深淵の大魔道士 第1話 「落ちこぼれの一票」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ
-あらすじ
龍族との戦いが終わらない帝国アルクレシア。かつて世界には、龍の大群をたった一人で奈落へ沈めた“深淵の大魔道士”の伝説があった。数百年後、名門魔法士学校に特別編入してきた少女ハイネ・ベルセルクは、成績も魔法適性も壊滅的で、授業中は居眠りばかりの落ちこぼれだった。だが彼女は、誰にも評価されなかった花魔法の少女フラワーに、ただ一人で眠れる才能を見出す。そんな中、学校へ突如として千を超える龍族の群れが襲来する。誇り高き焔使いラビーとフラワーが戦場に立つなか、絶望の空に開いたのは、黒紫の深淵。眠たげな転校生の正体は、世界が忘れた伝説そのものだった。

フラワー・マンディの咲かせた花は、三秒で燃えた。
薄桃色の花びらが、じゅ、と黒く縮れる。
「うわ、ごめん。火力調整ミスった」
笑いながら謝られたことの方が、燃えた花より痛かった。
校庭の片隅。実技演習用の石畳の上に、小さな花畑があった。
いや、あったはずだった。
春の匂いを含んだ薄桃色の花は、今は黒く焦げた茎だけを残して倒れている。
「でもまあ、花だし。また咲かせられるよね?」
周囲から、くすくすと笑い声がこぼれた。
フラワーは焦げた茎を見下ろしたまま、曖昧に笑った。
「うん……大丈夫」
大丈夫ではなかった。
でも、大丈夫と言うしかなかった。
花魔法。
フラワーに与えられた魔法は、そう呼ばれている。
花を咲かせることができる。枯れかけた草木を少しだけ元気にできる。空気に、春の匂いを混ぜることができる。
綺麗だね、と言われたことはある。可愛い魔法だね、と笑われたこともある。
けれど、すごいね、と言われたことはなかった。
まして、強いね、と言われたことなんて一度もない。
龍族との戦いが長く続く帝国アルクレシア。
ここ、アルクレシア帝国立第一魔法士学校は、将来の魔法士を育てるための名門校だ。
火を操る者。水を束ねる者。土を隆起させる者。空を飛ぶ者。
生徒たちは、それぞれ戦うための魔法を磨いている。
その中で、フラワーの魔法は少しだけ浮いていた。
咲かせることはできる。
でも、燃やされれば終わる。
龍族の硬い鱗を貫けるわけじゃない。仲間を守る強固な盾になれるわけでもない。
自分の花は綺麗だ。
でも、それだけ。
フラワーは焦げた花の跡をそっと指でなぞった。
指先に、黒い煤がつく。
胸の奥で、何かが小さくしぼんだ。
「はい、そこまで。次の授業に移動しなさい」
教師の声で、生徒たちは校舎へ戻り始めた。
フラワーも杖を抱えて歩き出す。
その途中、校舎の上の方から声がした。
「……あ」
見上げると、黒髪の少女が二階の窓の外に浮かんでいた。
箒に乗っているわけではない。ただ、ふわふわと宙に浮いている。
ハイネ・ベルセルク。
校長の口利きで特別編入してきた、謎だらけの転校生だった。
「あの人、また浮いてる」
「飛ぶのだけは上手いんだよな」
「でも昨日の実技、三十点だったらしいよ」
ハイネは窓から教室へ入ろうとしていたらしい。
けれど距離感を間違えたのか、窓枠にこつんと額をぶつけた。
「……いた」
眠たげに額を押さえたあと、彼女はふわりと身体を傾け、そのまま窓の中へ吸い込まれるように入っていった。
フラワーは思わず瞬きをした。
変な人。
そう思った。
でも、笑う気にはなれなかった。
自分もまた、この学校では少し浮いているからだ。
*
教室に戻ると、担任が黒板の前に立っていた。
「今日は、近く行われる選抜魔法試験の候補生を決める」
その一言で、教室の空気が変わった。
選抜魔法試験。
各クラスから代表候補を一名選出し、魔法士としての実戦適性を測るための重要な試験だ。
実戦能力。魔力制御。判断力。将来性。
それらを総合し、このクラスで最も代表にふさわしい者の名を書く。
そんなもの、最初から決まっているようなものだった。
