見出し画像

「日常」に学ぶ、お笑いのメカニズム

今夏、久しぶりに京都アニメーションの新作シリーズがスタートするという話を小耳に挟んだ。
それは「CITY」というあらゐけいいち原作漫画のアニメ化で、それは伝説のギャグアニメ「日常」のパラレルワールド的世界観というものらしい。

これ、イイな~。
けいおん」の豊崎愛生や「ヴァイオレットエヴァーガーデン」の石川由依をメインに据えるあたり、いかにも「京アニが帰ってきました」という感じがする。
2019年の例の火災以降、京アニは「小林さんちのメイドラゴン」「ツルネ」「響けユーフォニアム」など、以前からあったものの続編ばかりで、新作を出さないから寂しかったんですよ。

で、満を持しての新作が、あらゐ作品というのがまた嬉しいじゃないか!
というわけで、私は最近、復習の意味を込めて「日常」の再視聴をしている毎日です。

「日常」(2011年)

監督/石原立也

この「日常」は、ある意味、京アニにとってエポックメイキング的意味合いをもつ作品ですわ。
というのも、当時は「京アニ作品は絶対にヒットする」という一種の神話があった中で、

「日常」は円盤売上が僅かに3500枚という、もうトンデモない大爆死をしてしまったアニメなんです。

(参考/「涼宮ハルヒ」41000枚、「けいおん」43000枚)

じゃ、「日常」は面白くないアニメだったのか?
・・いや、そんなことはない。
誰に聞いても、ほぼ例外なく皆「めっちゃ面白い」と言う。
つまり、

たとえ面白くても、円盤が売れないこともある

というアニメ界の不条理を我々に教えてくれた作品なんだよね・・。

ただ、よく聞く話は「『日常』は海外(特に米国)で異様に人気が高い」ということである。
しかも、作品がリリースされて10年以上経過してる今もなお、盤石で根強い人気を誇ってるという。

「日常」15周年記念BOXセット

2021年に「『日常』15周年記念BOXセット(漫画単行本)」というのが出たそうなんだけど、それが英語版のみの発売で、なぜか日本語版は出なかったんだってさ(笑)。
で、アニメの方も「Crunchyroll」(←主催は米国)が選んだ「2010年代を代表するアニメ25選」の中に、ちゃっかり「日常」が入ってたみたいなんです。
外国人って、どんだけ「日常」好きなのよ・・。

ひょっとしたら今回の「CITY」アニメ化も、そういう世界市場を見込んでの動きかもしれん。

OVA「日常」第0話  時間約23分


で、「『日常』の円盤が売れなかった」という話に戻すんだが、そのへんは当時のKADOKAWAのマーケティングの問題など、後々になって色々と指摘をされたこともあったのね。
でも、そういう表層のことはともかく、私はもっと根本的なところに理由があったんじゃないかな・・と。
私の個人的見解は、こうです↓↓

「日常」はアニメとして変に完成度が高かったからこそ、逆にヒットしなかったのでは?と。

・・うん、何言ってるのか意味分からないよね(笑)。
ごめんなさい。
順を追って説明します。

まず、この「日常」と比較しやすいサンプルとして、同じ4コマギャグ漫画系の「らき☆すた」をピックアップしようと思う。
ちなみに、「らき☆すた」の円盤売上は約29000枚(07年春クールにおいてダントツ首位)。

で、敢えてこのふたつを見比べてみた時、まず気付くのが「らき☆すた」の<粗>なんだよ。
ぶっちゃけ、かなり雑な作りといってイイ。
それはプロット構成、声優の演技、演出、その全てにおいてである。
ところが不思議なもんで、なぜか、こうした<粗>が作品の弱点にはなっておらず、むしろ「らき☆すた」独特の魅力として機能してるんだ。
一種の「ライブ感」とでもいえばいいんだろうか。
たとえばの話だが、音源として「ライブ」と「CD」を比較すれば音の完成度として明らかに前者の方が劣るものの、でも意外と惹きつけられるのもまた前者(ライブ)の方だったりするでしょ?
つまり、そういうことなんだ。

「らき☆すた」

一方、「日常」の方はプロット構成、声優の演技、演出、その全てにおいて<粗>といえるほどのものがほとんど見当たらない。
とにかく、今改めて見ると驚くほど完成度が高いのよ。

このへんの「らき☆すた」⇔「日常」の差が結局のところ何なのかというと、突き詰めれば「制作体制の差」じゃないか、と。

まず有名な話、「らき☆すた」はシーズン途中で予定外だった監督の交替が生じている。
もはや、途中から緊急のスクランブル体制だったということ。
それを踏まえて作品を見ると、「ひぃ~っ!」と悲鳴を上げながら描いてるアニメーターさんの熱量がこっちにも伝わってくるんだよね(笑)。

