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火星——赤い地平の向こう(3):第1章 観測と理論——火星が動かした科学(1)

第1章 観測と理論——火星が動かした科学

1.1 夜空の赤い星

火星は、古代から人類に最も強い印象を与えてきた惑星の一つである。夜空に浮かぶその独特の赤は、しばしば血や火、そして闘争と結びつけられた。

しかし、火星が人々を翻弄したのはその色だけではない。その「動き」こそが最大の謎であった。 惑星(planet)という言葉は、ギリシャ語の「さまよう者」(planetes)に由来する。 恒星が天球に固定されているのに対し、火星はある時期になると空の中で逆向きに動く「逆行運動」を示す。この奇妙な動きは、長らく東西の天文学者たちを悩ませてきた。

火星観測の組織的な記録は、紀元前のメソポタミア、バビロニアにまで遡る。彼らは火星を「サルバタヌ(Salbatanu:「赤い」の意)」と呼び、疫病と死、そして冥界を司る神ネルガル (Nergal)と結びつけた。

バビロニアの天文学者たちの卓越した点は、その徹底した「記録」にある。彼らは粘土板に火星の出没や逆行の時期を数世紀にわたって刻み続け、火星が特定の周期(複数の会合周期が整数比に近づく長期周期)で動くことを数学的に導き出していた。この冷徹なまでのデータ志向が、後の西洋天文学の基礎を築くことになる。

このバビロニアの知識を継承した古代ギリシャでは、火星は破壊を司る軍神アレスの名で呼ばれた。続くローマ帝国においてその地位はより複雑で崇高なものへと変わる。ローマの守護神マルスは、戦争の神であると同時に農業の守護者でもあり、建国者ロムルスの父として崇められた。3月(March)が彼の名に由来するのは、農耕の開始と軍隊の遠征が重なる季節を彼が司っていたからである。

古代ローマの博物学者プリニウスは、その著書『博物誌』の中で火星を「燃えるような、恐るべき星」と形容した。彼は火星が示す不規則な軌道を、天界における過剰な「熱」の象徴として捉えていた。このイメージは中世まで続き、占星術の世界で火星は「小凶星(Lesser Malefic)」として、紛争や火災、あるいは人間の体内の熱病を引き起こす不吉な存在として位置づけられた。

同様の視線は、東洋の地でも注がれていた。古代中国において、火星は「熒惑(けいこく)」と呼ばれた。「火のように赤く輝き、その動きで人を惑わせるもの」という意味である。五行思想では「火」の属性を与えられ、この星がさそり座のアンタレス(心宿二)付近で停滞・逆行する「熒惑守心(けいこくしゅしん)」は、皇帝の死や国家の動乱を告げる最悪の凶兆として、日本でも深く恐れられた。

古代の宇宙モデルは地球中心(天動説)であった。2世紀のプトレマイオスは、この逆行運動を説明するために「周転円」という複雑な軌道モデルを考案した。惑星は大きな円(導円)に沿って動きながら、同時に小さな円(周転円)を描くとされたのである。 この幾何学的なモデルは驚くほど精密であったが、観測データが積み重なるにつれ、その複雑さは限界を露呈していくことになる。

天動説という「頭の中の計算」で星の動きを追っていた時代、火星は依然として「点」であり、象徴であった。 この「点」が、望遠鏡という武器を得て「風景」へと変わり始めるのは17世紀以降のことである。西洋でケプラーやニュートンが物理的な宇宙像を確立していく一方で、日本では時代が下るが、江戸時代の国友一貫斎が自作の望遠鏡で火星の表面をスケッチし、その実体を見極めようとしていた。 こうした「計算による解明」と「視覚による発見」が交差する中で、人類の宇宙観は劇的な転換点を迎えることになる。

1.2 コペルニクスの転回

16世紀、ニコラウス・コペルニクスは『天球の回転について』(1543年)において、地球ではなく太陽を中心に置く宇宙モデルを提唱した。このモデルでは、惑星の逆行運動は見かけ上の現象として説明される。地球が火星を追い越すとき、火星は逆向きに動いているように見える——ちょうど、走る電車の窓から別の電車を見たときのように。

コペルニクスの体系は、宇宙の構造を根本から変えた。だがそれでも、彼は惑星の軌道を円であると仮定していた。円は完全な図形であり、天体の運動もまた完全であるべきだという、古代ギリシャ以来の信念が残っていたからだ。

この信念を打ち破ったのが、ヨハネス・ケプラーである。

1.3 ケプラーと火星——楕円の発見

ケプラーは、師であるティコ・ブラーエが残した膨大な天体観測データを引き継いだ。ティコの観測は、望遠鏡以前の時代において最も精密なものであった。ケプラーはこのデータを用いて、惑星の軌道を正確に記述するモデルを探求した。

