🔷【8話】天上の楽園・口紅のおすそわけ(ユウタ)
そりゃあ、今まで色々な経験をしてきたさ。普通のサラリーマンやっていたら、想像もつかないような事をさ。だから、度胸はほどほど据わっているつもりだった。……だけど。
「一緒に付き合いますから大丈夫ですよぉ」
サチはそう言うが、これって犯罪じゃねぇの? 女子トイレに入るなんて。
タクシーを降りて、人目にさらされ緊張したせいだろうか。まだ何も見ていないというのに、真っ先に向かいたくなったのはトイレだった。とはいえ、この格好で男子トイレに入るわけにもいかない。最初は多目的トイレを探したが、利用待ちの列を見かけて諦め、サチに手を引かれるまま、奥まった場所にある女子トイレへ向かった。
ヘブンランドなんて、どうして言ったのか自分でも不思議だ。ただ普通の恋人の定番デートみたいな事をしてみたいと思った。
デート……女装した己の姿を考えてみれば、それは違うかなと思うけれど、こんな風に手を繋いで人込みを歩くなんて俺には新鮮だった。
こっちですよ。
ごく自然にサチは指を重ねてきた。少しひんやりした指先。
ねぇ、アンタにわかるかな? 俺、胸が詰まっちまった。ぎゅって、締めつけられるように喉の奥が痺れて、泣く寸前の嗚咽のようなものを慌てて飲み込んだんだ。触れられた途端に不安になった。離したくないなんて。
ホント、どうしちゃったの? 俺。
サチに近づけば近づくほどに、知らなかった自分にもう戻れないなんて途方に暮れている。
「先に入っていいですからね」
サチが順番を譲ってくれる。いや、今はそんなセンチメンタルな感情は脇に置いておこう。ヘブンランドの女子トイレ、この場で男だとバレたら、俺は芸能界どころか世間から永久追放されちまうんだ。完璧にこなさなくちゃ。
どこかでカチンコの音と、監督の『アクションッ』という掛け声が聞こえた気がする。
……まぁ、入っちまえば、何て事はない。男と違って全部個室で用を済ませる訳だし。
個室から出ると、鏡の前には女達がずらりと並んでいた。皆、鏡にへばりついて化粧直しに余念がないのが見慣れない光景だ。
じっと後ろで眺めている俺の視線に気づいたのか、女の子がひとり水場を譲ってくれた。横一直線に並んだ女達が、カチャカチャとポーチから何かを取り出しては鏡を覗き込み作業をしている。俺もやらなくちゃ不自然な気がして不安になってきた。
バッグから赤い口紅を取り出す。鏡を見つめ、唇にゆっくりと、すぐに落ちないよう念入りにのせていく。
あ、そういえば一度だけこんなシーンが……。
まだ岡部とグループを組んでいた頃、年始の特番で芸能人かくし芸大会に出演した。他の奴等は幕末の青年剣士なんて役どころだったのに、俺だけ吉原のおいらんなんてやらされたのだ。衣装が重くてさぁ、勘弁してくれよと思った。
小指ですくい上げた貝紅を、鏡の前で唇に塗るシーンで何度もダメ出しをうけて、時代劇でン十年のベテラン女優から指導を受けたんだ。アップはもう無理でしょうって、いい年したおばさんなのに着物姿の立ち振る舞いはぞくりとするほど女でさ、本当に感心した。
あ、あの感覚。
俺は無意識に小指を使って、少しはみ出した赤い口紅をそっと整えてみた。ちらちらと視線を感じるのは気のせいだろうか? なんだか注目されている気がする。
「さ、次はホラーマンションに行きましょうか?」
いつの間にか背後に忍び寄ったサチが、ハンカチで手を拭きながら鏡越しに俺をのぞき込んでいる。……マンション?
外に出ると、サチが笑いを噛み殺しながら小さく呟いた。
「桂木さん、ちょっと色っぽ過ぎて注目の的ですよ」
またサチが俺に手を差し出してくる。あぁ、もうこれだけで胸がいっぱいだ。この異常な状況の中だというのに、ただ素直にその温もりに指を伸ばすだけ。
誰も俺を桂木ユウタだと気付かない。ま、想像の範囲を超えた変装だとは思うけどさ。ただ勘違いをして流れてくる野郎共の視線には苦笑いした。特にそれが外人だったりすると、遠慮のない誘うような眼差しを送ってきやがる。
これならイケる。こんな格好でサチの隣を歩くのは不本意ではあるが、じわじわと開放感がわき上がってくる。
ん? ホラーマンションってお化け屋敷の事かよ。入り口で案内をしてくれるゴスロリ調のメイド姿の女が印象的だ。余裕で入って行ったら、結構恐くてびびっちまった。サチは「手の平、汗かいてますよ」なんて笑っている。
彼女は何回くらいここに来た事があるんだろうか。色んな事を知っていて驚いた。ポップコーンひとつにしても、キャラメル味はあっちに売っているからと地図も見ないでずんずん歩いていく。なんとかパスってチケットを事前に取っておくと、あとで並ばずに済むのだとか。
俺、馬鹿だ。
こんなにも楽しいのに、サチが俺の手を引いて笑いかけてくれるっていうのに、こんな事が気になるなんて。
誰と来たの?