一方、「日常」の方の制作体制はかなり盤石である。

総監督:石原立也
副監督:石立太一
総作画監督:西屋太志
脚本:花田十輝

絵コンテ/演出:石原立也、石立太一、武本康弘、山田尚子、木上益治、内海紘子、北之原孝將etc
作画監督:西屋太志、堀口悠紀子、池田晶子、池田和美、門脇未来、植野千世子、高橋博行etc

で、この作品では<チーム>の単位で制作に臨むのが方針なのか、たとえば山田尚子を例にとると、彼女は「けいおん」の時の盟友・堀口悠紀子と必ずタッグを組んでるのさ。

山田尚子⇔堀口悠紀子
武本康弘⇔高橋博行
内海紘子⇔池田和美
木上益治⇔植野千世子
北之原孝將⇔池田和美


といった感じで<チーム>をある程度固め、その<チーム>で各々に担当回を受け持つ感じになっている。
たとえば山田尚子チームは第5話と第17話を担当、という感じ。

「日常」第5話

で、こういう制作体制の安定感もあってか、「日常」はどの回を見ても安定してクオリティが高いのよ。
終始一貫、全くブレない。
特に、個人的に「スゴイなぁ」と思うのが↑↑の<チーム>体制においては
木上益治⇔植野千世子のタッグである。
「日常」における伝説の神回として昔から有名なのが、「焼きサバ」回「ヒヤシンス」回でしょ?
これ、第14話と第20話なんだが、実はどっちもが木上⇔植野の担当回なんだよね。

第20話「ヒヤシンス回」

改めて見て、完璧だな~とつくづく思う。
いやホント、完成度がめちゃくちゃ高い。

でも、この類い稀ともいうべき完成度が、逆に「らき☆すた」の時のような汗みどろの「ライブ感」を感じさせなかった、という趣きはあるだろう。
実はポイントが、そこなんだよね。
いや、それはまさしく「京アニの成長」の証だし、もはやどうしようもないことなんだけどさ・・(笑)。

<お笑いのメカニズムについて>

「8時だよ!全員集合」
「俺たちひょうきん族」

少し視点を変えよう。
ひとつ、80年代のテレビのお笑いについて。

実は80年代の土曜8時という時間帯、
「8時だよ!全員集合」(TBS)vs「俺たちひょうきん族」(フジ)
という視聴率争いのデッドヒートがあったのね。
で、このふたつの番組、実は番組制作の取り組みにおいて、かなり対照的というべきスタイルだったのよ。

「8時だヨ!全員集合」

⇒綿密にリハーサルと打ち合わせを繰り返して、徹底的にコントの完成度を上げていくスタイル

「俺たちひょうきん族」

⇒事前準備にはあまり時間をさかず、「ぶっつけ本番」のお笑いの<ナマ>の感覚をもって即興で組み上げていくスタイル

よく覚えてないんだが、結局のところ後発の「ひょうきん族」が、それまで難攻不落とされてた絶対王者「全員集合」を遂に視聴率で上回るという展開になったと記憶する。
・・うん、めっちゃ作り込んでる側が、ロクに作り込んでない側に屈するというのも、お笑いの何とも不条理なところだわ。
いうなれば、
譜面をなぞる<クラシック>vs即興のフィーリングで演奏する<ジャズ>
というニュアンスの対決だったと思う。

まぁ、当時として「ひょうきん族」>「全員集合」という展開になったのはまぁイイとして、私がここで少し言及したいのは「令和の今、このふたつの番組を見てどう感じたのか?」というところなんだ。

「8時だよ!全員集合」

「俺たちひょうきん族」

ぶっちゃけると、これはあくまで私の感覚に過ぎないが、今改めて見ると「全員集合」の方が断然面白いんだよなぁ・・。
やっぱり長い歳月を経ると(俯瞰できるようになると)、どうしても作品を見る眼が「作り込んである方」に強く魅力を感じてしまうのよ。
もちろんリアルタイムに見る分には、また別の話なんだろうけどね。
このへんが、お笑いというものの難しいところである。

で、話題をまたモトに戻すが、私は

「日常」⇒「全員集合」系
「らき☆すた」⇒「ひょうきん族」系


というふうに解釈するわけです。
まぁ、どっちもそれぞれの良さがあるわけで、一概に優劣はつけられない。
ただ冒頭に述べた話、「『日常』が海外でやたら人気ある」というトピックについて、それって「志村けんが外国人にやたら人気ある」という現象にも通じるものがあるんじゃないかな、と思って。

やっぱりね、ちゃんと手間暇かけて作ってあるモノほど「時代」や「人種」
を超えるだけの普遍性があり、結局はそういうモノほど最終的に強いんじゃないかな・・と。
そして、この「最終的に」というのがひとつのミソであり、目先の円盤売上や目先の視聴率等でコンテンツの価値を早々に決めてほしくない、というのが私の中にあるんです。

・・そう、やはり「日常」は揺るぎない名作だということ。


そこを、皆さんにもよくご理解いただきたい。


いいなと思ったら応援しよう!