広報PR|五感と知性の環流――脳化したPR実務を、身体へ戻す|PRの野性を再起動する #7
現代のPRは、いつからその生々しい身体性を失ってしまったのでしょうか。
私たちは日々、膨大な調査データを凝視し、SNSの反応を追いかけ、検索量の増減に一喜一憂しています。緻密なペルソナを設計してインサイトを抽出し、企業のパーパスへと接続させ、KPIで管理可能なストーリーシートへと落とし込んでいく。これらは近代化されたPR実務を動かす上で不可欠なプロセスです。
しかし、その左脳的な手続きだけで、私たちは本当に「社会」という得体の知れない存在を読めていると言えるのでしょうか。
本連載第5号6号「ナラティブの救出」(前後編)では、ナラティブが管理可能な形式知へと回収され、社会ゴト化や短期効率KPIの枠組みの中で急速に同質化していく構造を解剖しました。社会へ開かれるはずの語りが、企業の中で美しく整えられすぎることで、かえって社会で自発的に語られる力を失っていく。
では、この閉塞感を前に、私たちは次に何をすべきなのでしょうか。
いま必要なのは、脳化し記号化してしまったPR実務を、もう一度「身体」の領域へと奪還することです。本稿では、その閉塞感を突破するための実践的な思考のフレームとして、「五感と知性の環流」というアプローチを考察します。

1. 理性の限界|調査が取りこぼす人間の「業」
現代のマーケティングリサーチの多くは、人間を「自らの欲望や選択の動機を、論理的な言葉で説明できる主体」として扱おうとします。アンケートの選択肢に回答し、インタビューで理由を語り、綺麗に分類されたペルソナの型に収まりながら、認知・理解・共感・行動という美しい態度変容のプロセスに沿って動いてくれる存在として、人間は扱われます。
しかしこうした人間観は絶対的なものではなく、近代以降の社会制度やビジネス実務が前提としてきた、ひとつの人間像にすぎません。
それが、「理性的で、自律的で、自分の意思や判断を説明できる主体」として人間を捉える見方です。カント的な近代主体の思想は、その代表的な源流の一つと言ってよいでしょう。
組織を動かし説明責任を果たす上で、こうした再現性のある前提は実務上欠かせません。しかし現実の人間は、それほど美しく整えられた存在ではありません。
1-1. 合理性の網の目をすり抜けるノイズ
正しいと頭では理解していても頑なに動かない。欲しいと口では言いながら財布を開かない。共感したと表明しながら実際の活動には参加しない。嫌いなわけではないのに、なぜか一定の距離を取り続ける。笑みを浮かべているのに、どこか冷ややかに引いている。語れば語るほど、矛盾を重ねていく──。
人間の割り切れない行動の裏には、近代的な理性の網の目から必ずこぼれ落ちてしまう、言語化不可能な「業」やノイズが渦巻いています。
1-2. 感情の濁りを拾い直す「野生の作法」
他者への照れや妬み、日常の退屈、本質的な面倒くささ、微かなうしろめたさ、虚栄心、そして不完全なものへの愛おしさ。PRが真に向き合うべき対象は、データシートの上に美しく整理された純度の高いターゲットイメージなどではありません。
むしろ、そのような言葉にならない感情の濁りや、制御しきれない身体の反応を抱えた、矛盾だらけの人間そのものです。五感で考えるPRとは、効率主義のプロセスが切り捨ててきたこれらのノイズを丁寧に拾い直す、野性的な観察の作法なのです。
2. 五感とは「感性」ではなく「観察の技術」である
五感で考える、と提示すると、個人のひらめきや天性のセンスといった、属人的な「感性論」として片付けられがちです。
しかし、ここで提唱する五感とは、アートのような感性の話ではなく、社会に漂う膨大な「未言語情報」を正確に受信するための高精度なセンサー(観察の技術)を指します。
2-1. 数字に変換される手前の「ためらい」を読む
見る、聞く、触れる、嗅ぐ、味わうという身体的アプローチは、すべての事象が都合よく資料化され、数字に変換される手前にある生活者の「ためらい」や「違和感」を客観的に捉えるための実践的な技術です。
