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試論Ⅲ:快適さの罠─不条理や理不尽に抗うほど幸福が逃げる理由

前章までは、人々が「神の秩序」よりも「自分の快適さ」を優先しはじめた歴史的経緯を追い、その流れがいかに不可逆的に広がってきたかを概観し、さらに、幸福には情動的ヘドニック幸福(個の快適を追求する秩序)と理念的ユーダイモニック幸福(個を超えた秩序)があることを確認してきた。

ここでは、いよいよ“快適な秩序”を求める傾向の持つ危うさを掘り下げる。すなわち、一見すると自然で正当な行為に見える「理不尽の回避」や「楽をしたいという欲求」が、なぜ逆説的に新たな苦しみや不安を生み出してしまうのかを考察する。心理学や社会学の知見を踏まえれば、この仕組みを理解するヒントが多く見えてくる。




1. 快適さに慣れすぎる罠――“ヘドニック・トレッドミル”の問題

「ロトとその娘たち」シモン・ヴーエ画
ロトは欲望の街ソドムから逃れた、しかし、自分の正義を捨てきれなかったロトはその後、欲望に敗北する。

(1) 快適になればなるほど当たり前化する

「ヘドニック・トレッドミル(Hedonic Treadmill)」とは、もともと快楽主義の心理学的特徴を説明する概念だが、ここでは「快適な秩序」全般に当てはめて解釈する。人間は、新しい楽しみや便利さを得ると一時的に幸福感が高まるが、やがてそれに慣れてしまい、それまでの状態では満足できなくなる。より良い住環境や利便性を得ても、次の瞬間には「もっと快適に」「もっとラクに」と要求が膨らんでいく。

産業革命以降、物質的豊かさと技術発展によって人々の生活は格段に向上した。冷暖房、交通網、通信手段、医療技術など、歴史上これほど快適さを享受できる時代はなかったかもしれない。だが、それに伴い「さらなる上昇を求める欲求」が絶えず強化され続け、いわゆる「便利さに依存して手放せない」状態が加速している。


「快楽順応の概念図」Lyndel Lemon、CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons. どれだけ幸福な出来事が起こっても、幸福感のセットポイントは一定範囲に収束する。

(2) 不快は過大評価されるので不可逆的に快が無限追求される

また、進化心理学や行動経済学が示すとおり、人は「損失は利得の約2倍痛い」というネガティビティ・バイアス/損失回避を持つ。わずかな寒さ・騒音・待ち時間といった不快は、同じ量の快適さより強く意識に残るため、〈-1〉を避ける行動が〈+1〉を得る行動より優先されやすい。
 すると私たちは、新しい快適機能を導入しては「不満ゼロ」を目指し、その基準が達成されるや否や感覚がリセットされる――しかし不快は依然として痛みとして立ち現れるため、直ちに次の改善要求が発動する。

このサイクルでは「不快→解消→基準上昇→再び不快」のスパイラルが延々と続く。冷暖房・高速通信・翌日配送などが整備されるほど、「少し遅いだけでストレス」「一度の故障で大炎上」といった現象が頻発するのはその帰結だ。要するに、人間は不快を過大評価する仕様ゆえに「快適さのインフレ」にブレーキを掛けられない。不可逆的に、より高い“当たり前”を更新し続けるのである。


(3) 結果、快適さには慣れ続け、不快さは排除し続ける

この飽和現象は、不条理の完全回避を目指す動きとも連動する。先程の説明の通り、人は生活水準が高まるほど、わずかな不便やハプニングにも敏感になる。少しの故障や不測の事態が起これば、「なぜこんな理不尽が自分を襲うのか」と不満を抱きやすい。
 さらに、他者が享受している快適さを目にすれば、比較の結果、自分が恵まれているにもかかわらず、相対的に不幸を感じるパラドックスが生じる。

このように人は不可逆的に快適さを過度に求めつづけ、そこから外れる事態が許せなくなり、そのハードルは不可逆的に上がり続ける。その構造こそが、ヘドニック・トレッドミルの本質的な罠といえる。
 
結果として、人は「少しでも苦痛や不便があるなら、それは取り除かれるべきだ」という意識を強め、理不尽をゼロにしようと躍起になる。しかし、そのゴールは永久に訪れない。まるで回し車(トレッドミル)の上を走り続けるハムスターのように、ずっと同じところを走り回っているだけだ。

