広報PR|笑える革命――PRナラティブの実装|PRの野性を再起動する #8
笑える革命。
その核心にあるのは、社会課題を明るく見せるための演出ではありません。正しさや義務感によって冷たく凍りついた人と人との関係に、もう一度、自然に近づける「温度」を取り戻す試みです。
私自身、『笑える革命』(光文社、2022年)の著者である小国士朗氏の仕事には以前から強い関心を持っていました。『注文をまちがえる料理店』プロジェクトに初めて触れたとき、これは認知症への理解を促すハートウォーミングなプロジェクトにとどまらず、社会課題の「語られ方(ナラティブ)」そのものを変えてしまう実践であると直感したのです。
実はそれ以前にも、NHK時代に小国氏がプロデュースしたスマートフォンアプリ「プロフェッショナル 私の流儀」の仕事に、当時私が審査員を務めていたアワードのエントリー作品として接する機会があり、その頃から彼のユニークな視点に注目をしていました。完成された人気コンテンツをテレビ番組の枠に閉じ込めず、受け手が自らの物語として参加できる体験へと変換していく力——その身体的なアプローチの延長線上に、『笑える革命』の思想があるように思います。
シリーズ「PRの野性を再起動する」7号では、脳化し記号化してしまったPR実務をもう一度身体へと奪還するために、「五感と知性の環流」という思考のフレームを提示しました。五感によって現場の微細な違和感を拾い上げ、知性でその構造を解剖し、人々が思わず参加したくなる言葉や場へと翻訳していく。この往復運動こそが、硬直したナラティブをもう一度社会へ開くための実務であると結論づけました。
本稿では、その環流の回路が実際の社会の摩擦面においてどのように立ち上がるのかを、小国士朗氏の『笑える革命』を通じて読み解きます。ただし目指すのは、「ユーモアさえあれば社会課題は伝わる」という方法論への帰着ではありません。重い正しさで凍った関係性を、誰もが関われる場へと変容させるための設計思想——それを実務家が学ぶべき提案として、考察していきます。

1. 正しさは、ときに人を遠ざける
1-1. 大義名分が呼び起こす「身構え」
社会課題を語ろうとする言葉は、その目的が崇高であればあるほど、しばしば過剰に正しくなりすぎてしまいます。理解促進、啓発、共生、多様性の確保、課題解決——これらはどれも現代社会において不可欠な概念であり、軽んじるべきものではありません。
しかしこれらのあまりに正しい言葉は、皮肉にも人々をその問題から遠ざける心理的障壁として機能することがあります。言葉の意味内容が間違っているからではない。「正しすぎる」がゆえに、受け手に過度な緊張を強いてしまうからです。
頭では十分に分かっているし、大切さにも同意する。反対する理由などどこにもない。けれど、自分がそのテーマに主体的に関わるには、どこか心理的な重荷を感じてしまう。間違った発言をして批判されてはいけない気がするし、生半可な気持ちで触れてはいけないデリケートな問題のように感じてしまう——。
1-2. 「同意するが、関わらない」という距離
その逡巡の瞬間、社会課題は生活者一人ひとりのリアルな日常から切り離され、どこか遠くの聖域へと祀り上げられてしまいます。「正しい取り組みだ」ということには全面的に同意する。しかし、自らはその問題の内側に入ろうとはしない。
多くの企業や団体は「正しいメッセージを正しく的確に伝えれば、人は合理的に動くはずだ」と考えがちです。しかし現実には、正論だけでは人間の身体は動きません。社会的な正しさが前面に強く押し出されれば出されるほど、人々は自らの振る舞いがその場にふさわしいかどうかを、慎重に点検し始めてしまいます。
シリーズ「PRの野性を再起動する」7号で考察した「動かなかった人々の沈黙する身体」の病理は、まさにこの正しさの包囲網の中でも発生しています。社会課題そのものが重すぎるから人が離れるのではありません。その課題への関わり方の回路が、あまりにも硬直して設計されているからこそ、人々は遠ざかっていくのです。
2. 『笑える革命』とは、関係性の再設計である
2-1. 固定化された「支援の構図」を解体する
『笑える革命』の本質は、社会課題の深刻さをオブラートに包んで面白おかしく見せることではありません。社会課題を取り巻く固定化した「関係性」を、組み替えることにあります。
社会課題の周囲には、無意識のうちに強固な非対称の関係が構築されていきます。当事者と非当事者、支援する側と支援される側、教える側と理解すべき側。
善意から始まったはずの啓発の営みが、いつの間にか、関わるすべての人を緊張させ分断する見えない構図をつくり出してしまうのです。