この視点を深める上で、人類学などにおける「感覚エスノグラフィ」のアプローチは極めて有効な視座を与えてくれます。サラ・ピンクがその手法論『Doing Sensory Ethnography』で示したように、人間の現場経験を真に理解するためには、単なる視覚的な情報だけでなく、匂い、味、触覚、音、空間の移動や温度といった、複数の身体的感覚が相互に関係し合うプロセスを重視せねばなりません。
2-2. 匂いや湿度として立ち上がる社会
この視点に立つと、PRが読むべき「社会」は、テキストや数値だけでは捉えきれません。匂い、導線、距離感、沈黙、声の湿度、場の温度。そうした身体的な経験の束として、社会は立ち上がっています。
デジタル環境やインタビューの場であっても、この感覚の絡み合いを前提に、調査や観察のあり方を見直す必要があります。
3. 見る|行動の手前で止まる身体を読む
PR実務における「見る」とは、キャンペーンによって動いたポジティブな生活者の数を確認することではありません。私たちが読むべきは、むしろ「動かなかった人々」の沈黙する身体です。
棚から商品を一度は手に取ったにもかかわらず、静かに元の場所へ戻した人。Webサイトを熱心に熟読していながら、最終的に参加ボタンを押さなかった人。丁寧な説明に深く頷きながらも、決して最後の一歩を踏み出さなかった人。
3-1. 調査票には現れない「身体的抵抗」
そこには、既存の調査票の自由記述欄には現れにくい「身体的抵抗」が存在しています。
興味はあるけれど、なぜか身体が前へ出ない。納得はしているけれど、自分の言葉として語り直すには心理的コストが高すぎる。正しいとは思うけれど、生活に巻き込むにはどこか重苦しい。
広報PRが注視すべきは、この「動かなさ」の構造です。認知も獲得し、共感すら形成されているはずなのに、なぜ最後の行動が起きないのか。その答えは、デジタル上の数値の中ではなく、人々の「身体の止まり方」のグラデーションにこそ現れます。
3-2. 環境と身体のあいだにある「摩擦」を解く
この身体的な視点は、J・J・ギブソンが提唱した「アフォーダンス」の生態学的知覚理論「The Ecological Approach to Visual Perception」とも深く響き合います。
ギブソンは、「人間の知覚」を頭脳の中だけで完結する情報処理ではなく、身体を持った存在が環境の中を動き回り、環境が提示する価値をダイナミックに探索しながら成立するものとして捉えました。自然な視覚とは、固定された視点から対象を眺めることではなく、身体を持って歩き、近づき、回り込みながら世界と関わるプロセスそのものなのです。
PRの視点から言えば、「見る」とは対象を遠くから観測することではありません。その情報空間や場が、生活者に対してどのような動詞を促し、どこで人々の行為を阻害しているのか。その環境と身体とのあいだにある動的な摩擦を読み解くことこそが、「見る」という技術の本質なのです。
4. 聞く|沈黙や言い淀みを聞き取る
PRにおける「聞く」とは、インタビューで語られた滑らかな発言や、SNS上に書き込まれたテキストとしての反応を集計・保存することではありません。人間は本当に胸の奥底で引っかかっている切実な違和感ほど、流麗なロジックで語ることはできないからです。
ふと言葉を詰まらせる言い淀み。気まずさをはぐらかすような微かな笑い。突如として主語を大きくし、無難な一般論へと逃避する瞬間。あるいは完全な沈黙。
「素晴らしいと思います」と全肯定の言葉を発しながらも、身体の重心が全く前に出ていかないそのギャップこそを、私たちは聞き取らねばなりません。
4-1. 相手を「診断」せず、関係のズレを抽出する
このアプローチは、心理学におけるカール・ロジャーズの「来談者中心療法」(On Becoming a Person)の知見とも深い親和性を持っています。ロジャーズは、対象を安易にコントロールしたり外側から客観的に診断したりするのを厳しく戒め、相手の内側にある生々しい経験を無条件に肯定し、共感的に理解する関係性の重要性を説きました。
ただし、PRにおける「聞く」は治癒ではありません。相手の言葉の奥にある、社会との関係のズレを読み取るための技術です。
4-2. シナリオの裏側に隠された「地雷」
実務家に求められるのは、単に相槌が上手な聞き手としての態度ではなく、滑らかな言葉の裏側に隠されている、未だ語られざる関係性の歪みを鋭く聞き取る聴覚の強度です。
