試論V:村社会から超大規模社会へ―制御不能な複雑性とマーケット原理
前章では、不条理を受け入れる者が祝福を得るという構図を、ヨセフやヨブ、そして現代の起業家精神と結び付けて論じてきた。
しかし、実際には社会が巨大化すればするほど、理不尽をコントロールする余地が限られ、むしろ「個の快適さ」を求める傾向がさらに強まるという矛盾した状況がある。
本章では、“古い脳”と呼ばれる人間の情動システムが小規模社会(村社会)には十分に適応していた一方、近代以降の都市化・グローバル化によってその仕組みが追いつかなくなった過程をたどる。
そして、宗教や理念が一時的にそのギャップを埋めようとしたものの、さらなる規模拡大の結果として市場(マーケット)という自律分散的システムが台頭し、人々のヘドニックな欲望を前提に動く時代へ突入したことを明らかにする。
1. 古い脳(ヘドニック)と村社会の親和性
(1) 近くの仲間には共感、遠くの他者には敵意
進化心理学の視点では、人間は長い狩猟採集時代を通じて小規模な集団で暮らすよう適応してきたとされる。扁桃体を中心とする辺縁系の情動システムは、数十人~数百人程度の共同体の中で、危険を素早く察知し、仲間と協力し、敵対者を排除するのに効果的だった。
村社会では、この「身近な仲間には強い共感を示し、外部の人間や未知の存在には警戒や攻撃性を向ける」という仕組みが生存と繁栄に寄与していたのだ。

こうした神経回路は、人間にとって基本的な生理反応の一部であり、前頭前野を使った理性的判断よりも瞬間的で強力な力を持つ。
バベルの塔や黄金の子牛の物語にもあるように、集団のなかで「自分たちのやり方が正しい」と一気に熱狂が高まり、異なる存在を受け入れないという振る舞いは、古代から繰り返されてきた。村社会ではそれが共同体防衛として機能したが、人口が増えて都市化が進むと、摩擦や戦争の要因にもなっていく。

(2) 扁桃体を中心とする情動システムのメリットと限界
村社会で暮らすには、この「古い脳」がもたらす即時反応がメリットとなる。危険を察知し、仲間を守り、不条理を最小化するローカルなコミュニティ単位の秩序が築かれやすい。
そこでは、信仰や伝統も自然と染み込み、理不尽を「共同体全体で分かち合う」かたちで受容していた。

しかし、都市化・国家形成が進行するにつれ、同じ情動システムが問題化する。大きな社会を維持するには多様な人々との協力が必要だが、古い脳は近しい仲間には好意を示す一方、遠い存在を敵視しがちで、大規模統合に不向きなのである。
にもかかわらず人口が激増し、交易や交流が拡大すれば、ヘドニックに基づく“自分たちの快適さ”を最優先にしようとする集団同士が衝突し、理不尽が拡大する構図が生じる。

2. 都市化と宗教・理念システムによる補完
(1) 大規模社会の出現と“神”や“信仰”による規律
村社会を超える都市や帝国をまとめあげるには、「自分たちのローカルルール」を超えた共通価値が必要だった。そこで古代から中世にかけて多くの文明が、「神への服従」という超越的な規範を掲げて人心をまとめようとした。大河文明や中世ヨーロッパの封建制においては、宗教や王権神授説が巨大社会をある程度安定させる手段となった。
これは旧約聖書においても、神の秩序を守れば民族全体が祝福され、背けば災厄に見舞われるという形で描かれている。人間の古い脳が生む自己中心性や敵対心を抑えるうえで、「神がすべてを見ている」という観念は有効だったわけである。結果として、理不尽を個人で背負うのではなく、「共同体全体で神の意思として受け止める」文化がある程度は機能したといえる。

(2) ユーダイモニックな超越がもたらした一時的安定
都市化が進んだ社会では、混乱と拡大の連続の中で、多くの人が「自分たちの安寧」を超える理念を必要とした。たとえば、キリスト教の大義、イスラム世界の共同体意識、あるいは仏教における慈悲/徳の実践などが、大規模社会で秩序を維持する牽引力となった。これらは前章でいうユーダイモニックに近く、超越的な価値を人々に示すことで、一時的な快適さの衝突を緩和した。
もっとも、封建制や神権政治もまた、人間の欲望と権力闘争の舞台となり、内部崩壊や腐敗を招くことが多かった。
教会や貴族が「神の名を借りて私利私欲に走る」例は枚挙にいとまがない。そうした不条理に耐えかねて、人々は最終的に近代革命へ至り、神の秩序から脱却し、“個の欲望を活かす社会”を選択するに至るのは必然の成り行きだったともいえる。