「回し車の中を走るジャンガリアンハムスター」Doenertier82 撮影、CC BY-SA 3.0、Wikimedia Commons


2. 社会的比較の過剰化――SNSと消費社会が煽る不満と焦燥

(1) “足るを知らない”仕組み

近代化により生まれた消費社会は、個々人が自分の欲望を自由に充足できる場として機能する。それ自体は一面で素晴らしい成果だが、広告やメディアが「この商品を買えば、もっと便利に・格好よく・快適になる」と煽るため、絶えず新しい欲求が刺激される。SNSの発達は他者の成功や富を可視化し、多くの人が自分と比較して「まだ自分は足りない」と感じる要因を増やした。

人は本来、群れや共同体の範囲での対人比較にとどまっていたが、今やインターネットを介して世界中の豪邸、贅沢な食事、セレブのライフスタイルに触れられる。すると、自分の生活がどれほど良くなっても、“もっと上がいる”と思えば不満や焦燥感が募る。いわいる「マウンティングマウンテン」の頂きは果てしなく高く伸び続け、決して山頂へ到達することはできない。
 ここでも、不条理を排除し快適さを追うほどに、ゴールが逃げていく現象が繰り返される。

出典:モモウメ公式 YouTube「給湯室がマウントの取り合いで凄いことになっていた件w」(2020、https://www.youtube.com/watch?v=mIIZ7nu6Ias)


(2) “神の秩序”なき世界の比較地獄

かつての中世ヨーロッパであれば、「不公平や苦しみも神の意思」として受け入れる文化が少なからず機能していた。これは必ずしも美談ではなく、抑圧を正当化する側面も強かったが、少なくとも理不尽を「世界の当然の姿」として解釈する余地があった。しかし、現代社会では「自分の幸福こそが最優先」と考える人が多く、比較で劣ると感じれば容易に不満を抱く。理不尽があれば、誰かの責任を追求し、賠償を求め、制度を批判するという姿勢も定着した。

もちろん、こうした批判や責任追及が社会正義の発展に寄与してきた面は大いにある。それによって不当な差別や権力の横暴が是正され、人権が拡大してきた事実も見逃せない。
 しかし、そこから一歩進むと、「少しでも不快なことは排除する」「自分の満足を阻む存在は許さない」という極端な姿勢も生まれる。聖書的にいえば、「神の秩序」から離れた人間社会が理不尽を度外視するほど、かえって新たな混乱が生じるという構図と合致する。

「アベルの殺害」ティントレット画
弟の供物だけが神に良しとされ、不公平に思えた瞬間、兄カインは神ではなく弟アベルを殺した。


3. “神の秩序”を外れた個人主義―創世記的“罪”の現代的バリエーション

(1) 個の欲望が乱立する社会

創世記では、善悪を自分で判断しはじめた人間は、神への不従順や高慢として解釈されている。現代でこれを読み替えると、「誰もが自分に都合のいい秩序を打ち立てたい」という衝動ともいえよう。民主化と人権の拡大は、一方で“自分こそが正しい”と確信する人々を増やし、バベルの塔的な自己顕示欲や分断を繰り返し生み出す。これは大きな自由と発展をもたらす反面、絶え間ない対立や格差を固定化する要因にもなる。

たとえば、SNSでの「炎上」や社会運動における過激な言説などは、それぞれが自分の理想を正義として押し通す一方で、相手側には不条理を容赦なく押しつける構図を作り出す。物語の中でバベルの塔が崩壊したように、互いの主張が強すぎて“言語が通じない”状態に陥ることも多い。ここには、理不尽を許容するよりも「自分の正しさと快適さこそ絶対」という態度が先立つことの影響が表れている。

「言語の混乱」ギュスターヴ・ドレ
ドレの描く「バベルの塔」はすでに傾きはじめており、神の怒りと人間の混乱が表現されている。


(2) 都合の悪い理不尽をアウトソーシングする

また、快適さを追う個人主義が拡大すると、苦しみや汚れの部分をどこか別の場所へ押しやる仕組みも発達する。先進国の消費生活を支えるために、発展途上国の劣悪な工場や環境破壊が黙認されてきた例などが典型である。これも、“自分の不条理は避けたいが、他者が不条理を背負うのは構わない”という矛盾だと言えよう。旧約聖書で黄金の子牛を崇拝する民が、自分たちの都合に合う神像を作り出してしまうのと同じように、人間は都合の良い秩序を崇拝して不都合な要素を見て見ぬふりをする。