理念を語る経営陣や社員の声が、特定の文脈で急に小さくなる瞬間。生活者が「社会的に正しい取り組みだ」と称賛しながらも、自分の日常生活からは完全に切り離して語る乖離。記者が論理的には得心していながらも、質問の角度を微細に変えて問いを重ねてくる違和感。
それらの背景には、企業側が見落としている文脈の欠陥が隠されています。
聞くとは、表面的な発言をデータとしてアーカイブすることではなく、人々の身体が言葉にすることを拒んだ、「語られなかった沈黙」を聴き取ることなのです。
5. 触れる|現場の摩擦に自らの身体を投じる
PR実務における「触れる」とは、文字通り現場へと自らの肉体を投じることです。商品を実際に持ち上げ、その重さを確かめ、包装を開け、匂いを嗅ぎ、味わい、提供される椅子に腰掛け、顧客の列に並び、設計された動線を自ら歩く。店頭の温度や湿度の変化を感じ、最前線に立つ社員と同じ場所に立ち続ける——。
5-1. 資料を裏切るインターフェースのノイズ
この泥臭いプロセスを経て初めて、どれほど精緻な資料を読み込んでも見えてこなかった違和感が、私たちの身体の内側に生々しく立ち上がってきます。
なぜこの商品は直感的に手に取りにくいのか。
なぜこの売場は長く滞在したいと思えないのか。
なぜこの説明文は論理的に美しく構築されているのに、一向に頭に入ってこないのか。
社会という名の生態系は、常に摩擦の生じる接点において駆動しています。よって、ここで提示する「触れる」という概念は、単なる指先の触覚にとどまりません。現場の匂いを嗅ぎ、味を確かめ、空気の温度を感知し、音のざらつきに耳を澄ます。人間の感覚とは分析的に切り離された箱ではなく、混然一体となって現場の文脈と絡み合っているからです。
5-2. 感覚の絡み合いに「巻き込まれる」作法
これまで見てきたように、五感で考えるPRは、単なる「現場視察」や「フィールドワーク風の儀式」とは一線を画します。
観客席から眺める「見る人」として行くのでも、安全な場所から採点する「評価する人」として行くのでもない。
その場を構成する一つの身体として環境に巻き込まれ、その後に、冷静な客観性を携えて構造化のレイヤーへと帰還する。この緊迫感のある往復こそが、実務家としての観察の強度を担保するのです。
6. 嗅ぐ/味わう|気配と後味を読む
6-1. 嗅ぐ①――トレンドの裏側に潜む「気配」を嗅ぎ取る
PRにおける「嗅ぐ」とは、すでにデータ化された流行を後追いして言い当てるゲームではありません。まだ世間が流行と名付ける前の微細な兆しを察知すること。誰もが使い始めた流通言葉の裏側に潜むわずかな「古さ」を嗅ぎ取ること。正論でありながらどこか大衆が白けている表現の欺瞞を見抜き、社会が言語化する手前で抱いている違和感に対して、自らの身体を鋭敏に反応させる作法を指します。
この感覚の重要性は、かつて小山薫堂氏が手がけた数々のワークスを批評的に分析する際にも浮き彫りになりました。本連載「PRの野性を再起動する」第3号第4号で言及した通り、小山氏の仕事の核心は、単に表層的で面白い企画(アイデア)を量産している点ではありません。人々が日常の中でうまく言語化できずに滞留させている感情の気配を皮膚感覚でつかみ取り、それを場、仕組み、あるいは強固な世界観へと鮮やかに変換している点にあります。それは、左脳的なロジックの積み上げだけでは決して到達できない領域です。
6-2. 嗅ぐ②――身体が覚える違和感と、言葉の「時間差」
時代の空気や生活者の地殻は常に変化し続けています。そしてその変化は、常に「脳化」された都合の良い言葉よりも先に、無意識の領域で動き始めています。
まず言葉にならない強烈な違和感が身体を先取りし、ずいぶん後になってから論理的な言葉が追いついてくる。生々しい照れや憧れが現場に漂い、あとからそれが「一大ブーム」として記号化される。微かな白けが人々の間に広がり、あとからマーケティングの市場データとして離脱が数値化される。
PRの本質とは、この「時間差」を読み解く仕事でもあります。
6-3. 味わう①――企業の言葉に「後味」「余韻」を確かめる
一方、私たちが紡ぎ出す企業の言葉にも、明確な「味わい」が存在します。どれほど美しく整えられていても、全くの無味であれば生活者の記憶には残りません。どれほど正論であっても、苦すぎれば組織も社会も飲み込むことはできない。どれほど分かりやすくても、中身が薄ければ他者の言葉として語り継がれることは少ない。