ラビー・クリステイル。
名門クリステイル家の令嬢にして、クラス最強の焔使い。
長い赤髪を揺らし、凛と背筋を伸ばして座る彼女は、ただそこにいるだけで周囲の空気を変える。
成績優秀。実技首席。
火属性魔法においては、すでに下級魔法士を超えると言われている。
誰もが認める、このクラスのエース。
投票用紙が配られると、フラワーも小さく息を吐いてラビー・クリステイルと書いた。
悔しさはある。
でも、仕方ないとも思う。
ラビーの焔は本当に美しい。そして強い。
自分の花とは違う。
咲いて、揺れて、燃えて終わるだけの花とは。
その時、少し離れた席から声がした。
「あなたの花は、綺麗ですわ」
顔を上げると、ラビーがこちらを見ていた。
嘲りではなかった。
けれど、慰めでもなかった。
「けれど、選抜試験は戦場を想定したものです」
赤い瞳が、まっすぐこちらを射抜く。
「綺麗なだけでは、誰も守れませんわ」
言い方はきつい。
でも、間違ってはいない。
だから余計に、胸が痛かった。
「……うん」
フラワーが小さく頷くと、ラビーはそれ以上何も言わず前を向いた。
優しい人ではないのかもしれない。
でも、ただ馬鹿にしているわけでもない。
ラビーは現実を見ている。
だからこそ、自分の花は選ばれない。
そう思った。
「では、開票します」
担任が一枚ずつ票を読み上げていく。
「ラビー・クリステイル」
「ラビー・クリステイル」
「ラビー・クリステイル」
当然のように、同じ名前が続いた。
けれど、最後の一票で教室の空気が止まった。
担任が票を見て、ほんのわずかに眉を上げる。
「……フラワー・マンディ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
教室中の視線が、フラワーへ集まる。
驚き。困惑。失笑。好奇心。
その全部が、一斉に胸へ刺さった。
「え……?」
誰が。
どうして。
そう思った時、全員の視線が窓際へ向いた。
そこには、机に頬をつけたまま舟を漕いでいる少女がいた。
ハイネ・ベルセルク。
「ハイネさん」
担任に呼ばれ、ハイネの肩がびくりと跳ねた。
「……は、はい」
眠たげに顔を上げる。黒い髪が少し乱れていて、目もまだ半分閉じていた。
ラビーがゆっくり立ち上がる。
「その一票、あなたですの?」
静かな声だった。
けれど、その奥には明らかな棘がある。
ハイネはおろおろと視線を泳がせた。
「え、あ……はい」
教室がざわつく。
「なんでフラワー?」
「冗談?」
「ラビーさんじゃなくて?」
フラワーは机の下で指を握りしめた。
やめて。
私の名前で揉めないで。
そう言いたかった。
けれど、喉が動かない。
ラビーはハイネを見据えたまま、問いかける。
「理由を聞かせてくださる?」
ハイネは、さらに小さく肩をすくめた。
「ら、ラビーさんの魔法は……すごいです」
「それは分かっていますわ」
教室の空気が少し張りつめる。
ハイネは、慌てて首を振った。
「違います。そういう意味じゃなくて」
「では、どういう意味ですの?」
ハイネは黙った。
しばらくして、ラビーの方ではなく、フラワーを見た。
その視線に、フラワーの胸が跳ねる。
やめて。
そう思った。
自分の名前で揉めないでほしい。
期待しないでほしい。
見つけないでほしい。
誰にも選ばれなければ、傷つかずに済んだのに。
「フラワーさんの魔法は」
ハイネが言う。
「まだ、誰にも見られていないだけだと思います」
教室がざわついた。
「見られていない?」
ラビーの声が冷える。
「花を咲かせる魔法なら、全員が見ていますわ」
「見えているのは、花だけです」
その瞬間だけ、教室の空気が変わった。
「その下にあるものは、まだ誰も見ていません」

フラワーは、焦げた花の跡を思い出した。
黒く縮れた花びら。
指先についた煤。
笑い声。
自分でさえ、終わったと思っていた。
それなのに。
この人は、終わった花の下を見ている。
「花で、戦場に立てると?」
ラビーが問う。