『注文をまちがえる料理店』は、この硬直した関係性をきわめて鮮やかにずらしてみせました。認知症を抱える人々は、一方的にケアされ保護されるだけの弱者ではありません。エプロンを身にまとい、現場で躍動するホールの給仕スタッフそのものです。同時に、そこを訪れる客もまた、完璧なサービスを要求するだけの顧客ではありません。発生するかもしれない「間違い」をあらかじめ織り込み、それを当事者と共に受け止め、そのハプニングを楽しむ能動的な参加者へと変容しているのです。
2-2. エラーが、関係をひらく
注文を間違えるという事象は、通常のサービス設計であれば排除されるべきエラーです。しかしこの場においてだけは、その間違いというノイズそのものが、人と人との新しい関係をひらく入口へと変わります。
ハンバーグを注文したはずなのに、目の前に餃子が運ばれてくる。自分の予想していた現実とは少しだけズレている。けれど、まあいいか、と微笑む。むしろ、その予期せぬズレが張り詰めた現場の空気を一瞬で温め、そこにいる人々の身体を弛緩させていく。
ここで発生していることは、その場に流れる「関係性の再設計」そのものです。認知症を正しく理解してくださいと外側から啓発するのではなく、認知症のある人と私たちはどのように豊かに関わり合えるのかを、料理店という具体的な空間と身体感覚の中でリアルに体験させている。
ここで機能している笑いは、固定化された非対称な関係を、ほんの少しだけほどくための入口なのです。
2-3. 「関係をほどく笑い」の倫理
この本質を取り違えてしまうと、『笑える革命』の思想は危ういものに変貌しかねません。笑いというアプローチは、扱い方を一歩誤れば、容易に他者を傷つけ、社会課題の深刻さを茶化すだけのエンターテインメントへと変わる危険を孕んでいます。
しかし小国氏の実践が証明しているのは、そのような残酷な笑いの消費ではありません。固まった関係をほどくための笑い。正しさの重圧によって硬直したコミュニケーションの場に、誰もが自然に近づけるだけの温度を回復させるための笑い。
それが『笑える革命』の核に宿る、実装思想としての強さです。
3. 北風型PRから、太陽型PRへ
3-1. 正しさを吹きつけるほど、人は身を固くする
従来の社会課題コミュニケーションは、その多くが構造的に「北風型」へと陥りがちでした。この深刻な現状を知ってください、理解してください、支援してください、正しい行動を選択してください。
投げかけられているメッセージ自体は、何一つ間違っていません。
しかしその絶対的な正しさを正面から強く吹きつけられれば吹きつけられるほど、受け手である人間は自らの防衛本能を作動させ、コートの襟を立てるように身を固くしてしまいます。「あなたはまだこの問題を理解していない」「あなたはもっと強い関心を持つべきだ」——メッセージがそのように抑圧的に響いた瞬間、生活者は無意識のうちに心のシャッターを下ろすのです。
3-2. 「参加が先、意味はあと」という反転
対照的に、『笑える革命』が提示するのは、人間の身体性を信頼する「太陽型」のコミュニケーション設計です。
なんだか直感的に面白そうだから行ってみる。これなら自分のような未熟な人間でも関われそうだと思える。体験した喜びを誰かに自分の言葉で話したくなる。そして気づいたときには、大きな覚悟を持つ前に、もうそのプロジェクトの当事者として巻き込まれている。
ここでは、左脳的なロジックで頭を説得される前に、五感の誘引によって身体が先に現地へと近づいています。社会課題の全貌を完璧に理解したから参加するのではない。楽しそうな場にまず身体ごと参加してみた結果として、翻ってその社会課題に対する見え方が、後からガラリと変わってしまうのです。
一般的なコミュニケーション設計では、「認知→理解→共感→行動」という直線的なステップが前提とされてきました。しかし生身の人間は、常にその綺麗に舗装された階段を順番通りに登ってくれるわけではありません。
『笑える革命』はこの順番を鮮やかに反転させます。参加が先、意味はあと。正しさという容赦のない北風で無理やりコートを剥ぎ取るのではない。人々が自らコートを脱ぎ捨てて歩み寄ってしまうような「温度」を空間の中に創り出すこと。そのとき、社会課題は遠くの立派なテーマであることをやめ、一人ひとりの生活の延長線上で関わることのできる、生きた場へと変容するのです。
4. 認知からではなく、動詞から始める
4-1. 身体に届く「小さな動詞」の設計
『笑える革命』が現代のPR実務に示している重要な示唆は、ナラティブの社会実装が「説明(テキスト)」からではなく、「動詞(アクション)」の設計から始まるという事実です。