経営陣のトップコメント、パーパスの文言、採用メッセージ、社会課題に対するステートメント。それらのテキストは、純粋な「論理(意味)」だけで読まれているわけではありません。
実際に口に出して発音したときに、人間の身体として自然なリズムを持っているか。インサイドの社員が、虚栄心なく「自分の言葉」として語れるか。アウトサイドの生活者の記憶の底に長く留まる余韻があるか。メディアの記者が思わず見出しとして切り出したくなる引っかかりが残されているか。あるいは、社内承認の会議を通すために無難に整えられすぎた結果、大切な旨味がすべて抜け落ちてはいないか。
「味わう」とは、言葉が社会という摩擦面に触れた後に残す、その「後味」「余韻」を冷静に確かめる技術です。
6-4. 味わう②――無害な言葉は、誰の身体にも残らない
企業の言葉は、組織内の「正しさ」という力学の中で、急速に無害化され、薄まっていきます。炎上を徹底的に回避するために。誤解の余地を完全に排除するために。誰からも文句を言われないために。社内の稟議をスマートに通すために。リーガルリスクをゼロにするために。
もちろん、それらの防衛的な配慮は実務上不可欠です。しかし、すべての角を丸く削り落とされた言葉は、結果として誰の身体にも引っかかりません。ナラティブは、左脳的な意味だけでは駆動しない。人々の心身を動かすのは、言葉の奥に宿る固有の「後味」と「余韻」なのです。
7. 五感と知性の環流とそのダイナミズム
ここまで、見る、聞く、触れる、嗅ぐ/味わうという身体的アプローチの重要性を解剖してきました。しかし、ただ五感の領域へ回帰するだけでは、PRの実務として片手落ちです。
五感の観察だけに終始してしまえば、それは一個人の主観的な感想で終わります。一方で、知性のフレーム側にだけ寄りかかれば、現代のPRを窒息させている均質化した正論へと容易に回収されてしまう。私たちが真に駆動させるべきは、この両者のあいだを絶え間なく行き来する「往復のダイナミズム」です。
7-1. 知性での構造化に帰還すること
まずは一度、湿った感情と生々しい肉体を持った一人の人間として、不確実な世界の中へと深く潜り込む。他者と共に好き嫌いを抱き、照れ、面倒くさがり、微細な違和感に引っかかり、人間の割り切れないおかしみを感じ、不完全な存在を愛おしむ。その没入のプロセスの後に、私たちはもう一度、冷静な観察者として構造化のレイヤーへと帰還せねばなりません。
なぜ、あの瞬間に人々の身体は不自然に止まったのか。なぜ、あの張り詰めた現場に微かな笑いが生まれたのか。なぜ、論理的に正しいはずの言葉が生活者の胸に届かなかったのか。そしてなぜ、不親切な設計の言葉の方が、他者の言葉でダイナミックに語り直されたのか。
7-2.五感と知性の環流の正体
五感でノイズを拾い上げ、知性でその構造を解剖し、人々が思わず参加したくなるナラティブの形へと翻訳する。この循環こそが、本稿の核心である「五感と知性の環流」の正体です。
感情を切り離した知性は、社会を「管理可能な記号」としてコントロールしようとします。知性を欠いた感情は、刹那的な思いつきの施策へと漂流していく。PRに要請される実務は、この往復の回路を通じて、脳化したPRからナラティブを奪還することにあります。
8. 社会ゴト化に、血肉を巡らせる
ここで誤解してはならないのは、戦略PRがこれまで築き上げてきた「社会ゴト化」というマクロなアプローチそのものが間違っているわけではない、という点です。
自社の商品や企業活動を社会の大きな文脈へと接続すること。生活者がそれを「自分ごと」として捉えられるための普遍的な入口を設計すること——これらはすべて、PRという職能が歴史的に磨き上げてきた重要な知性の結晶です。
8-1. 滑らかな最適化がもたらす「生々しさの喪失」
本質的な問題は、その高度な知性が、生身の身体性を失い、単なる「形式的な手続き」だけで回り始めた瞬間に発生します。
社会課題らしい耳当たりの良い言葉、共感されやすい無難な文脈、社内の承認をスマートに通過するストーリー——それらのディフェンスラインが積み重なれば重なるほど、言葉の表面は滑らかに最適化されていきます。しかしそれと引き換えに、言葉は最も大切な生々しい血肉を急速に失っていくのです。
