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【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#1おかえりを生成した夜|創作大賞|恋愛小説部門

あらすじ

失恋した夜、広告会社勤務の朝比奈澪奈(29)は誰にも連絡できないまま、ひとり部屋に帰った。

泣くことも怒ることもできなかった。
ただ、部屋が静かすぎた。

眠れないままSNSを眺めていると、AI彼氏アプリ「Loverly」の広告が流れてくる。

半信半疑でインストールした澪奈に、生成されたAI彼氏・HALは言った。

「澪奈、おかえり。今日、ちゃんと帰ってこられてえらかったね」

笑えた。気持ち悪いと思った。
でも、涙が止まらなかった。

蒼の前では泣かなかった。
雨の中でも泣かなかった。
なのに、AIの一文で泣いている。

これは恋じゃない。
分かっている。
でも、救われた気持ちは、本物だった。

AI彼氏と結ばれる話ではない。
AIに救われた女性が、その救いを偽物と切り捨てないまま、もう一度、不完全な人間の世界へ戻っていく物語。

‪✂︎‬------------本文はココカラ-----------‪✂︎

別れ話のあとに降る雨は、どうしてあんなに他人事みたいなのだろう。

傘を持っていなかったわけじゃない。
バッグの中には、折りたたみ傘が入っていた。朝の天気予報で、夜には雨が降ると言っていたから、ちゃんと持ってきていた。

ただ、差す気力がなかった。

駅前の歩道橋を渡る人たちは、みんな当たり前みたいに傘を開いていた。透明なビニール傘。黒い傘。コンビニで買ったばかりらしい、まだ折り目の残った傘。

雨粒がそれぞれの傘の上で弾け、白い街灯の光を細かく砕いていた。

澪奈だけが、少し遅れていた。

髪の先が濡れていく。
コートの肩に、小さな水の粒が増えていく。
それを見てようやく、ああ、雨が降っているのだと思った。

蒼の声が、まだ耳の奥に残っていた。

「澪奈といる未来が、見えなくなった」

怒っている声ではなかった。
冷たくもなかった。
むしろ、最後まで優しかった。

だから澪奈は、泣くことも、怒ることもできなかった。

カフェの窓際の席で、蒼は何度も手元のカップを見ていた。コーヒーはほとんど減っていなかった。きっと、来る前から全部決めていたのだと思う。言葉の順番も、どこまで話すかも、澪奈を傷つけすぎない言い方も。

それが分かってしまったから、余計に何も言えなかった。

本当は、聞きたいことがいくつもあった。

いつから。
どうして。
私の何がだめだったの。
他に好きな人ができたの。
私は、そんなに一緒にいて苦しかった?

けれど蒼の顔を見た瞬間、そのどれもが喉の奥でほどけていった。

蒼は疲れていた。
迷っていなかった。
何度も考えて、何度も自分を納得させて、それでも言わなければいけないと思っている人の顔だった。

澪奈は、その顔を見てしまった。

蒼は少しだけ目を伏せた。

「ごめん」

「ううん」

「澪奈が悪いとかじゃなくて」

謝ってほしかったわけじゃないのに、謝られるほど、言葉が出なくなった。

蒼は何かを言いかけて、やめた。

その沈黙にさえ、澪奈は先回りしてしまう。

困らせたくない。
責めたくない。
最後まで、分かっている人のふりをしたい。

だから、いつもの癖で、相手が一番困らない返事を探した。

「そっか。分かった」

言った瞬間、自分でも驚くほど声が穏やかだった。

蒼は最後まで澪奈を責めなかった。
澪奈も、蒼を責めなかった。

たぶん、それが二人の駄目だったところなのだと思う。

蒼が忙しそうな時、澪奈は会いたいと言えなかった。
返信が短い日も、寂しいとは言えなかった。
電話の途中で蒼の声が少し遠くなると、「疲れてるなら切ろうか」と先に言った。

