私は40歳を過ぎたら幸せになると思っていた
序章
小学三年生の頃だった。
なぜそう思ったのかはわからない。
けれど私は、
「私は40歳を過ぎたら幸せになる」
と確信していた。
将来の夢でもなければ願望でもない。
ただ、そうなることを知っているような確信であり決意だった。
今思うと、その頃の私も
父に愛されたかった。
けれど、
私には愛されている実感がなかった。
第一章 花火大会の夜
小学3年生の夏だった。
友達と地元の祭りに出かけた。
いとこのお下がりの浴衣。
白地に、おんどりの長い尾が描かれている。
母が買ってくれた下駄を履くと、自分が少し大人になったような気がした。
宝物を身につけているようで、うれしかった。
花火は20時を過ぎる頃から始まる。けれど門限は19時。
見られやしないのに、ぎりぎりまで粘って、美しいであろう花火に後ろ髪を引かれながら、家へ駆けだした。
玄関を開けて時計を見ると、19時1分。
「あ……」身体が固まった。
次の瞬間、
「ゆうたろがぁー!(言っただろうが!)」
父の怒鳴り声が飛んできた。
私は父が雑魚寝をしている目の前の、フローリングで正座を命じられた。
リビングのアナログ時計は、1分ごとにカチッと音を立てる。その音がやけに大きく聞こえた。
カチッ。
カチッ。
時は進んでいるはずなのに、なかなか進まない分針。
足がしびれてくる。熱を持ったようにじんじん痛む。
泣きたい。けれど、遅刻したのは私。私が悪いのだ。そう思った。
少しでも足を崩そうとすると、
「なんばしよっか!(何をしているんだ!)」
と怒鳴られる。
怖い。痛い。ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
21時頃になると、母が父に言った。
「もうよかろう(もういいでしょう)?」「トイレに行かせてよ」
すると父は怒鳴った。「なんば言いよっか(何を言っているんだ)!」「だいたい自分の子どもは殺してもよかとぞ!」
私は心の中で思った。
あーあ、お母さん。お願い、何も言わないでほしかった。
言えば言うほど長引くだけなのに。
父の機嫌の流れはよくわかる。人の言葉を差し挟むと壊滅的になる。だから黙って耐えるしかないのだ。
トイレも我慢した。
下半身の痛みはどんどん強くなる。
カチッ。カチッ。
22時を過ぎた頃、母が小声で言った。
「みっちゃん、もう良かよ。立たんね。パパ寝とっけん」
私が立ち上がろうとした、その瞬間。
「なんばしよっかー!おいは寝とらんぞ!」
父の声が飛んできた。
私は反射的に身を固くした。口の中を噛んだ。血の味がした。
カチッ。カチッ。カチッ。カチッ。
いつまで続くのだろう。私はそればかり考えていた。
零時になった。母が私の腕を引っ張ったが、私はもう立つつもりはなかった。
立てば負けたような気がしたからだ。
けれど父は私の方を向いたまま眠っていた。
私は布団まで引きずられるようにして運ばれ、そのまま泥のように眠った。
翌朝。父は何事もなかったかのように朝を迎えていた。
私はそんな父の背中を、じいっと射抜くように見た。
私は父に愛されたかったし、認められたかった。
けれどその頃の私には、自分が愛されているとはこれっぽっちも思えなかった。
私はその夜、
「私は40歳を過ぎたら幸せになる」
なぜかわからないけど、そう決めた。
第二章 幸せになる方法を探していた
実は私は、小学生の頃から「幸せになる方法」を探していた。
小学2年生から通っていた
習字教室の先生が、毎月一冊、
宗教の月刊誌を渡してくれた。
本来は大人向けの冊子だったのだと思う。
けれど私は、
それをむさぼるように読んだ。
どの児童書にも、
私が欲しい答えは載っていなかった。
私が知りたかったのは、
どうしたらこの苦しさから抜け出せるのか。どうしたら幸せになれるのか。そのことだけだった。
父はよく怒鳴った。家の中では四六時中、緊張が抜けなかった。
だから月刊誌の言葉が、救いのように思えた。
毎晩、布団の上で正座をし、
誌面に書かれていた言葉を唱え、頭を下げた。