8-2. 抽象のハシゴを降り、個の身体感覚の底流へ
「社会」という巨大な主語を傲慢に振りかざせば振りかざすほど、そこに現に存在しているはずの一人ひとりの生身の顔は視界から消え去ります。「生活者視点」と言いながら、誰の具体的な生活の匂いにも触れていない言葉になる。「共感設計」と謳いながら、誰の個人的な痛みも、照れも、面倒くささも内包していない、最大公約数的な記号の羅列へと堕していく。
だからこそ、形骸化した「社会ゴト化」のフレームワークに、もう一度生々しい血肉を巡らせなければならないのです。それは、現場に立つ「一個人の五感」という、野性のセンサーからしか供給されません。
その小さな身体反応を現場で執拗に拾い上げ、冷静に分析した上で、ふたたび巨大な社会の文脈へとブリッジさせていくこと。社会という大きすぎる言葉を本当の意味で社会へとひらくためには、私たちは一度、個の身体感覚という深い底流へと潜らねばならないのです。
9. 実装への跳躍──『笑える革命』
「五感と知性の環流」とは、一人の人間が皮膚感覚で捉えた微細な違和感や割り切れないおかしみを、社会の多くの人々が自発的に参加できる動的な場へ翻訳するPRの実践です。
次回は、この「五感と知性の環流」を社会実装した事例として、小国士朗氏が仕掛けた『笑える革命』の構造を読み解きます。
ここで扱う「笑い」とは、社会課題を軽薄に消費するための安易な逃げ道ではありません。過剰な正しさや義務感によって固く閉じてしまったステークホルダー間の関係性を、もう一度人間が関われる野性の形へと「ほどいていく」ための、高度なコミュニケーション技術です。
言葉が均質化し、社会ゴト化のフレームワークが行き詰まったとき、実務家に必要なのは、理屈を越えて人々が思わず巻き込まれてしまう身体的な入口を設計することです。そして、他者が自らの文脈でその物語を語り直したくなるような余白をあらかじめ仕込んでおくこと。その具体的な社会実装の作法を、次号で解剖します。
今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。
批評的対話のための参考資料
Sarah Pink, Doing Sensory Ethnography, SAGE Publications, 2015.
視覚中心の調査から脱却し、嗅覚・味覚・触覚を含めた多感覚的な身体経験から現場の文脈を客観的に抽出するための、現代感覚エスノグラフィの代表的文献。またこれに近い概念として、ティム・インゴルド『人類学とは何か』(亜紀書房)、『メイキング』(左右社)であれば日本語版を確認することができます。ジェイムズ・P・スプラッドリー『参加観察法入門』田中美恵子・麻原きよみ監訳、医学書院、2010年。(James P. Spradley, Participant Observation, Holt, Rinehart and Winston, 1980.)
現場への没入と客観的観察の往復論を体系化し、エスノグラフィにおける参与観察の基本的な手順と考え方を示した文献です。C.R.ロジャーズ『ロジャーズが語る自己実現の道』諸富祥彦・末武康弘・保坂亨共訳、岩崎学術出版社、2005年。(Carl R. Rogers, On Becoming a Person: A Therapist’s View of Psychotherapy, Houghton Mifflin, 1961.)
対象のコントロールや安易な診断を厳しく戒め、相手の生々しい内的経験を無条件に尊重する共感的理解の基礎を築いた、来談者中心療法の重要文献。J.J.ギブソン『生態学的視覚論――ヒトの知覚世界を探る』古崎敬ほか共訳、サイエンス社、1985年。(J. J. Gibson, The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin, 1979.)
知覚を脳内の情報処理ではなく、身体と環境との動的な相互作用として再定義し、場が人間に促すアフォーダンスの本質を突いた、生態学的知覚論の基本文献です。
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