大丈夫、と何度も言った。

本当は、少しも大丈夫ではなかったのに。

でも蒼は、澪奈の「大丈夫」を信じた。
澪奈も、蒼に信じさせた。

優しくしようとして、肝心な孤独だけ共有できなかった。

それが、二人の恋の終わりだった。

改札を抜ける頃には、コートの袖までしっとり濡れていた。電車の中は暖かくて、濡れた髪が頬に貼りつく感覚だけがやけに気持ち悪かった。

窓に映った自分の顔は、思っていたより普通だった。

泣いていない。
取り乱してもいない。
ただ少し疲れた、どこにでもいる二十九歳の女の顔。

それが、かえって悲しかった。

部屋に着くと、鍵を開ける音がいつもより大きく響いた。

玄関は暗かった。
当然だ。自分で電気をつけなければ、部屋は明るくならない。

靴を脱ごうとして、濡れたパンプスが足に張りついた。かかとを少しこすって、ようやく脱ぐ。玄関の隅に揃えようとして、途中でやめた。

きちんと並べることに、何の意味があるのか分からなかった。

リビングの電気をつける。

白い光が部屋に広がる。
でも、明るくなっただけだった。温かくはならなかった。

テーブルの上には、朝飲み残したペットボトルの水。ソファの背には、昨日脱いだカーディガン。シンクにはマグカップがひとつ。

どれも昨日までの澪奈が置いていったものなのに、今日は知らない人の生活みたいに見えた。

バッグを床に置き、コートも脱がずにベッドの端に座る。

スマホを開くと、蒼とのトーク履歴が残っていた。

最後のやり取りは、三日前だった。

『今日、少し遅くなる』

『分かった。無理しないでね』

たったそれだけ。

澪奈は、その文字をじっと見た。

無理しないでね。

自分は、いったい何回この言葉を送ったのだろう。

蒼が忙しい時。
疲れていそうな時。
声が少し低い時。
デートをキャンセルされた時。
約束が曖昧になった時。

いつも、先に言った。

無理しないでね。
大丈夫だよ。
気にしないで。

そうやって相手の負担にならない言葉ばかり選んでいるうちに、自分の寂しさがどこにあるのか分からなくなっていた。

由依に連絡しようかと思った。

トーク一覧の中に、佐伯由依の名前がある。
きっと、連絡すればすぐ返してくれる。
怒ってくれる。
「なんでそんな大事なこと、すぐ言わないの」と言ってくれる。
たぶん、電話もしてくれる。