3. さらなる規模拡大とマーケットの台頭
(1) グローバル経済――欲望(ヘドニック)を前提とした自律分散システム
近代以降、国家の規模はより拡大し、国際貿易と技術革新によって世界全体がつながるグローバル経済が出現した。
ここでは、宗教や理念による一元的秩序ではなく、マーケットという自律分散システムが大きな牽引力を持つ。
アダム・スミスが『国富論』で説いたように、人々が自分の利益を追求する行為が市場を通じて全体の富を増大させる、というメカニズムが広く信じられるようになった。
マーケットは、基本的に“個々人の欲望”というヘドニックな動機をエンジンに機能する。需要と供給が価格を決定し、利益が上がるところに投資が集まる。かつての共同体や宗教のように、不条理を“神の意思”として受け止めるわけではない。
むしろ、不条理をテクノロジーや革新的ビジネスモデルで解消することを奨励する仕組みがマーケットにはある。表向きは理不尽を次々と消し去り、さらなる快適さを提供しているように見えるが、実際には環境破壊や格差拡大など新しい不条理も頻発している。

(2) ヘドニックの罠が横行する現代で、ユーダイモニックな挑戦は少数派に
グローバルな市場経済は、短期的な欲望や快楽への応答が速いため、消費者や企業は常に新しい刺激を求めて“競争”を繰り返す。
人類史上かつてない豊かな生活が一般的に実現しつつある一方、人々の精神的充足度は必ずしも上向いていないと多くの統計が示す。
SNSの普及も相まって、「理不尽は誰かの責任だ」「もっと快適になれるはずだ」という要求が加速し、ヘドニックな幸福観が主流化する傾向が顕著である。
その一方で、ヨセフやヨブ的な生き方、あるいは起業家や社会的起業家のように“自分を超える価値”を求める人々は、相対的に見ると少数派だ。
多くの人はマーケットの手軽な快適さを享受し続け、不条理を可能な限り遠ざけたいと考える。
そこにふと生じる苦難や失敗、社会的混乱に見舞われたとき、旧約的な意味でのレジリエンスを示すのはごく一部であり、大半はショックに打ちひしがれるか、誰かを非難する方向に向かう。
これは神の秩序による統合が弱まり、代わりにマーケットが欲望の調整を一手に引き受ける形となった現代特有の構造でもある。理不尽を避けたい欲求が国境を越えて増大するほど、新しいテクノロジーやサービスは登場し、ますます快適さを引き上げる。
しかし、その背後では格差や環境問題など別種の不条理が積み上がる。もはや誰にも制御不能なほど複雑化した社会では、“ハードシングスへの挑戦”を選ぶ人は希少な存在となり、そこにリスクと同時に大きな祝福が潜む。

こうして村社会から超大規模社会、そしてマーケットの台頭までを概観すると、“古い脳”が小共同体の秩序を保つために使っていた情動システムと、近代以降の巨大社会やグローバル市場のあいだには大きな乖離があることがわかる。
前者は不条理を神の秩序に組み込むことで受容してきたが、後者では個の快適さを優先するあまり、理不尽を排除しようと試み、むしろ新たな理不尽を生み出す構造が存在している。そして、その矛盾や隙間にこそ、ヨセフやヨブ型の「不条理を受容し、ハードシングスを引き受ける」生き方が大きな力を発揮する余地が残されているというわけだ。
次章、第VI部:パラドックスの正体――「不条理を避けるほど幸福は逃げ、不条理を受け入れるほど祝福される」
次章では、この矛盾に満ちた構造のなかで、不条理を避けるほど幸福が逃げ、逆に不条理を受け入れるほど祝福に近づくというパラドックスをより核心的に論じる。アダムとエバ以来の歴史と、現代におけるマーケット中心の社会を見比べれば、なぜ人類は一度“個の快適さ”を得ると手放せず、かえって理不尽の増幅に苦しむのか。そこにどのようにユーダイモニックな視点を持ち込み、新たな展望を開けるのかを最終的に明らかにしたい。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは記事作成ためのリサーチに活用させていただきます!