🔶【9話】天上の楽園・交換日記(サチ)
まさか、ショートボブのベッピンさんにキスされるとは思わなかったな。独りアパートの部屋のベッドの中で、一日の出来事を思い返す。
『君が好きなんだ』
と、桂木ユウタは言った。
『前に君の絵本で写真を見た時から、一目惚れ』
ごそごそとベッド脇に置いてある手鏡を取って自分の顔を映してみる。写真を見て一目惚れって……あんな綺麗な顔の人にそう言われてもなぁ。だけど、彼はお財布の中から証拠品みたいに、本当にあたしの写真をごそごそと取り出してみせたのだ。
ぱちくり。
びっくりした。だって、人のお財布から自分の写真が出てきたら、驚くよね。
あ、眠い。今日は一日よく歩いたもの。楽しかった。うん、よく遊んで充実した一日。カップルでデートというにはちょっと違ったかもしれないけど。相手ショートボブだし。
ピピッと着信音が響く。
母のお古のスマホは時々ご機嫌が悪くなるけれど、今日はちゃんと名前を表示してくれた。
ディスプレイには、まだ慣れない名前。
“今日は驚かせてゴメン。また、ゆっくり会いたいな”
帰り際に連絡先を交換した。また、会いたい……か。なんだか実感がわかない。だけど、また会ってもいいかなと思う。
恋が始まるかなんてわからないけれど、彼の柔らかい唇は悪くなかったかもね。
岡部さんから電話が来たのはそれから三日後だった。
『壇プロダクションの岡部ですが……』
ちょうど例の堕天使に色を乗せていた所だったので、「トンビっ」という一言がまた喉元までこみあげた。危ない。危ない。
夕方、待ち合わせに指定されたのは、日比谷にあるホテルのカフェだった。奥まったスペースだったがテーブル同士の間隔は広々としており、ゆったりしたソファーはうたた寝に最適そうだ。桂木さんもいるのかなと思ったが、ソファから立ち上がりあたしを迎え入れたのは岡部さん一人だった。
メニューを広げる。ポットで紅茶二千五百円ってすごい値段だ。
「サチさん、どうぞケーキでも召し上がってください」
着物姿のウェイトレスが置いていったイチゴのミルフィーユを頬張る。ふわりと品のいい生クリームの香り。至福のひと時を味わっていると、岡部さんは不意に口を開いた。
「桂木はあなたに随分と執着しているみたいですね。だけど、彼とは普通の恋人のように付き合うことは出来ないのだとよく理解して頂きたい」
「……はぁ」
よく理解?
「あいつも二十八だ。浮いた噂のひとつやふたつ、なかった訳じゃない。ただ相手は皆、芸能人、いわゆる同業者でした。マスコミに対しての立ち振舞を心得た相手ばかりだった」
品のいいキャメル色のドレスシャツにブラックジーンズ。コーヒーカップに口をつける彼の仕草は、どこかの映画のワンシーンのようだ。今日はいっそう夏に近づいた陽気だったというのに、岡部さんは長袖でも涼しげだった。
「もし二人の関係がバレたら、サチさんのような一般の方には耐え難い執拗な取材攻撃があるでしょう」
「はぁ……」
「私はねサチさん、あなたと桂木が付き合うのを邪魔する気なんてありません。ただ二人が会うにあたって、どうしても人目を忍ぶ必要があるという事を理解して頂きたい。そして、その橋渡しとして私が介入する事を承諾して欲しいのです」
なんとなく視線は岡部さんが手にしているカップの中身を追っていた。きっと、お砂糖もミルクも入っていないブラックコーヒーなんだろうな。
話の内容は理解出来た。うんうん。
やっぱり不思議なのは、あたしなんかに桂木ユウタが興味があるということ。岡部さんまでこの話に加わるとなれば、ただの冗談ではないようだ。
「あのぉ、よく女は芸の肥やしって言いますよね。だけど、あたしなんて大した肥やしにもならないと思うんですよ」
ゲホッ。
呑み込もうとしていたコーヒーにせき込んで、彼はハンカチで口元をぬぐった。
「……いや、桂木は貴方から芸の肥やしなんて、求めちゃいないと思いますよ」
むせた声でそう言うと、岡部さんは「また連絡しますから」と伝票を手にすっと立ち上がった。
ラウンジに座っていた女の子達の視線が一斉に彼へ注がれるのがわかる。綺麗な振り袖を着た結婚式帰りらしいグループが、身を寄せ合ってひそひそ話をしながら、ちらちらと彼の後ろ姿を見送っている。
皆、彼が元アイドルだと知っているのだろうか。ただ、上等な男に対する賞賛の眼差しなのだろうか。
だけど、この男に背中まである黒髪のウィッグをかぶせて、編み上げのエナメルブーツを履かせたらどうだろう――そんな妄想をしてしまうのは、やっぱりあたしだけなのかしら。
最近、母のお古のスマホがとうとう息を引き取った。
仕方なく機種替えをしたのだが、カメラの画質のよさに驚愕する。時代の流れを感じた。
なるほど、最近のスマホはこんな写真が撮れるのか……。
小学校の頃、仲良しの友達と交わしていた交換絵日記みたいだ。違うことは、手渡ししなくても一瞬で相手に送れる事。
桂木ユウタからは毎日メッセージが届いた。写真が添えられている事も多い。
映画の撮影のための凝ったミニチュアセット、子役のおどけた笑顔、時代劇の小道具。
芸能人ならではの交換日記メールを彼は送ってくる。
だから、あたしも返事を返す。
その日、目にした徒然なる日常の写真を添えて。
色々な雲の形、猫の目のような三日月、ビニール傘に張りついた雨粒。
そして桂木ユウタからの返信には、大人の彼にふさわしく、少し色っぽい文章が添えられちゃったりするのだ。
会いたい。
君に会いたい。
抱き締めてキスしてもいい?