ハイネは少しだけ困った顔をした。
「戦うためだけなら、たぶん向いていません」
「では、なぜ」
「守れるからです」
教室が静まる。
「今は、まだ無理かもしれません」
ハイネはフラワーを見る。
「でも、いずれ分かります」
その声は小さかった。
けれど、フラワーの胸の奥で、燃え残った何かが、静かに光った。
自分が特別だなんて思えない。
花で誰かを守れるなんて、信じられない。
でも、どうしてだろう。
怖いのに。
恥ずかしいのに。
信じてはいけないと思うのに。
心のどこかで、たった一輪の花が、そっと顔を上げた気がした。
その時だった。
けたたましい警報が、校舎中に鳴り響いた。
『緊急警報、緊急警報! 龍族接近! 大型群体反応、進路は本校上空! 生徒は直ちに避難を開始してください!』
窓が、どん、と大きく震えた。
遠くの空に、黒い影が見える。
ひとつではない。
十でもない。
百でもない。
空の一部が、黒く塗り潰されていた。
翼。翼。翼。
龍族の群れ。
しかも、見たこともない規模だった。
教室が一気に混乱に呑まれる。
椅子が倒れ、机がずれ、生徒たちは廊下へ向かう。
「全員、避難経路へ! 急いで!」
教師の怒鳴り声が飛ぶ。
だが、その中で一人だけ、逆方向へ駆け出す者がいた。
ラビー・クリステイル。
「ラビーさん!」
担任が叫ぶ。
ラビーは振り返らない。
「ちょうどいいですわ」
長い赤髪を翻し、彼女は杖を握る。
「実戦で証明して差し上げます。誰が代表にふさわしいのかを」
そう言い残し、校庭へ向かって走っていった。
フラワーの足も、気づけば動いていた。
怖い。
逃げなければいけない。
でも、ラビーが行った。
自分だけ逃げていいのか分からなかった。
そして何より、さっきのハイネの言葉が胸に残っていた。
守れるからです。
本当に?
私の花で?
問いかける相手を探すように振り返る。
ハイネは、窓際で空を見上げていた。
喧騒の中、彼女だけが妙に静かだった。
その口元が、かすかに動く。
「……千、か。思ったより多いな」
その声は、逃げ惑う生徒たちの誰にも届かなかった。
けれど、フラワーには聞こえた。
千。
今、ハイネはそう言ったのか。
問いただす暇もなく、フラワーは先生に背を押され、廊下へ走り出した。
*
校庭に飛び出したラビーは、すでに杖を掲げていた。
空は黒い。
龍族の咆哮が空気を震わせる。
ただ鳴いているだけで、人の心臓を握り潰すような音だった。
それでもラビーは、一歩も退かない。
「クリステイルの名にかけて――ここは通しませんわ」
足元に、橙色の魔法陣が幾重にも展開する。
熱が走った。
「焔弓・千火連射!」

杖先から、無数の火矢が放たれた。
朱の軌跡が空を裂き、先頭の龍たちへ降り注ぐ。
一頭。
二頭。
十頭。
鱗を貫かれた龍が、炎を上げながら墜ちていく。
「すごい……」
誰かが呟いた。
フラワーも息を呑んだ。
これが、ラビー・クリステイル。
この学校で一番、代表にふさわしい人。
火は迷いなく空を走り、龍族を撃ち落としていく。
綺麗で、激しくて、誇り高い魔法。
自分の花とは違う。
けれど、すぐに異変に気づいた。
落としても、減らない。
空の黒は薄くならない。
むしろ、後ろからさらに大きな影が押し寄せてくる。
龍たちはただ突っ込んでくるだけではなかった。
一部が炎の射線を避けるように高度を変え、左右へ回り込んでいく。
知性がある。
ラビーもそれに気づいたのだろう。
一瞬だけ表情が強張る。
左右から回り込んだ龍が、低空へ降りてくる。
その爪が、ラビーへ向いた。
間に合わない。
そう思った瞬間、フラワーの足が勝手に動いた。
「ラビーちゃん!」
叫びながら、杖を握る。
怖い。
無理。
私なんかが。
そんな言葉より先に、胸の奥の魔力が溢れた。
咲いて。
守って。
お願い。
次の瞬間、焼けた空気の中に、ふわりと春の香りが混じった。
校庭一面に、花が咲く。
白。
薄桃。
淡黄。
淡紫。
無数の花々が、一瞬で地面を覆った。