普通に生きてきたら、高校生だってデートで来る場所だなんてわかってる。大人なんだ、過去なんて皆持っているさ。
そいつも、サチの指先の温度を感じていたのだろうか。
彼女の隣に立って、この景色を見たのだろうか。
サチとこの場所にデートで来た男達が羨ましいなんて、本当に俺はどうかしている。
結構、一気にアトラクションを制覇した。ヘブンランドに到着したのが三時過ぎだったから、あっという間に日が暮れた。
「少し休憩しましょうか?」
サチの提案でカフェのテラス席に腰をおろした。薄闇に光るイルミネーションが、季節外れのクリスマスみたいだ。サチはハートの形をしたホットケーキにシロップをたっぷりかけて、嬉しそうに頬張っている。
もぉ、腹減ったの? そんな華奢な体のどこに詰め込める訳?
初夏の風がさらさらと吹き抜ける。暗くなったせいか、闇に紛れた自分の姿に更に安心感がわいてきた。ほっと寛ぐ感覚。
「あっあ〜っ!」
びっくりした。今の奇声は前にも聞いた事がある。何か思い出した時のサチの声だ。本にサインを頼んでもいいだろうかと、彼女は遠慮がちに聞いてきた。
俺のサイン?
意外だった。でもそれって彼女にとって俺が少しは価値のあるものだと言ってもらえた気がして、少しウキウキしながら本を開いた。
「あの、ナオちゃんへって名前も入れてもらっていいですか?」
えっ? なんだ、そうか。友達に頼まれちゃったってやつか。
胸の中で膨らんでいた何かが、しゅうっと萎んでいく。勝手に盛り上がったり、落ち込んだり、一人芝居をしているみたいだ。
園内のイルミネーションの灯が落とされると、サチが慌てた様子で俺を引きずって走り出した。あと何時間こんな風に過ごせるのだろう。ぼんやりとそんな事を思った。
暗がりに連なる光のパレードが始まる。陽気なマーチと共に、鮮やかな電飾の山車が次々と横切っていく。
ブルー
ピンク
パープル
イエロー
移り変わる色彩が、サチの頬を染めている。
いい子にしているご褒美に一個。幼い頃、虫歯を気にする母親から滅多に甘いものを貰えなかった俺の楽しみ。袋から落ちてくる飴玉は、いろいろな色があって、わくわくしながら手のひらを見つめた。
ブルー
ピンク
パープル
イエロー
こういうのキャンディカラーっていうのかな? 嘘っぽい宝石みたいな、だけどなんだか甘ったるい。その色彩を帯びた光に染まるサチは、あの頃欲しくてたまらなかった魅惑のご褒美のようだ。いい子にしてたら、彼女のお気に召す男を演じていたら、この手に堕ちてくるのだろうか?
「岡部さん、今日の桂木さんを見たら驚くでしょうね」
サチが無邪気な様子で、おかしそうにそう問いかけてくる。
やめてくれよ。アンタの口から今、他の男の名前なんて聞きたくもない。
俺には興味もってくれないの?
心の中で呟いたつもりだったのに。
なぁに?
そんな仕草でサチが耳を寄せてくる。
甘い香り。
さっきと同じ台詞を、ゆっくりと意識しながらサチの耳元に流し込む。
「サチさん、俺には興味……感じてくれない……の?」
彼女のきょとんとした顔。
あ、駄目だ。
もう、いい子になんてしていられそうにない。
一瞬、頭が真っ白になった。
ただこの腕の中に――
ふわふわと風に乗る蝶々を捕まえるように、そっとその頬に指を添える。
触れるだけの口付け。
離れ難くて、おでこを合わせたまま唇を離すと、さっきと同じきょとんとした仕草のまま、サチは俺を見つめている。
サチの唇にはみだして、俺の赤い口紅が移されている。
ありえねぇ。
そうだ、俺は女の格好をしてるんだった。
こんな状況で口説いているなんて……。
だけど、もう体裁なんて構っちゃいられない。
開き直った気分で俺は言った。
「口紅のおすそわけ」
サチがクスクスと小さく笑う。くっつけたオデコがその振動を伝えてくる。
「久しぶりです」
「えっ?」
「キスしたの、久しぶり。最近御無沙汰でした」
まったく、まいっちまうよ、この人には。
普通、唇を奪われて、こういう返事を返す女ってそうそういないでしょう。
アンタって最高。
未知の領域に足を踏み入れるような高揚感。
とりあえずは誰にもさらわれないように、もうひとつ赤い口紅の烙印をその唇に刻もう。
そして、暢気な君にも理解できる、シンプルな愛の言葉を考えなくっちゃな。
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