客観的に理解する、深く共感する、当事者を支援する——これらは社会課題の文脈において頻繁に使われてきた、高潔な動詞の数々です。しかしこれらの言葉は、一般の生活者にとって日常の中で引き受けるには少し重い。
一方で、小国氏のプロジェクトが人々の間に配置していく動詞は、人間の日常や身体感覚に近い、具体的な手触りを持っています。料理を食べる、注文を間違える、そのハプニングに笑う、場に参加する、そしてその体験を誰かに話す。
『注文をまちがえる料理店』の空間に足を踏み入れたならば、客はまず「食べる」という極めて日常的な身体行為からスタートします。そのプロセスの途上で、微笑ましい「間違い」に不意に出会う。緊張をほどき、当事者と共に「笑う」。そして、その忘れがたい固有の経験を、店を出たあとに「誰かに話す」。この動詞の連鎖の中で、人々の内側にある認知症への見え方は、静かに変わっていくことになります。
4-2. 「何を伝えるか」から「どの動詞で関われるか」へ
「認知症という病を正しく理解しましょう」という頭脳に向けた抽象的な説明から始めるのではありません。「注文が少しまちがって出てきても、まあいいか」と、個の身体が直感的に寛容さを覚えてしまう動的な場から始める。ここにこそ、脳化したフレームワークからナラティブを現実の社会へ救出するための実装の技術があります。
ナラティブは、広報室で美しく書き上げた高邁なステートメントから始まるとは限りません。一人の生活者が何の身構えもなく飛び込める、具体的な「動詞」の設計からこそ立ち上がるものなのです。
企業のPRにおいても、この視座は強力に応用できます。社会課題やパーパスを語ろうとするとき、実務家が自らに問い直すべきは「何を伝えるべきか」ではありません。「社会の側にいる個の身体は、一体どのような具体的な『動詞』からであれば、このテーマに関われるのか」という徹底した客観的視点です。見る、触れる、試す、選ぶ、誰かと対話する——ハードルの低い小さな動詞をコミュニケーション空間の中に設計できたとき、ナラティブは企業の内側からではなく、社会を生きる人々の身体の側から、野性的な熱量を持って自発的に立ち上がり始めるのです。
5. 不完全さを、参加の入口に変える
5-1. エラーを排除しない設計思想
近代的な組織マネジメントのロジックは、本質的に「不完全さ」を排除しようとします。業務上の間違いはなくす。予期せぬ失敗は未然に防ぐ。人間の弱さは内側に隠す。あらゆる想定外のノイズはリスクとして潰しておく。
当然ながら、これらの防衛策は組織運営においては必要不可欠です。しかし一方で、私たちが生きている人間の現実というものは、そもそも割り切れない不完全さによって構成されていることも事実です。自分の本心をうまく言葉にできないもどかしさ。突発的に起きてしまう計算違い。大切なことをふと失念してしまう物忘れ。他者の視線を前にした微かな照れや、現場に漂う気まずさ。
『笑える革命』が実務として強度を持つのは、効率主義の近代マネジメントが「排除すべきノイズ」として切り捨ててきた、これら人間の不完全さを決して見捨てず、むしろコミュニケーションを駆動させるための資源として受け入れている点にあります。
5-2. 不完全さが、新しい関係を生む
『注文をまちがえる料理店』の空間において、注文の間違いという事象は、システムから消去すべきエラーとしては扱われません。むしろ、その場を成立させる最もコアな価値として機能しています。
間違いという予測不可能なノイズが目の前で発生した瞬間、客は提供側を一方的に咎める冷徹な消費者の立場を捨て、そのハプニングを当事者と共に受け止める能動的な参加者へと、自らのあり方を組み替えてしまうのです。
ここで起きていることは、人は「説得されて動かされる」ということでも、「最初から強い意志で社会課題に向える存在である」ということでもない。気づけばその場の内側に入り、自分の言葉で語り始めている。この能動とも受動とも言い切れない中動態的な巻き込みに、『笑える革命』の強さがあります。
ここでは、文化人類学 クロード・レヴィ=ストロースが提唱した「ブリコラージュ」という概念が、鮮やかに機能しています。
ブリコラージュとは、まず目的のための理想の設計図を描き、その通りに人を動かす「エンジニアリング」の概念と対極にある概念であり、目の前にある不完全な現実の素材をありのままに受け取り、その歪みやズレを活かしながら、別の豊かな関係性をその場で柔軟に組み立て直していく姿勢のことです。認知症を抱える人々が注文を間違えるという厳然たるファクトを、管理の失敗として処理するのではありません。この社会が「間違い」というノイズに対して、一体どこまで寛容に関われるかを問い直す実験場への変容。これこそがまさに、ブリコラージュの思想そのものなのです。
