🔷【22話】天上の楽園・楽園の長い一日(ユウタ)
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シャワーの後の結い上げていないサチの髪はまだ湿っていて、少し重そうに潮風に揺れている。滑り出したドーニが、何処までも蒼い世界に白い軌跡を刻みながら進んでいく。
“ああいう女を天然っていうんだな”
成田に向かう車の中で、岡部が可笑しそうに話していた様子が脳裏に浮かぶ。
“旅費をさ、どうやって払おうか気を揉んでいたみたいでさ、二十四回の分割でカード払い出来るかって、すごい真面目な顔で聞かれて参ったよ”
サッちゃんらしくて微笑ましい話だ。お得意の嫌味な仕草も見せず、目を細めて笑いを堪えている岡部。
いさぎのいい男だ。ごめんねと、言ったサチに再び手を出すような奴じゃない。だけど……俺は断ったのだ、成田には自分の車で行くからと。なのに有無を言わさずに助手席に引きずり込まれた。
“サチと一緒なら一日中、退屈しないな”
空港の出発ロビーで別れ際に言われた台詞。
あの夜、覗き見してしまった、岡部の途方に暮れた顔。サチの腕の中で泣いているのではとさえ思えたあの眼差し。どんな気持ちでサチの元に旅立つ俺を送り出した? いくらポーカーフェイスのアンタだって、心の中はざわめいていたはずなのに。
この島に着いてから、時々サチが見せる嘘笑いに俺は気付いていた。困ったように視線を泳がせて笑ってみせる。そんな時は決まって、一瞬、押し黙って何かを考え込んでいるみたいだ。
その横顔を見るたびに、胸の奥がざわついた。
たった今だって……俺がそっと後ろからサチを覆うように両手を重ねると、一瞬はにかんだくせに、押し黙って海に視線を流してしまった。ちらりと斜め上から覗き込むと、迷いを滲ませた瞳で、じっと一点を見つめていた。
もしかして、後悔しているの? そんな不安で全身の血が凍りついた時だった。
「ドルフィンッ」
アダムが指を差して叫んだ。えっ? 反射的にアダムの指が指し示す方向を見ると……。
「すげっ。サッちゃんイルカだって」

踊り出すように身を乗り出して、サチが海を覗き込む。興奮して、きゃあきゃあと叫びながらはしゃぐ姿が危なっかしいったらありゃしない。俺の腕の中にいなきゃ駄目だよ。そっと背後から華奢な身体を抱き寄せる。
「あんまり覗き込んだら、海に落ちちゃうよ」
咎めるようなからかった口調で声を掛ける。不意打ちにサチの背中が、そっと俺の胸にもたれかかってきた。
ぴたっ。
ビキニ姿の背中は、ほとんど素肌のようなもので、パーカーからはだけた俺の胸に直接サチの体温を感じる。
どくんどくん。
自分の鼓動が早くなるのがわかる。少し間を置いた後、サチは更に力を抜いて背中を俺の胸に預けてきた。斜め下から覗く瞳が、ゆっくりとこちらに動いて視線が絡む。ちょっと恥ずかしそうな、だけどいつものビー玉の笑顔。
こんな風に甘えられるのなんて初めてだ。さっきまでもんもんとしていた不安が一気に吹き飛ぶ。女々しかったさっきまでの自分を殴り飛ばしたい気分。
サチは俺を選んだんだ。何に怯える必要がある?
二人だけのドーニ、二人だけのコテージ。楽園の案内人アダムに願い事を囁けば夢のような時間が差し出される。
俺はそっとアダムに目くばせをした。奴は心得たように視線を返すと、手際よく用意したシャンパンのグラスを運んでくる。

「やっとサッちゃんとゆっくりできる」
グラスが音をたてるのと同時に、そっとサチに唇を重ねる。久々の感触に堪らず、味わうように深く口付ける。グラスを持たない空いた手で、サチは俺のパーカーを小さく握りしめてきた。シャンパンに口を付ける前から、この唇に酔ってしまいそうだ。
ねぇ、わかっているから俺。自分の方が情けない程に入れ込んじまっているなんて、わかっている。同じように愛してくれなくて構わない。さっき背中を預けてくれたみたいに少しずつ、君なりに俺を愛し始めてくれればそれでいい。
ぱくぱくと金魚みたいにサチの呼吸が苦しげだ。そっと唇を離すと、うるんだ瞳のまま深く息を吸い込んでいる。
このままキャビンのベッドに運び込み、何もかも奪ってしまいたい。
何度か息を吸い込むと少し落ち着いたのだろう、サチが手元のグラスを口にしようとした。気付けばシャンパンはほとんど零れてなくなっていた。俺は照れ隠しにおどけながら、自分のグラスを傾けて半分おすそ分けをしてあげる。
「ずるいな、ユウちゃんは」
サチが拗ねた仕草でぽつりと口にした。
「こんな時、あたしばっかり慌てちゃって、カッコ悪いよ」
一瞬、言葉が出なかった。
まったく、何にも気付かないんだからさ、この人は。俺がどんな気分で暴走しそうな理性にブレーキをかけているかなんて、わかんないのかな。
我を忘れて目茶苦茶にしちゃいそうで怖いんだよ。だってさ、サッちゃん言ってたでしょ? あのヘブンランドの夜。
“キスしたの久しぶり、最近御無沙汰でした”
そんな君に我を忘れて狼になったりしたら、怯えちゃうんじゃないかって。ま、俺だって結構久しぶりなんだぜ。サッちゃんに出会ってから、遊びでも他の女を抱く気になんてなれなくてさ。だけど俺だって男なんだよ、惚れた女の肌に触れたら、それなりに動揺しちゃうんだよね。
だから必死に頭の隅で真っ白にならないように、冷静を装っているんだ。グラスの中身をこぼさない程度に、理性を保つようにってさ。
まだ追いかけてくるイルカをサチは指差しながら、再び船から身を乗り出している。ついさっき拗ねた眼差しで、俺の平静さに石を投げ込んだ事など、忘れてしまったかのように。