笑顔でいられる家が欲しかった。今思えば、ずいぶん切実だったと思う。
それを一年近く続けた。
けれど、あの花火大会の夜がやってきた。
門限を1分過ぎただけで、私は5時間近く正座をすることになった。
祈っていたはずなのに。
幸せになるための言葉も唱えていたはずなのに。
「宗教は人を救わないんだ」
小学3年生の私なりの結論だった。
その日を境に、
正座をして祈ることをやめた。
その代わり、不思議なことを決めた。
私はその出来事の翌日、
「私は40歳を過ぎたら幸せになる」と決めたのだ。
なぜ40歳だったのか、
今でもわからない。
40歳とは、立派な大人であり、
自分の足でたち、
自分で人生を選べる人。
子どもの私には、
そんなふうに見えていたのかもしれない。
第三章 認められたくて勉強した
小学校の頃から、私は、
自分を頭がいいなんて、
夢にすら思えなかった。
頭の回転の鈍い冴えない子。
「こんバカが(この馬鹿野郎)」
そんな言葉を日常的に聞かされる家だった。
怒鳴る父もバカ。怒鳴られる母もバカ。その子どもの私もバカ。
そんなふうに思っていた。
ところが兄が中学生になると状況が変わった。
父は兄にだけこっそり小遣いを渡していた。
私にはしらふでは一度もなかった。
実は、ご機嫌に酔うと「金ばやろうか?」と言われたが、
要らないとそっぽを向いた。
父がしらふのときに欲しかったからだ。私も素直でなかった。
悔しかった。兄には腕力でも口でも悪知恵でも勝てない。
では何で勝つか。私に残されたものは勉強だった。
中学では必死にノートを見直し、何度も復習した。
定期テストでは点が取れたが、実力テストになると伸びない。
努力でなんとかしているだけ。地頭の程度は知れている。
だから結果が出ない度に、内臓がえぐられるように傷ついた。
それでも勉強をやめなかった。
兄より成績が良いことだけが、家の中での私の居場所だったのだ。
父に認めてほしかった。褒めてほしかった。
けれどその願いが叶うことはなかった。
通知表で4を取れば「5を取れ」。5を取れば「当たり前」。
そして必ず誰かと比べられた。
ゴールのない競争に、心底途方に暮れた。
それでも大学へ行こうと思った。
できれば家から少し離れたところへ。
遠く離れるほどの勇気もなかったが、
その頃の私は、家を出れば幸せになれると思っていたのだ。
第四章 親元を離れれば幸せになれると思っていた
高校2年生の冬、私は椎間板ヘルニアの手術を受けた。
中学から腰を痛めていて、県外の病院へ何度も検査に通った。
その片道2時間の送迎は
いつも父だった。
今思えば、
父は一生懸命だったのだと思う。
けれど当時の私には
その心は見えていなかった。
高校を卒業し、大学へ進学。
初めての一人暮らし。
父の怒声もない。
顔色をうかがう必要もない。
それなのに、毎日が空しかった。
嫌われるのが怖くて、
バイト仲間に食事をおごったり頼まれごとを引き受けたりした。
結果的に、パシリ的な存在になってしまっただけ。
関係は長続きしなかった。
反対に、本当に仲良くなれそうな人が現れると怖くなった。
本当の自分を見せたら嫌われるのではないか。
近づきたいのに近づけない。
まるでハリネズミだった。
就職しても仕事は長続きしなかった。
誰かに認めてほしかった。必要とされたかっただけだった。
二十代半ばで産業カウンセラーの資格を取ったのも、
人の心を知りたかったからだ。
けれど今思えば、本当に知りたかったのは自分の心。
そして、ずっと探していた。どうしたら愛されるのかを。
第五章 結婚したら幸せになれると思っていた
二十代の頃の私は、相変わらず愛されることを求めていた。
職場で出会った夫には、どこか影があった。
何かを抱えているような雰囲気。
私は勝手に親近感を抱いた。
この人なら私のことを理解してくれるかもしれない、と。
数字が苦手な私に、夫は根気よく教えてくれた。
表に立つタイプではないけれど、職場を支えている人だった。
私はそんな姿を尊敬し、自分からプロポーズした。