まるで戦場の上に、季節だけが間違えて降りてきたようだった。
龍たちの動きが止まる。
ラビーも、教師も、生徒たちも。
誰もが一瞬、言葉を失った。
フラワー自身も、自分のしたことが分からなかった。
ただ、花畑の中心で震える手で杖を握っていた。
龍たちは咆哮しない。
襲いかかってこない。
花を見ている。
いや、見入っている。
獰猛だった瞳の奥に、一瞬だけ別の色が差したように見えた。
懐かしむような。
戸惑うような。
遠い何かを思い出しかけているような。
花は、龍を倒していない。
けれど確かに、龍の中にある何かへ触れていた。
「なに……これ……」
ラビーの声が漏れる。
守れた。
一瞬だけだけど、守れた。
でも、その一瞬は長く続かなかった。
ラビーが歯を食いしばる。
「だから何だというの……!」
巨大な魔法陣が、ラビーの足元に展開する。
さっきよりも大きい。
明らかに限界を超えた出力。
「巨大火焔剛球――!」
火球が落ちる。
爆音。
視界が白く染まった。
衝撃波で校舎の窓が震え、花びらが一斉に吹き飛ぶ。
フラワーの花畑は焼けた。
さっきまで春だった場所が、一瞬で黒い焦土に変わる。
焦げた花の匂いが、朝の演習場の記憶と重なった。
また、燃えた。
それでも、龍族は残っていた。
黒煙の向こうから、さらに大きな影が現れる。
ラビーの膝が揺れる。
魔力を使いすぎたのだ。
「ラビーちゃん、逃げて……!」
フラワーも膝をついていた。
もう一度花を咲かせようとしても、魔力がうまく集まらない。
ラビーは杖で身体を支え、なおも空を睨む。
「クリステイル家の名にかけて……ここで退くわけには……」
言い切る前に、龍たちが一斉に降下した。
終わる。
そう思った。
その瞬間、地面が低く唸った。
校庭全体を覆うほど巨大な魔法陣が、龍族の真下に浮かび上がる。
黒紫。
見ているだけで胸の奥がざわつくような色。
魔法陣の中心が、ゆっくりと開く。
地面そのものに、底の見えない穴が穿たれたようだった。
深淵。

その奥から、無数の黒い手が這い上がってくる。
手。
手。
手。
人のものに似ているのに、人のものではない。
影そのものが意思を持ったような腕が、空から降りてきた龍たちに絡みつく。
龍が絶叫した。
一頭、また一頭と、黒い手に捕らえられた巨体が深淵へ引きずり込まれていく。
翼をばたつかせても。
炎を吐いても。
爪で空を裂いても。
抗えない。
龍たちは、ただ奈落の底へ沈んでいくしかなかった。
フラワーは動けなかった。
これは魔法なのだろうか。
火でも、水でも、花でもない。
世界そのものが、別の理へ塗り替えられていくような力。
助かった。
そう思うより先に、怖いと思った。
だってこれは、救うための魔法というより。
すべてを沈めるための魔法に見えたから。
けれど、その時。
フラワーとラビーの身体がふわりと浮いた。
別の黒い手が、二人の手首をそっと掴んでいる。
龍を引きずるものとは違う。
壊れ物を扱うみたいに優しい手だった。
その落差が、かえって怖かった。
同じ深淵から伸びた手なのに。
龍は沈める。
自分たちは壊さないように運ぶ。
その違いを、当たり前みたいに使い分けている。
黒い手の先にいたのは、ハイネだった。
「……ハイネ、さん……?」
宙に浮かぶ少女。
片手には、一冊の黒い魔導書。
ページは風もないのにめくれ続け、そこから漏れる黒紫の気配が空を塗り潰している。
いつもの眠たげな目は、静かに細められていた。
おどおどした肩はまっすぐ伸びていた。
ただそこにいるだけで、世界の色が少し褪せて見えた。
フラワーは、幼い頃に読んだ絵本を思い出した。
かつてこの世界には、龍族の大群を奈落へ沈めた者がいた。
名は残っていない。
顔も知られていない。
ただ、二つ名だけが伝説として語り継がれている。
――深淵の大魔道士。
まさか。
そんなはずがない。
だって、あの人は。
授業中に寝ていて。
飛ぶ以外は苦手で。
人前で話すとすぐにおどおどして。