アダムが再びグラスを満たしてくれる。琥珀色の液体が、乾いた喉を潤していく。幸福の媚薬が仕込まれたような心地よさに酔いしれる。
二人の為にもう少しだけドーニを走らせよう。イルカが飽きるまで、追いかけっこを続けるのも悪くない。
とろり。
身体の上をまんべんなく香油が塗り込まれていく。カップルのどちらかがスパを使うとしたら、普通は女の方だよな。夕食の後、岡部お約束のスパとやらに出向いた。サッちゃんも一緒にやろうよと誘うと、部屋でゆっくりお風呂に入るからとお断りされちまった。
手慣れた仕草でスタッフが背中を揉みほぐしていく。すっげぇ気持ちいいんですけど……うっかりしていたら、ヨダレが垂れちまいそうだぜ。
飛行機に長時間揺られながらも興奮しすぎて眠らないままだった。それでこんなマッサージなんかされちゃったら、堕ちる、堕ちるよ。
そうして、いつの間にか眠ってしまったようだ。途中、一度仰向けになってくれと声をかけられたおぼろげな記憶があるだけ。全てが終わり、そっと揺り起こされる。どうやらだいぶ深い眠りに落ちていたらしい。
満天の星空を眺めながらコテージに向かう。月がかすむ程に光を放つ溢れんばかりの星々に、思わず足を止めた。

すげえ、サチを夜の散歩にでも誘ってみようか。ちょっとばかり下心がないわけでもない。
記念すべき夜にふさわしく、完璧過ぎるほどにロマンティクな舞台。
昼間、重ねた唇の感触が脳裏をよぎる。
期待したって、いいんじゃない?
スパのマッサージで身も心も軽やかになった。ステップを踏みながら砂浜を横切る。なんかさ、家に奥さんが待ってるって感じ。今日初めて足を踏み入れた小さなコテージが、すっかり我が家の気分だ。そこで俺を迎え入れてくれる女がサチだなんて。
そっとコテージの扉を開き、足を忍ばせて入り込む。背後から忍び寄り、驚かせちゃおうかな、なんてさ。
だけど、淡い照明の中、すやすやとベッドに眠るサチがいた。手には本が握られたままだ。表紙を覗くと初級トラベル英会話と書かれている。
“ああいう女を天然って言うんだな”
岡部の言葉が再び頭をよぎる。
天然なんてもんじゃないっすよ。な、岡部ちゃん。悪いけど、こんなサッちゃんに付き合えるのは、やっぱり俺しかいないんだよね。
そっと本を取り上げてテーブルの上に乗せ、サチの隣に滑り込む。深い眠りに落ちているのだろう、瞼が開く気配はない。
そっとサチの首と枕の隙間に腕を差し入れてみる。彼女の長い髪が俺の皮膚を優しくくすぐる。息がかかる距離で、じっと寝顔を観察してみた。
髪、伸びたねサッちゃん。今度、俺が三つ編みにしてあげる。
明日は何して過ごそうか? スケジュールを練っている自分に気付き、苦笑いをする。
こんな所まで来て、職業病だな。
スケジュールなんて必要ないんだ。風が吹くまま、気が向くままにのんびりと過ごせばいい。そう、ただそれだけ。朝食を食べる場所さえ、目覚めてから自由に決めることが出来るのだから。
おはようのキスを交わしながらベッドの上で相談しよう。
葉擦れの音が響くベランダ、朝日を弾く真珠色の砂浜、揺り籠のように揺れるマイドーニのデッキ。
お好みの場所にテーブルは用意される。

おでこにひとつ、お休みの口付けを落とす。サチは、こそばゆそうに眉毛をひそめてみせた。腕に掛かるサチの重みが、ただ愛しい。
なんて長い一日。
ベッドに沈む心地のよい倦怠感に誘われ、ゆっくりと瞼を閉じた。映画のエンディングが幕を下ろすように、サチの寝顔が視界から消えていく。
夢でも君に会えるといいな。
名残惜しむ想いを噛み締めながら、楽園の一日に別れを告げた。
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🌺海や島の画像は実際のモルディブの写真です。二人のバカンスは美しい写真もあわせてお楽しみください。
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