「PRの野性」とは、欠点のない綺麗な物語をデスクの上で作文する能力ではなく、目の前にある割り切れない不完全な現実の中に、新しい関係性が開く一瞬の臨界点を見出す観察の知性であり、『注文をまちがえる料理店』にはこの知性が貫かれているのです。
6. PR実務への翻訳|笑わせるのではなく、関われる場をつくる
6-1. 表層的なユーモアという罠
ここで、私たち実務家が注意しなければならない点があります。コーポレートPRやブランドコミュニケーションの現場が『笑える革命』の思想から学ぶべきなのは、「これからはユーモアや笑いを取り入れればいいのだ」という、表層的な戦術の量産では決してないということです。
笑いというアプローチは両刃の剣です。扱い方を一歩誤れば、当事者の抱える痛みを残酷に傷つけ、深刻な社会課題を消費するだけのエンターテインメントへと変容します。
私たちが本当に学ぶべきなのは、笑いの奥底にある「関係性をほどくための設計思想」なのです。
6-2. 「伝達の論理」から「接近の論理」へ
私たちが向き合う社会課題に対して、一般の生活者はどこのポイントで心理的に身構えているのか。私たちが発信しているどの正しい言葉が、人々をかえって硬直させ遠ざけてしまっているのか。当事者と非当事者とのあいだにある断絶は、どのような構造によって固定化されているのか——。
そして、企業側はいつの間にか社会に対して「教える側」の特権的なポジションに立ってはいないか。生活者のことを、単に「まだ我が社のパーパスへの理解が足りない人々」として扱ってはいないか。彼らを誘う参加の入口は、引き受けるにはあまりにも重すぎる大義名分になってはいないか。
広報PRの実務家が現場で見つめるべきなのは、この「関係性の摩擦面」です。大衆を笑わせること自体が目的ではない。人々が身構えることなく、その問題に近づき、自らの意志で関われる「状態」を創り出すことが真の目的です。
『注文をまちがえる料理店』の設計が強度を持つのは、認知症についての説明を社会に行う前に、誰もが自然に参加できる具体的な「場」を物理的に立ち上げてしまっていることに起因します。「認知症について正しく理解してください」と左脳に向かって訴えるのではなく、「まずはここに来て、料理を食べて、そこで発生するかもしれない小さくて愛おしい間違いに出会ってみてください」という、身体に直結した低い入口を用意した。その結果、人々は頭で道徳的に理解するよりも遥かに速く、自らの五感を通じて、その課題との関係性を幸福に結び直すことになったのです。
これは、社会課題プロジェクトだけの話ではありません。サステナビリティ、地域共創、採用広報、人的資本経営。企業がパーパスを社会に開こうとするあらゆる場面で、「何を伝えるか」ではなく、「どの動詞から関われるか」という接近の論理が問われています。
最初から非の打ち所がない完璧な説明文を配置すれば、組織としての体裁は整います。しかしその過剰に整いすぎた言葉は、往々にして生活者を心理的に気圧し、遠ざけてしまう。
だからこそ、人々が自らの文脈でその物語を語り直したくなるような余白をあらかじめ仕込んでおくこと。そのような実務のあり方が、現代社会にあっても良いはずです。それは広報PRの責任を軽薄にすることではありません。企業の独りよがりな発信を止め、社会との関係をより深く結び直すための、高度でタフな実務なのです。
7. 次回予告——ニュースリリース一本から始める
次回は、この考え方をPR実務の最小単位の一つであるニュースリリース一本にどう宿すかを考えます。
ファクトは必要です。しかし、ファクトだけでは閉じている。
閉じたファクトを、開かれたナラティブへ変えるには何が必要なのか。次号では、そこに踏み込みます。
今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。
参考文献
小国士朗『笑える革命』光文社、2022年。
著者プロフイル
株式会社小国士朗事務所 代表取締役/プロデューサー。2003年NHKに入局。ドキュメンタリー番組を制作するかたわら、200万ダウンロードを記録したスマホアプリ「プロフェッショナル 私の流儀」の企画立案や世界1億再生を突破した動画を含む、SNS向けの動画配信サービス「NHK1.5チャンネル」の編集長の他、個人的プロジェクトとして、世界150か国に配信された、認知症の人がホールスタッフをつとめる「注文をまちがえる料理店」などをてがける。2018年6月をもってNHKを退局、フリーランスのプロデューサーとして活動。
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