結婚したら幸せになれる。どこかでそう思っていた。
けれど現実はそう単純ではなかった。
夫は多くを語らない。
私が気持ちを話しても、
返ってくるのは結論だけ。
それでも夫は、
私が深酒し嘔吐しても
文句一つ言わず片付けてくれた。
失敗しても責めてこなかった。
私はその優しさを
何度も受け取っていたはずだった。
けれど当時の私は気づいていなかった。
愛をモノと勘違いしていた。
いたわりや思いやりという愛を、受け取ることがまだできなかった。
第六章 母になっても不安は消えなかった
結婚し、3人の子どもに恵まれた。
それだけでも十分幸せなはず。実際、幸せだったと思う。
それなのに不安は消えなかった。
長女がまだ1歳にもならない頃から考えていた。
子どもはいつか親から離れていく。
その時、私は1人ぼっちになるのではないか。
まだ起きてもいない未来を想像し、
不安をさらに膨らませる。
そんなことを繰り返していた。
心も身体も少しずつ疲れていった。
メンタルの不調で職場を辞めたこともある。
第2子が1歳の頃には、自損事故を二回、対物事故を一回起こした。
修理代は百六十万円を超えた。
それでも夫は「気をつけてね」と言っただけ。
今ならわかる。あれは夫なりの愛情だったのだと思う。
けれど当時の私は、
そもそもの視野の狭さに
ワンオペ育児が加わり、
その優しさを受け取る余裕すらなかった。
自分の心と身体の扱い方を、
まだ知らなかったのだ。
第七章 身体から人生が変わり始めた
そんな私がヨガと出会ったのは
偶然だった。
近所の教室に参加してみた。
ただそれだけ。
ところが終わったあと、
不思議な感覚が残った。
気持ちがいい。身体が軽い。
そして何より、ほっとした。
長い間張り詰めていた何かが、
ゆるんだような感覚だった。
第3子が年中になる頃、ヨガインストラクターの資格取得を決めた。
夫に反対されたので、内緒で通った。
布団に寝たふりをして窓から出入りしたこともある。
それでも知りたかった。
一年かけて上級ヨガ、マタニティヨガ、シニアヨガ、ピラティスを学んで資格取得した。
先生になるためではなかった。
自分を知りたかった。
心を整えたかった。
仕事にしたのは、
続ける理由が欲しかったからだ。
そんなある日、長女がふと言った。
「前は怖かったのに、お母さんやさしくなったね」
驚いたし、とってもうれしかった。
私は自分では気づいていなかった。けれど子どもには見えていたのだ。
私はずっと心を変えようとしてきた。考え方を変えようとしてきた。
けれど変化は、身体から始まった。
呼吸を整えること。身体を動かすこと。休むこと。感じること。
それらを続けるうちに、
少しずつ心も変わっていった。
それと並行し、腸活を学んだ。
その後、
瞑想を深め、腸もみを学び、薬膳も学んで国際薬膳師の資格も取得した。
振り返ると、学んできたものはすべて別々のようでいて、
一つの場所に向かっていた。
身体を整えることだった。
呼吸が整うと、気持ちも調う。
腸が整うと、考え方も調う。
私は体験を通して、それを知った。
終章 道しるべ
腸もみをしていると、
不思議なことに気づく。
お腹はその人の生き方を
映しているように感じるのだ。
頑張りすぎている人。
我慢しすぎている人。
自分を後回しにしている人。
そんな人たちにたくさん出会った。
そして気づいた。
それは昔の私だった。
身体が教えてくれることは、
他者のお腹だけではなかった。
今年1月、ある方の講話に触れた。
虐待の経験を抱えながらも、
自己肯定感高く、
前を向いて生きている方だった。
その笑顔があまりにも飾らず美しく、
私は心を動かされた。
その方は、とある100日間の実践に取り組んだという。
「私にはまだ、見えていない景色があるかもしれない」
そう感じた私は、
自分なりの100日実践を始めた。
毎朝、布団の上で正座し、
故郷の方角に向かって頭を下げる。
「お父さん、育ててくれてありがとうございます」
たったそれだけのこと、のはずだった。
けれど言い終えるのが非常に難しい!