ヘブンランドでのデートから、ひと月が経っていた。
彼のスケジュールは殺人的だ。そんなある日、岡部さんが車であたしを迎えに来た。デートといっても電話がかかってきたのはついさっきの出来事で、今は夜の八時近く。急な呼び出しだった。
「いつも、こちらの都合で振り回して申し訳ない」
助手席に滑り込んだあたしにちらりと視線を移して、彼はぽつりとそう言った。
「仕事が進まなくて気分転換したいトコだったので、丁度良かったです」
車は駒沢通りに入っていく。渋滞で連なった車列のテールランプが、岡部さんの横顔を赤く染めていた。
「なかなか時間が作れないから、いい加減、桂木も限界みたいで……」
「本当、忙しいんですね役者さんって」
「昨日、映画の撮影がクランクアップして、やっと一段落したんです。さっき沖縄から東京に戻ったばかりなんですが」
「えぇ、沖縄の海の写真、桂木さんのメッセージで見ました。すっごく綺麗」
「仕事で行っていると、全然楽しむ余裕なんてないんですよ」
そんなものなのか。
もったいないな。
「今日はパパラッチみたいなのが、マンションの周りをうろうろしてましてね。桂木には今日あなたと会うのは止めた方がいいって言ったのですが……聞かなくてね」
「パパラッチ?」
「まぁ、スキャンダルを狙うカメラマンですよ」
洒落たマンションの前に岡部さんは車を止めた。駐車場に入れる前に、そこのコンビニまで付き合って欲しいと言い出した。
「いいですよ」
カチャッと助手席のドアを、岡部さんは外から開けてくれた。
あ、何か甘い物食べたい気分。コンビニ行きついでに、おやつを仕入れようかな。
あれ?
車から降りようと思ったら、見慣れない物が目の前にある。
手。
岡部さんの大きな手のひら。
えっと、エスコートってヤツですか?
車の外に出た途端、岡部さんはあたしに微笑みかけてきた。
「夕立の雨が残ってるから、足元に気を付けて」
歩き出すと、ふわりと肩に手を添えてくる。
この人のこんな優しい顔、見たことないんですけど……。
歩いて一分程の距離にあるコンビニで、彼はミネラルウォーターを手に取った。あたしがプリンにしようか、クレープにしようか迷っていると、両方ひょいと持ち上げてレジで清算してくれた。
コンビニから車までの短い距離、今度は手を引かれる。
桂木ユウタとは違う、ひんやりした温度。
……あぁ、そういう事か。
マンションの真向かいにある小さなコインパーキング。停まっている一台の車の中から、こちらを窺う視線を感じて、すぐに納得した
少しくらいは協力しなくちゃね。
岡部さんの車まであと数歩というところで、あたしは足を止めた。
彼の手を引き寄せ、つま先立ちして内緒話をするみたいに耳元へ唇を近づける。
「岡部さんも役者ですね。あたしもエキストラくらいの器量があるといいんですけど……」
彼の腕に甘えたように腕を絡めてみせる。
ちょっとだけ目を見開いて、岡部さんはあたしを見つめた。
そして薄い唇の端をゆっくりと持ち上げる。
くしゃくしゃっとふざけた仕草で髪を悪戯された。
皮肉っぽい笑顔。
こんな表情の方が、やっぱりこの人らしい。
偽装カップル誕生。
仲良しさんに見えるかしら?
だけど、あの車の陰でかくれんぼしているパパラッチは、あたし達の記念写真を撮ってはくれないんだろうな。
🍀スキやコメントいただけたら連載の励みに致します。 お気軽にご感想などお待ちしております。
