ばれ、ようやくインクの匂いの世界から這い出た僕は首を傾げた。
これは夢の続き?
また都合のいい妄想?
「隣、座るね。」
彼女が席につくと、ますます自分の眼と脳の信頼が揺らいだ。
手を伸ばせば触れられる距離。
これで指が当たらなければ幻だ。
しかし、憚られる。
こういう時に限って、現実はよっぽど残酷だ。
僕は彼女の手元の本を盗み見る。
そこにはいやに形式ばった記号や数字、カタカナがそれぞれ肩身狭げに詰められていた。
僕は安堵の息をつく。
これは恐らく現実だ。
そして僕はまた、或る小説家の描いた夏の小径を歩き始める。
危うく彼女の実像に触れかけていた指を遠ざけた。
程なくして、彼女の頭ががくんと下がった。
僕は驚いて透明なアカシアの木陰からその姿を覗き見る。
髪の揺れ、穏やかな寝息。
ページをおさえる指先はその上からでも文字が読めそうなほどに透き通って見えた。
やはり夢……?
僕はぼんやり煙草をふかし……
ふかさない。
よからぬ物想いに耽け、肺底からぷつぷつと湧き上がった咳で我に還る。
僕はもう、アカシアの木陰に隠れることもしないで慄えている自分の掌を凝視していた。
この手で触れてきたものの輪郭をなぞり直していく。
何故そんなことをしているのか、僕にも全くわからない。
気色が悪い。
気味が悪い。
僕はもう、緑の風そよぐ美しい夏には帰れないようだ。
アカシアの花の香りも、恋人から奪った油絵も、皆字滑りを起こして僕を拒絶する。
それでも忙しなくページを繰って、いると肩にわずかに体温を感じた。
それはほのかに甘い匂いのする重みだった。
その正体については脳より先に身体が理解していた。
不器用に拍車をかけた僕の呼吸は浅く浅く、それでいて速度を落としていく。
僕に凭れかかる彼女の呼吸はあまりに無防備だ。
見ない。
見てはいけない。
僕は五十二ページと五十三ページの夏に指を閉じ込め瞼を閉した。
かえってそれがいけなかったのかもしれない。
彼女と僕は夕暮の近い高原の草むらに座り込んでいたのだった。
慌てて瞳に光を取り込んだ。
それでも肩の温みと重みは変わらずそこに在って、僕には勿体無い時間が流れている。
必死に紙とインクの匂いだけを選るようにしたけれど、どうしても甘い匂いが混じってくる。
気のせいだと必死に言い聞かせた。
彼女の呼吸のリズムを真似る。
ゆったりと視界が暗くなっていった。
宛先不明の言葉が漏れた。
「もう二度と夢を見せないで。」
胸の奥底がただただ熱かった。
肺の中の雨はとうにあがったはずなのに、まだわずかに泥濘んでいるような気がした。
(続)
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創作大賞2026、恋愛小説部門エントリー中。
文学部国文学科のまどろっこしい恋愛について。
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打って変わって大正時代の文学青年は外套翻して下駄履いて何してる?
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【エッセイ】
大学一年生のみんなへ。
ゲロ吐きましたか?
私は大学一年の時、ゲロの代わりに詩を吐きました。
いいえ、ゲロもたくさん吐きました。
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【エッセイ】
スーパーに行くと妄想だけが捗ってしまう。
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ゆきお様・作
言葉を楽しむのみならず、語彙も増えちゃう今日のゆきお氏作品。
もはや日本のYUKIOを通り越し世界のYUKIOでございます。
ゆうかが私好みにカスタマイズされていて笑いました。
ゆきお様に我が趣味がバレた……?
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よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し