そして彼が取り組んだのが、火星であった。

火星は、他の惑星に比べて軌道の離心率が大きい。つまり、円からのずれが顕著なのだ。ケプラーは火星の観測データと円軌道モデルを照合し、わずか8分角(1度の8分の1)のずれを発見した。もしケプラーがこのずれを誤差として無視していたら、惑星運動の法則は発見されなかっただろう。だが彼は、ティコの観測精度を信じ、円ではない別の曲線を探った。

そして1605年、ケプラーは楕円軌道という答えに到達する。

彼の著作『新天文学』(1609年)の副題は、「原因論に基づく天体物理学、すなわち火星の運動についての注解」である。火星は、その名を冠されるほど、ケプラーの理論にとって決定的であった。

ケプラーの三つの法則——第一法則(楕円軌道の法則)、第二法則(面積速度一定の法則)、第三法則(調和の法則)——は、のちにニュートンの万有引力の法則によって統一的に説明されることになる。だが重要なのは、ケプラーが火星の観測データに忠実であり続けたことだ。火星は、近代天文学の誕生において、単なる対象ではなく、理論転換の触媒であった。

1.4 ケプラーと「世界の調和」

ケプラーは近代科学者であると同時に、古代・中世的な宇宙観の最後の継承者でもあった。彼は『宇宙の神秘』(Mysterium Cosmographicum, 1596年)、『世界の調和』(Harmonices Mundi, 1619年)の著者でもあり、アリストテレスが『形而上学』第1巻第5章で「数の構成要素をすべて存在の構成要素であると判断し、天界全体をも音階(調和)であり数であると考えた」と記述するような意味合いでのピタゴラス派の末裔であった。
アウグスティヌスが『音楽論』において算術、幾何学、天文学、音楽の四学科に分かたれると記述する文脈での、それらを包括する意味合いにおける「数学者」の一人であったことを思い起こすべきだろう。
『世界の調和』においてケプラーは、太陽系の惑星(当時はまだ6つだが)のおのおのが角速度を変えつつ軌道を動くときに奏でている音楽を書き留めてさえいる。惑星の軌道速度の比を音程に転写し、天球の音楽を譜面に記したのだ。火星もまた、その音階の一部を担っていた。
ここで火星は、音響的実在ではなく、数学的比例関係として音楽に接続される。火星は響くのではなく、計算される。この数的な火星像は、のちに本書が扱う「火星は響くか」という問いへの一つの前史となる。

1.5 望遠鏡の時代——表面の発見

1610年、ガリレオ・ガリレイは望遠鏡を用いて天体観測を開始した。彼は月のクレーター、木星の衛星、金星の満ち欠けを発見した。だが火星については、望遠鏡の性能が不十分であり、詳細な観測は困難であった。
17世紀後半になると、より高性能な望遠鏡が製作されるようになる。1659年、クリスティアーン・ホイヘンスは火星表面の暗い模様を観測し、スケッチに残した。彼が描いたのは、現在「シルチス・マジョル」と呼ばれる三角形の暗い領域である。ホイヘンスはこの模様の位置変化から、火星の自転周期がおよそ24時間であることを推定した。
1666年、ジョヴァンニ・カッシーニは火星の極地に白い領域——極冠——を観測した。この白い領域は季節によって大きさが変化することも確認された。極冠の存在は、火星が地球と似た季節変化を持つ可能性を示唆した。
火星は、点から円盤へ、そして模様を持つ天体へと変貌していった。
こうした「風景としての火星」への移行は、西洋に限ったことではなかった。19世紀前半の日本において、近江国の発明家・国友一貫斎は、独学でグレゴリー式反射望遠鏡を完成させている。1836年(天保7年)、彼はその望遠鏡を火星に向け、克明なスケッチを残した。そこにはホイヘンスが描いたものと同じ暗い模様(大シルチス)が捉えられており、一貫斎はその模様の変化から火星の自転についても考察を巡らせていた。
東洋の伝統的な星占の文脈において火星は依然として「熒惑」という凶兆であったが、一貫斎のレンズはそれを物理的な実体を持つ「地表」として切り出したのである。もっとも、民衆の意識の中でこの二つの火星像が完全に分離するには時間を要した。一貫斎の没後、1877年の火星大接近において、人々が赤い星の中に西郷隆盛の姿を見た「西郷星」の騒動は、古代からの神話的想像力と、望遠鏡がもたらした実体的な視覚体験が奇妙に混ざり合った、過渡期の象徴的な出来事であったと言えるだろう。
そしてこの1877年、火星観測の歴史はさらなる決定的な転換点を迎える。

(続く)

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(2026.2.22 公開、3.3 改訂)

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