途中でお腹がギュッと締め付けられ、
有り難うの一言に、
1回目は30分を要した。
頭ではとうの昔に許したつもりだった。
けれど身体はまだ、明らかに父を拒絶していた。
90日目の朝、
父にそっくりな後ろ姿の男性を見かけた。
やはりお腹の奥がギュッと硬くなった。
けれどその日は、
「ああ、私の身体はまだ反応するんだ」と受け止め、
そのまま通り過ぎることができた。
100日目。
想像の中で、両親を隣に座らせてみようとした。
けれどどうしてもできなかった。
「いまだに拒否している自分」に気づいた。
でも今回は、その自分を否定しなかった。
無理に距離を縮めなくてもいい。
ほどよい距離感で、
父の存在を大切に感じられれば、それでいい。
そう自分に素直になれたとき、
お腹のギュッとした感覚は、
ほんとうに消えていた。
父はもういない。
けれど父との関係は、
身体の中でまだ続いていた。
そして身体を通してはじめて、
少しだけ前に進むことができた。
今もこの実践を続けている。
腸もみを続ける中で、
私はあることに気づくようになった。
同じ便秘でも原因は違う。
頑張りすぎている人。
我慢しすぎている人。
人に合わせ続けている人。
自分の本音がわからなくなっている人。
お腹の張り方や冷え方には、
その人の生き方の癖が現れているように感じた。
もちろん医学的な診断ではない。
けれど、お腹に触れながら話を聞いていると、
身体が先に答えを知っているように思えることが何度もあった。
私は次第に、
お腹を整えるだけでなく、
お腹を通して
その人自身を見つめる時間が
とても大切なのではないか、
と思うようになった。
ある日の腸もみのお客様Aさん。
Aさんのお腹に思わずびっくりした。
下腹部がひどく冷えて、緊張していた。
「親子関係で、何かありましたか?」と聞くと、
しばらく沈黙があった。
「……そう言われると、あったかもしれない。
母から『これだけは守って』とか『これをやりなさい』とか、多かったな」
Aさんのお母さまの願いと
Aさんの意思は向かうベクトルが違った。
しかし、黙って従ってばかりでなく、
お母さまの意に反した行動にも多々及んでいたという。
「振り返りができてよかった」
セッションの終わりに、その方はそう言ってくださった。
身体は正直だ。
心は「大丈夫」と言いながら無理をする。
「平気」と言いながら傷ついている。
けれど身体は嘘をつかない。
腰痛という形で。便秘という形で。眠れないという形で。イライラという形で。
私に、ずっと教えてくれていた。
頭でばかり答えを探していて、
それを聞いていなかっただけだった。
だからSankara式腸占いを作った。
未来を当てるためではない。運勢を決めるためでもない。
心がさまよわなくてもいいように。
自分で自分の現在地を知るために。
身体から自分を見つめ直すために。
お腹には、その人の生き方が現れるように感じていた。
そこで私は、中医学の五行になぞらえ、
お腹の5つの部位を感情や思考の癖、
人生のテーマと重ねて見るようになった。
張りや冷えという身体のサインが、
その人の生き方を教えてくれる。
身体のサインを読み取る道しるべを作り、
必要な人に届けたかった。
正確に言えば、
昔の私に道しるべを渡したかったのだと思う。
父に愛されたいと願っていた少女に。
家を出れば幸せになれると思っていた学生に。
不安でいっぱいだった母親の私に。
大丈夫。
答えは外にはない。
あなたの身体が知っている。
そう伝えたかった。
小学3年生の私は、
「私は40歳を過ぎたら幸せになる」と決めた。
なぜ40歳だったのか、
何度思い返しても今でもわからない。
40歳をとうに過ぎた今の私は、
ようやく自分の身体の声を聞けるようになった。
愛されていないと思っていた人生だった。
けれど振り返ると、
私にとっての幸せとは、
誰かに愛されることではなかった。
自分を大切に扱えるようになることだった。
本当に足りなかったのは愛ではなく、
愛を受け取る力だったのかもしれない。
人は何歳からでも変われる。
身体は嘘をつかない。
だから今日も私は、お腹に手を当てる。
そこに、自分へ帰る道があると知っているから。
*️⃣以下の記事は、長女に成長させて貰えたことを綴りました。併せて読んで頂けますと嬉しいです。