この構造は歴史を通して形を変えて繰り返されてきたが、現代ではより複雑化し、“グローバルサプライチェーン”や“データの移転”といった形で不可視化されている。

さらには、SNS空間においても、人間の承認欲求や憎悪といった“処理の難しい感情”が巧妙にアウトソーシングされている。

表面上はポジティブな自己演出を保ちつつ、心の奥底にある不安や怒りを“共感”や“正義”の名のもとに他者に投げつける。こうして誰かが“心のゴミ箱”となり、集団の中に不都合な感情の処理役が生まれる構造ができあがる。自分のSNSタイムラインは穏やかで快適に保たれながら、正義の快楽に浸れるが、その裏で誰かが見えない痛みを引き受けているのだ。

「心のゴミ箱」
快適な自己演出や正義の裏で吐き出された怒りや不安は、無意識に他者へと委ねられる。 SNSの空間では、誰かが“心のゴミ箱”としてその負債を引き受けている。

4. 不条理に抗うと起こる逆説―安定を求めても理不尽は決して尽きない

(1) ハードシングスからの逃避がもたらす連鎖

不条理な苦しみが発生するたびに、それを徹底的に排除しようとすればするほど、別の形で理不尽が噴き出すという構図が見られる。たとえば経済的リスクを回避するために保険や安全装置を完備すれば、コストが嵩んで経済競争で不利になるかもしれない。
 あるいは個人の自由を最大限保障すると、共同体の秩序は弱体化して犯罪や孤立が増えることがある。そもそも死や病気、自然災害といった根源的な理不尽は、いくら科学が発展しても根絶できない。

そう考えると、完全な安定を追う道とは、安定が脅かされるたびに保険や防御壁を上乗せしつづけ、際限のないコストと緊張を生み出す道と言えよう。これはある意味、ヘドニック・トレッドミルの社会版でもある。

理不尽を遠ざけようとして出費やエネルギーを増大させ、なおかつ新たなリスクが見つかればさらなる対策を繰り返す。それでも災禍がゼロになるわけではなく、いずれ別の問題が顕在化してくる。

個人においても、社会においても理不尽が尽きることは決してなく、決して避けることはできない。

「過剰に安全を求める人」
ヘドニック・トレッドミルは、「安心・安全」も過剰に積み上げ、そのコストは膨らみ続ける。


(2) 理不尽に正面から向き合う姿勢との対比

こうした状況を逆から見ると、ヨセフヨブのように理不尽に直面しながらも逃げず、「できる限り誠実に対処する」心構えを持つ人こそが、長期的には大きな飛躍や祝福に預かる可能性を持つことになる。この構図はスタートアップの起業家にも通じ、ポール・グレアムが述べるように「ハードシングスは起こる。だがあきらめずに乗り越える人だけが想像を超えた成功を勝ち取る」という逆説と一致する。

結局、理不尽を回避するほど安楽になりそうなところ、実際には次々と新たな苦しみや不満を生む。「安全圏に留まる」生き方は短期的には守りになるが、長期的には停滞や自閉のリスクが高まる。一方、苦難を引き受ける道は非直感的だが、そこには社会的評価や深い内面の安定、そして新しい価値を創造するチャンスが潜む。聖書や現代心理学が示す通り、安定一辺倒では人は本当に満たされず、むしろ不条理を含む余地が革新や充足をもたらす。

「ゲッセマネの祈り」パオロ・ヴェロネーゼ画
イエス・キリストは快適な道を選択できた。しかし、苦難(自分の死)を完全に理解しながら、それを受け入れて、世界のために突き進む。


こうして見ると、「快適な秩序」という考え方そのものが、「理不尽を取り除けば幸福が訪れる」という大きな誤解を含んでいることが分かる。本来、世界には多種多様な偶然や矛盾が存在し、それを自分の都合でゼロにすることなどできない。むしろ、不条理を前提として受け入れ、そこから学びや行動を重ねる態度にこそ、神の秩序やユーダイモニックな幸福が潜んでいるわけである。


次章では、「不条理(ハードシングス)を受け入れる者への祝福」についてさらに具体的に考察する。ヨセフヨブが得た奇跡だけでなく、現代の起業・研究・芸術の世界でもしばしば見られるような、不可能に近い挑戦に身を投じることで大きな実りを手にする人々のロジックを探る。そこには、安易な快適さを捨てるからこそ得られる深い満足や革新があるのだ。


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