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火星——赤い地平の向こう(19):第4章 火星の進化史——持続できなかった惑星(2)

(承前)

4.2 ノアキアン期(約41–37億年前)——水の時代

火星の地質年代は、地表の地形とクレーター密度に基づいて区分されている。最も古い時代は「ノアキアン期」(Noachian)と呼ばれる。この名称は、旧約聖書のノアの洪水に由来する。それほどまでに、この時期の火星には水が豊富にあったと考えられている。

水の痕跡——河川、湖、デルタ

ノアキアン期の火星には、河川地形が形成された。樹枝状の谷——デンドライト(dendritic valley)——は、降雨による侵食を示唆する。クレーター内には湖が存在した可能性がある。デルタ構造も確認されており、河川が湖や海に流れ込んでいたことを示している。
粘土鉱物——フィロケイ酸塩(phyllosilicate)——もこの時期の地層に多く見られる。粘土鉱物は、水と岩石が長期間接触することで形成される。しかも、その形成には中性から弱アルカリ性の水が必要である。つまり、ノアキアン期の火星には、酸性ではない、生命に適した水環境が存在した可能性がある。

「温暖で湿潤」か「寒冷で湿潤」か

ここで重要な問いがある。ノアキアン期の火星は、どのような気候であったのか。
一つの仮説は、「温暖で湿潤」(Warm and Wet)モデルである。この仮説によれば、ノアキアン期の火星は厚い大気を持ち、温室効果によって平均気温が0度以上に保たれていた。その結果、液体の水が安定して存在し、降雨があり、河川が流れ、湖や海が存在した。
しかしこのモデルには問題がある。若い太陽は現在よりも暗かった(「暗い太陽のパラドックス」)。太陽の光度が現在の約70パーセントしかなかった時代に、火星がどのようにして温暖な気候を維持できたのか。二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスが大量にあったとしても、計算上は火星を十分に温めることが困難である。
もう一つの仮説は、「寒冷で湿潤」(Cold and Icy)モデルである。この仮説によれば、ノアキアン期の火星は基本的には寒冷であり、表面の大部分は氷に覆われていた。火山活動や大規模な衝突などのイベントが起こると、一時的に大量の熱が解放され、氷が融解し、短期間だけ液体の水が流れた。
この間欠的な融解によって、河川地形やデルタが形成された可能性がある。水は常に流れていたのではなく、数千年から数万年の短い期間だけ流れ、その後再び凍結した。
現在の火星科学では、「寒冷で湿潤」モデルがやや優勢である。河川地形の多くは、短期間の大規模な水の流出(outflow)によって形成された可能性が高い。持続的な降雨による侵食ではなく、間欠的な融解イベントによる侵食。

不安定な水環境

いずれのモデルであっても、ノアキアン期の火星の水環境は、地球と比べて不安定であったと考えられる。
地球では、海洋が存在し、水循環が安定して機能し、気候が長期的に調整されている。地球の水環境は、数十億年にわたって持続している。
火星では、たとえノアキアン期に液体の水が存在したとしても、その持続期間は短かった可能性がある。「温暖で湿潤」モデルであっても、温暖な気候がどれほど持続したかは不明である。「寒冷で湿潤」モデルであれば、液体の水が流れたのは間欠的な短期間のみである。
つまり、ノアキアン期の火星は一時的に地球と類似した水環境を持っていた可能性があるが、その「一時的」という性質が重要である。火星の水環境は、持続しなかった。

海洋の不在?

しかし重要なのは、火星に安定した海が存在していたかどうかは依然として不明であるという点だ。
河川、湖、デルタの証拠はある。だが大規模な海洋の決定的な証拠は見つかっていない。一部の研究者は、火星の北半球低地に海洋が存在した可能性を主張している。北半球低地の標高が低く、滑らかであることは、かつてそこが海底であったことを示唆するかもしれない。
しかし反論もある。海岸線と思われる地形の標高が一定でないこと、波による侵食の痕跡が明確でないこと、海洋が存在するために必要な大気圧と気温の条件を火星が満たしていたかどうか不明であること。
仮に海洋が存在したとしても、それは短命であった可能性が高い。数百万年から数千万年程度。地球の海洋が数十億年持続しているのと比べれば、極めて短い。

生命の可能性

ちょうどこの頃、地球では生命が誕生していた。最古の生命の痕跡は約38億年前の地層に見られる。
もし火星にも同様の水環境があったとすれば、火星でも生命が誕生した可能性はゼロではない。液体の水、エネルギー源(火山活動、紫外線、化学的勾配)、有機分子。これらの条件が、一時的にせよ存在した可能性がある。
しかしここでもまた、「持続性」が問題となる。地球の生命は、安定した水環境の中で誕生し、進化してきた。火星の水環境が間欠的で不安定であったとすれば、生命が誕生しても、その生命が持続的に進化できたかどうかは疑問である。

ノアキアン期の終わり

だがノアキアン期は、長くは続かなかった。
約37億年前頃、火星の環境は変化し始めた。磁場は既に失われつつあった。大気は散逸し始めた。気温は低下し、水は凍結し始めた。
ノアキアン期の「水の時代」は終わり、火星は次の段階——ヘスペリアン期——へと移行する。そしてその移行は、火星が「持続できなかった惑星」への道を決定づけるものであった。

(続く)

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(2026.3.10 公開)

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