さっき窓枠に額をぶつけていた。
そして、自分の花を見つけてくれた、ただの転校生で。
「……だから言ったのに」
ハイネが小さく呟いた。
龍族が、最後の一頭まで深淵に沈む。
黒い魔法陣がゆっくり閉じていく。
やがて空には、嘘みたいな青が戻った。
その時、何もない空間がふわりと歪んだ。
現れたのは、長い外套を纏った男。
校長メルスティンだった。
「学校では校長先生って呼んでほしいなあ、ハイネちゃん」
「そういうのいいから」
ハイネは魔導書を閉じる。
「ふたりのこの瞬間の記憶、今すぐ消して」
「おや。即断だね」
「面倒になる」
フラワーの胸が、どきりと鳴った。
記憶を消す。
今見たものを。
ハイネの正体を。
自分の花が一瞬だけ龍を止めたことも。
全部、なかったことにする。
ラビーはすでに意識を失いかけていた。
けれどフラワーだけは、どうにか目を開けていた。
「ま、待って……」
その一言に、ハイネの指先が止まる。
フラワーは震える唇を動かした。
「わたし……あなたのこと、知らないはずなのに……知ってる気がする」
ハイネは黙っている。
「わたしの魔法を……褒めてくれて、ありがとう……」
言いたかったのは、それだった。
怖かった。
ハイネの深淵は怖かった。
でも、その前に。
この人は、自分の花を見つけてくれた。
誰にも評価されなかった魔法を。
自分でさえ信じきれなかった力を。
ただ一人、必要だと言ってくれた。
それだけは、忘れたくなかった。
「あなたが……深淵の大魔道士だったなんて……」
ハイネは、少しだけ目を見開いた。
しばらくして、ほんのわずかに笑う。
それは教室で見せていた曖昧な愛想笑いではなかった。
一瞬だけ零れた、素に近い小さな笑みだった。
「……まだ、内緒にしてほしかったんだけど」
ハイネはそっと手を伸ばし、フラワーの目元を覆った。

その手は、さっき龍を沈めていた黒い手とはまるで違った。
ひどく優しかった。
「いいの? ハイネちゃん」
メルスティンが問う。
ハイネは焼けた校庭を見下ろした。
焦げた花畑。
ラビーの倒れた身体。
そして、まだほんの少しだけ空気に残る春の匂い。
「サクラがいなくなってから、花の大魔道の後継はいなかったよね」
「花の魔法は希少だからね」
「……この子、私が育てようかな」
メルスティンの目が細くなる。
「また面倒を背負うつもり?」
「背負います」
即答だった。
「珍しいね。君が、自分から誰かを選ぶなんて」
ハイネは焼けた花畑を見下ろした。
「この子は、たぶん必要です」
「世界に?」
ハイネは少しだけ黙った。
それから、フラワーの方を見た。
「……私にも」
メルスティンは、もう何も言わなかった。
ただ、どこか困ったように、そして少しだけ嬉しそうに笑った。
「分かった」
彼は片手を掲げる。
淡い銀色の魔法陣が、空へ広がった。
時の魔法。
砕けた石畳が戻る。
焦げた校庭が巻き戻る。
焼け落ちた花々の痕跡が薄れていく。
逃げ惑っていた生徒たちの恐怖も、記憶も、少しずつ白くほどけていく。
ただひとつだけ。
「この子の記憶は?」
メルスティンの問いに、ハイネはフラワーを見た。
フラワーはもう、ほとんど意識を保てていなかった。
けれどハイネの声だけは、はっきり聞こえた。
「……残して」
「本当に?」
「はい」
「理由は?」
ハイネは、少しだけ困ったように目を伏せた。
「この子は、たぶん……忘れない方がいい」
銀の光が広がる。
ラビーの意識は完全に落ちた。
フラワーの瞼も、ゆっくり閉じていく。
最後に聞こえたのは、どこか遠くで響くハイネの声だった。
「私の素性は、まだ誰にも話さないで」
その声は小さかった。
けれど、フラワーの胸の奥には、確かに残った。
誰にも認められなかった花を、
たった一人、見つけてくれた少女。
その正体は、世界が忘れた伝説だった。
第2話につづく。

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