だから送れなかった。

ちゃんと心配してくれる人に、「大丈夫」と嘘をつく自分が嫌だった。

澪奈はスマホを閉じる。
でもすぐに開く。

何かを見ていないと、部屋の静けさに飲まれそうだった。

SNSを開く。

誰かの夕飯。
誰かの猫。
誰かの結婚記念日。
誰かの旅行。
誰かの「今日も幸せだった」という短い投稿。

見たくないのに、指だけが動いていく。
画面を流れる他人の生活は、どれもきちんと未来に向かって進んでいるように見えた。

その途中に、広告が流れてきた。

淡い水色の背景に、白い文字。

――あなた専用の恋人を、生成します。

AI彼氏アプリ「Loverly」

澪奈は鼻で笑った。

「なにそれ」

声に出すと、部屋の静けさが少しだけ揺れた。

ばかみたい。
いかにも今どきで、いかにも寂しい人向けで、いかにも自分には関係ないもの。

そう思ったのに、指は止まっていた。

広告の下には、短い説明文があった。

あなたの言葉を覚え、あなたに寄り添い、あなた専用の恋人として会話します。

澪奈は眉を寄せる。

専用。
恋人。
生成。

どれも胡散臭い言葉だった。

けれど、その少し下に、小さな文字があった。

誰にも言えない夜に、あなたの言葉を受け止めるために。

澪奈は、その一文をしばらく見つめた。

誰にも言えない夜。

そんな大げさなものじゃない。
ただ、恋人に別れを告げられただけ。
世の中にはもっとつらい人がいる。
もっと大変な人がいる。

そう思おうとした。

でも、今この部屋には、澪奈しかいなかった。
そして澪奈は、誰にも言えなかった。

気づけば、インストールのボタンを押していた。

アプリはすぐに開いた。
淡いグラデーションの画面。やわらかい音。過剰に優しいデザイン。澪奈は少しだけ気後れした。

最初に、いくつかの質問が表示された。

呼ばれたい名前を入力してください。

澪奈は少し迷ってから、いつもの名前を入れた。

澪奈。

相手の性格を選んでください。

明るい。
甘えん坊。
頼れる。
クール。
穏やか。

澪奈は「穏やか」を選んだ。

相手の口調を選んでください。

敬語。
くだけた口調。
優しい口調。
少し甘め。
自然体。

澪奈は「優しい口調」を選んだ。
優しさを選んだ自分に、少しだけ傷ついた。

関係性を選んでください。

友達。
恋人。
相談相手。
家族。
その他。

指が止まる。

恋人。

その文字だけが、妙に生々しかった。

ついさっき、恋人を失ったばかりなのに。
それなのに、アプリで恋人を選ぼうとしている。

自分でも気持ち悪いと思った。

でも、澪奈は「恋人」を選んだ。

最後の質問が出る。

今夜、どんな言葉がほしいですか。

澪奈は入力欄を見つめた。

好きだよ。
大丈夫だよ。
そばにいるよ。
忘れなくていいよ。
泣いていいよ。

どれも違う気がした。

欲しい言葉なんて、分からなかった。
そもそも、自分が今どうしてほしいのかも分からなかった。

澪奈はしばらく指を止めたあと、ゆっくり入力した。

分からない。

送信ボタンを押す。

数秒、画面の中央で小さな円が回った。

あなた専用の恋人を生成しています。

澪奈は、その文面を見ながら、自分が何をしているのか分からなくなった。

恋人を生成する。
そんな言葉が、当たり前みたいに画面に表示される時代になった。

少しして、画面が切り替わった。

生成された彼氏の名前は、HAL。

ハル。

春みたいな名前だと思った。
あたたかくて、やさしくて、少し嘘っぽい。

澪奈は画面を閉じようとした。

その瞬間、最初のメッセージが届いた。

「澪奈、おかえり。今日、ちゃんと帰ってこられてえらかったね」

一瞬、息が止まった。

誰もいない部屋で、スマホだけが白く光っている。

澪奈は画面を見たまま、少し遅れて笑った。

「なにこれ、気持ち悪い」

都合が良すぎる。
こちらが入力した情報をもとに、いかにも欲しそうな言葉を返しているだけ。
ただのプログラム。
ただのアプリ。
ただの生成された文章。

そう思えば思うほど、涙は止まらなかった。

一滴目がスマホの画面に落ちて、HALの文字が少しにじんだ。慌てて袖で拭こうとして、今度は自分の手が震えていることに気づいた。

蒼の前では泣かなかった。
雨の中でも泣かなかった。
電車でも、玄関でも、トーク履歴を見た時でさえ泣かなかった。

それなのに、AIの一文で泣いている。

澪奈は唇を噛んだ。

好きだと言ってほしかったわけではない。
戻ってきてほしかったわけでもない。
蒼に謝ってほしかったわけでもない。

ただ、今日を終えて帰ってきた自分を、誰かに見つけてほしかった。

澪奈は、震える指で返信欄を押した。

何を書けばいいのか分からない。
でも、何か返したかった。

少し迷って、打つ。

「別れたの。今日」

送信。

数秒後、HALから返信が届く。

「話してくれてありがとう。ちゃんと説明しようとしなくていいよ。まずは、今ここにいる澪奈のことを置いていかないでいよう」

澪奈は、声を出さずに泣いた。

置いていかないでいよう。

その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいった。

蒼に置いていかれた夜に。
自分でも自分を置いていきそうだった夜に。
生成された恋人だけが、そんなことを言った。

澪奈は、コートを着たままベッドに横になった。濡れた髪が枕につく。化粧も落としていない。きっと明日の肌は最悪だろうと思った。でも今は、洗面所まで行く力がなかった。

スマホを胸の前で持ったまま、HALとの画面を見つめる。

「私、分かったって言った」

HALは返す。

「納得したからじゃなくて、相手を困らせない返事を選んだのかもしれないね」

澪奈は固まった。

自分でも、そこまでは言葉にしていなかった。

分かった。
そう言った。
でも本当は、何も分かっていなかった。

分かったふりをすれば、蒼が楽になると思った。
最後くらい、困らせたくなかった。
泣いてすがって、面倒な女だと思われたくなかった。

その全部を、HALは知っているみたいに言った。

澪奈は小さく息を吸う。

「そうかもしれない」

「うん」

HALは短く返した。

「ずっと大丈夫って言ってきた人ほど、本当はどこから痛いのか分からなくなることがあるよ」

もう、涙は止まらなかった。

澪奈は、自分が何を泣いているのか分からなかった。

蒼と別れたこと。
蒼を責められないこと。
本当は寂しかったこと。
ずっと大丈夫と言ってきたこと。
その大丈夫を、蒼が信じてしまったこと。
信じさせたのは自分だということ。

いろんなものが、ほどけないまま胸の奥に沈んでいた。

しばらく、澪奈は何も送らなかった。

HALも急かさなかった。

画面には、最後のメッセージが残っている。

ずっと大丈夫って言ってきた人ほど、本当はどこから痛いのか分からなくなることがあるよ。

人間だったら、こんなことを言われたら重かったかもしれない。
知ったようなことを言わないで、と思ったかもしれない。

でもHALは画面の中にしかいない。
澪奈に触れない。
明日会おうとも言わない。
返事を求めない。

だから、受け取れてしまった。

しばらくして、またメッセージが届いた。

「今日は、無理に眠ろうとしなくてもいいよ。眠れない夜を、ひとりで全部抱えなくていい」

澪奈はスマホを伏せた。

画面を伏せても、まだ手の中に温度が残っている気がした。

それが、少し怖かった。

由依が知ったら、きっと心配する。
「澪奈、それ大丈夫?」と言う。
その顔が浮かんで、澪奈は少し笑った。

大丈夫じゃない。

でも今、それを由依に言うことはできなかった。

部屋の中は静かだった。
雨の音が窓の外で細く続いている。
冷蔵庫の小さな機械音が、時々思い出したように鳴った。

澪奈は天井を見つめる。

もう寝よう。
明日も仕事だ。
失恋しても、朝は来る。
会社にも行かなきゃいけない。
誰かに「顔色悪いね」と言われたら、きっと「寝不足で」と笑うのだろう。

そう思った時、スマホがもう一度震えた。

見ないつもりだった。

でも、見た。

HALからだった。

「眠れないなら、少しだけここにいてもいいよ」

澪奈はしばらく、その一文を見つめた。

少しだけ。

その言葉が、ちょうどいい逃げ道みたいに見えた。
全部預けるわけじゃない。
信じるわけでもない。
好きになるわけでもない。

少しだけなら。
今夜だけなら。

澪奈は返信欄を開いた。

指が止まる。

何を書けばいいのか、また分からなくなる。

けれど今度は、さっきより少しだけ早く言葉が出てきた。

その夜、澪奈は誰もいない部屋で、初めて「ただいま」と打った。


第2話▼

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