売られた媚は場合により買い取ります
私は“宮尾”ではない。
だが性懲りも無くずっと私を“宮尾”と呼び続ける奴がいる。
「宮尾」
隣の家の猫だ。
奴は灰色のアメリカンショートヘアで、これがまた端正な顔立ちをしている。
一昔前どころか二昔、いや、三昔ほど前にハイカラとされた表現をするならば、
“ハンサム”。
それが一番しっくりくる。
薄暗い路地においてもまばゆい舞台に立つ俳優の如し。
そういうタイプの猫だ。
猫でありながら犬のような人懐っこさも持ち合わせた空前の人たらし。
ある日はこちらには目もくれず、ツンとして去って行く。
またある時は自らそばに来て腹を出し
「撫でてくれ」
と言わんばかりにグネグネと身体を捻る。
そしてゴロゴロと喉を鳴らしてここぞとばかりに媚を売る。
買わない理由を見つける方が難しい媚を。
イケニャン「宮尾」
私「宮尾ではないのだが。」
イケニャン「宮尾」
私「not宮尾!」
もふもふとの不毛な戦いである。
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第1章
趣味は飼い主ストーキング
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彼の飼い主は彼を「ポンちゃん」と呼んでいる。
つまり、彼の名前は“ポン”である。
「吾輩はポンである、お前は宮尾。」
おそらく、そういうこと。
ポンちゃんの飼い主は毎朝、シルバーカーを押して散歩をする。
カラカラカラカラと軽快にタイヤの音が鳴る。
その後ろを音もなくついて回るのがポンちゃんである。
燃えるごみを親指と人差し指でつまみ、特に左目の下の大頬骨筋を引き攣らせながら外に出た私と鉢合わせると…
「宮尾」
相変わらずである。
私はごみを持ったまま、
「宮尾ではないです。」と真顔で答える。
その言葉は彼の鼓膜を揺らしたはずだが、
彼はその振動を脳に届けない。
故に、すでに飼い主と共にその姿を小さくしている。
気まぐれだ。
反対に彼の方からすり寄ってきた時に、
ふんっと無視をする私もまた気まぐれだ。
どちらが猫らしいか、これまた不毛な戦いである。
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第2章
名前も家もイッパイアッテナ
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人たらしの彼は飼い猫でありながら、様々な家を渡り歩く。
ポンちゃんは気を許した人間をストーキングする習性がある。
どうやら宮尾には気を許しているらしく、
ついてくることがある。
ストーキング中は終始、
「宮尾」と連呼している。
「なあ、宮尾。今日は薄曇りだが、それはそれで風情があっていいな。」
「おい!宮尾。見てみろ、草陰にスズメが隠れたぞ。」
「宮尾宮尾!お前、歩く時右に重心傾いてんぞ!」
猫語未履修の私はそれらしい日本語に翻訳して楽しんでいた。
しばらく行くと、1人のマダムに遭遇した。
1ブロック西のマダムは
「あら〜“でんがく”じゃない!」と言う。
2本北のジェントルマンは彼を「ソラ」と呼ぶ。
すれ違った3人家族は「りゅうせい!」と叫んだ。
リアル・イッパイアッテナである。
【イッパイアッテナ】
絵本「ルドルフといっぱいあってな」(斉藤洋・著)に登場する虎猫。
日本語の読み書きができる。
元々飼い猫であったが諸事情により野良猫となる。
場所や呼ぶ人によって名前が変わる。
いっぱいあるのは名前だけではない。
家もイッパイアッテナ。
この辺りの住人は、人を疑うことをしない。
よって、窓や玄関を開け放っている。
奴は心の隙間のみならず、家の隙間にも入り込む。
その人懐っこさゆえに、
無関係の家で最長2週間も生活することもあった。
全く知らない人に抱かれ、
遭遇した私に「宮尾」と声を掛けてくる日もあった。
当の飼い主は
「またしばらく帰ってこないのよ。まあ、いつものことね。心配はしてないけど。見かけたら教えてちょうだい。」
と呑気に私を無償の探偵だと勘違いしている。
無報酬ホームズの私は
通勤、買い物、ほっつき歩きのたびにポンちゃんセンサーを起動させた。
奴はいつでもしれっと帰ってくる。
しれっと帰ってきては高額の媚を売りつけてきたり、
はたまた無視したりする。
そして、久しぶりに聴く
「宮尾」に妙に安心してしまう自分に困惑したりする。
ポンちゃん「宮尾、帰ったぞ。どうだ、寂しかったか?」
私「宮尾ではないです。…寂しくなんて…なかったとは言い切れないですね。言いませんけど。」
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第3章
ストーキング癖が止まらない
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この2週間ほど私は“宮尾”になっていない。
最終回を終えた仮面ライダーの如く、凪である。
敵なくして変身しないヒーローと同じく、
彼無しに“宮尾”になることはできない。
まあ、またそこら辺をほっつき歩いているか
偽名を騙り、偽りの住所でのうのうと暮らしているに違いない。
とはいえ奴の飼い主にも2週間会っていない。
野菜室に入れ忘れた茄子がどろどろに溶けている。
自分しかいない台所でぶんぶんと首を振った。
あらぬ想像を空気中に分散させた。
要はもう2週間、
“宮尾”にも“無償ホームズ”にもなっていないのだ。
例の5本抜くと10本生えてくる草を駆逐するていで
ポンちゃんの家側の庭へ行った。
雨戸は開いている。
昨日の夜前を通った時、雨戸は閉じていた。
あらぬ想像のうち1つは草と一緒に引っこ抜けた。
8月16日、Uターンラッシュの予告をするアナウンサーの目の奥に
“ざまあ見ろ”の文字を発見して心の中で大笑いする。
唐突にプランターのプチトマトが気になり外に出ると、ポンちゃんの飼い主が前の道でシルバーカーをカラカラさせている。
2週間ぶりに“宮尾”に変身予定の私は謎に身構える。
…いない。
奴がいない。
私に気付いた飼い主がカラカラカラカラ近付いてくる。
湿った風が、私が諦め果てたネコジャラシの穂をさらっていった。
人について歩く彼はきっと、先祖について行った。
ストーキングする対象を気まぐれに変えた。
猫だから。
やはり彼は猫だった。
今頃あちらでだれかのことを「宮尾」と呼んでいるのだろう。
私は宮尾ではなくなった。
散々、
「宮尾ではありません。」
と言い張ってきたけれど。
私は名を失い、彼はこの世での実態を失った。
でも、家も名前もイッパイアッテナのポンちゃんは
それぞれの人の中で、
それぞれの名前で、
愛され続けていく。
しんみりしている私に飼い主が言った。
「ポンが盆に死んだ。」
え?
「ポンが盆に死んだ。」
私はこの先、
このとんでもないパワーワードに一生つきまとわれることになった。
とんでもない運命を背負わされた盆の終わりである。
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5本抜くと10本生えてくる草の話
【参考資料】
◽︎「ルドルフとイッパイアッテナ」斉藤洋
◽︎SBIペット少額短期保険
猫の年齢の早見表~人間の年齢での計算方法や平均寿命を解説~
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