深淵の大魔道士 第2話「春に還る龍」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ|



百年前。
空は、黒い翼で埋め尽くされていた。
それは雲ではなかった。
嵐でもなかった。
龍族の群れだった。
焼けた戦場に、ひとひらの花びらが舞った。
黒煙の中で、その色だけがあまりにもやわらかかった。
薄桃色。
春の色。
「だめだ」
ハイネの声は、悲鳴に近かった。
「来るな」
それだけ言って、ハイネは口を閉じた。
名前を呼べなかった。
呼んでしまったら、本当のことになる気がしたから。
「……フラワーさん?」
名前を呼ばれて、フラワー・マンディははっと顔を上げた。
そこは、焼けた戦場ではなかった。
木造のあたたかな玄関先。
朝の光が磨かれた床に落ち、古い柱時計が静かに時を刻んでいる。
けれど胸の奥には、まだ焦げた土の匂いが残っていた。
「大丈夫?」
目の前で、長い外套を纏った男が穏やかに微笑んでいる。
メルスティン校長。
昨日、校庭の空でハイネと共に現れた、時の魔法を使う人。
「す、すみません……!」
フラワーは慌てて頭を下げた。
「少し、ぼうっとしてしまって……」
「無理もないよ。昨日あんなものを見たんだから」
その一言に、フラワーの肩がびくりと揺れる。
昨日。
龍族の群れ。
焼けた花畑。
黒紫の深淵。
宙に浮かぶハイネ。
そして、ハイネの言葉。
――この子、私が育てようかな。
あの後、校庭も、生徒たちの記憶も、何もかもが巻き戻された。
誰も覚えていない。
けれど、フラワーだけは覚えている。
その事実が、昨日からずっと胸の奥で重かった。
怖い。
でも、忘れたくない。
忘れたくないのに、覚えていることが怖い。
それが、今のフラワーの正直な気持ちだった。
「怖い?」
メルスティンが尋ねる。
フラワーは少し迷ってから、小さく頷いた。
「……怖いです」
嘘はつけなかった。
「でも、忘れたくないです」
メルスティンは、ほんの少しだけ目を細めた。
「そう」
たった一言だった。
けれど、その声は不思議とやさしかった。
まるで、忘れないことの怖さを、よく知っている人の声だった。
その時、家の奥から、ぱたぱたと頼りない足音が聞こえてきた。
「メルスティン……だれ、きたの……」
眠たげな声。
フラワーが顔を向けると、奥の廊下から、フード付きのもこもこした寝巻き姿の少女が現れた。
黒髪は寝癖で少し跳ねている。
目は半分しか開いていない。
袖は片方だけ手の甲までずり落ちていて、足取りもふらふらしていた。
ハイネ・ベルセルク。
昨日、千の龍を奈落へ沈めた深淵の大魔道士。
その同一人物とは、とても思えない姿だった。
「……あ」
ハイネの視線が、フラワーで止まる。
一秒。
二秒。
三秒。
みるみるうちに、ハイネの顔が赤くなった。
「ふ、フラワーさん……?」
「お、おはようございます……」
「え、いや、ちが、来るのは知ってたけど、今!? メルスティン、なんで先に言わないの。いや、言われた気もするけど、寝てたから、その、これは違くて」
「落ち着いて、ハイネちゃん」
「無理」
ハイネはそれだけ言うと、ものすごい勢いで奥へ引っ込んだ。
どたどた、がたん、ごとん。
廊下の奥で何かが崩れる音がする。
フラワーは思わずメルスティンを見た。
「……だいじょうぶ、ですか?」
「たぶん服の山に負けてるね」
メルスティンがあまりにも普通に言うので、フラワーは少しだけ笑ってしまった。
緊張で固まっていた肩が、ほんの少し緩む。
あの人が、深淵の大魔道士。
そう思うと怖い。
けれど、寝巻き姿で慌てて逃げたハイネを見ると、怖いだけの人ではないとも思う。
やがて戻ってきたハイネは、黒いワンピースに薄手のローブを羽織っていた。
髪も整えたらしいが、耳まで赤いのは隠せていない。
「……お待たせしました」
「い、いえ」
気まずい沈黙が落ちる。
ハイネは視線を泳がせたあと、小さく咳払いをした。
「今日は……フラワーさんに、会ってもらいたい人がいます」
「会ってもらいたい人……?」
ハイネは少しだけ目を伏せた。
「大事な人です」
その声は、昨日の深淵を開いた時よりもずっと小さかった。
けれど、その一言には、不思議なくらい重みがあった。
フラワーはそれ以上、聞き返せなかった。
メルスティンが懐から銀の懐中時計を取り出す。
蓋が開く。
かちり、と小さな音がした。
空間が、水面のように揺れる。
銀色の魔法陣が足元に広がり、三人を淡く包み込んでいく。
「行こうか」
メルスティンが言う。
「今日は、少しだけ昔の春へ行く」
足元の感覚が消えた。
落ちる、と思った。
けれど次にフラワーの頬を撫でたのは、やわらかな風だった。
目を開けた瞬間、息が止まった。そこには、桜が咲いていた。

一本や二本ではない。
丘も、道も、空へ続く斜面も、すべてが淡い薄桃色に染まっている。
風が吹くたび、無数の花びらが舞い上がり、光の粒みたいに空へ溶けていく。
どこまでも続く春。
この世のどこかというより、誰かの祈りの中に迷い込んだみたいだった。
「ここが……」
声が震えた。
「サクラの聖域」
メルスティンが静かに答える。
ハイネは桜の景色を見上げていた。
いつもの眠たげな表情はなかった。
昨日の深淵を纏った顔でもなかった。
ただ、長いあいだ触れられなかったものを前にした人のように、静かに立っていた。
「百年前」
ハイネが口を開く。
「花の大魔道サクラは、命と引き換えに龍族を桜へ変えました」
花びらが、フラワーの肩に落ちる。
「その時に散った花びらが、この地に根づいて、今も咲き続けている」
フラワーは足元を見る。
小さな白い花。
薄桃色の桜。
淡い黄色の野花。
どれも咲いている。
ただ咲いているだけなのに、なぜか胸が苦しくなるほど美しい。
「一年中、花が絶えないこの聖域に、龍族は踏み込めません」
ハイネの声は淡々としていた。
「サクラの花が、この場所を守っているからです」
守っている。
その言葉に、フラワーは胸元を押さえた。
自分の花は、三秒で燃えた。
龍を止めた花畑も、ラビーの炎で焼け落ちた。
でも、ここにある花は、百年も咲き続けている。
龍族を退け、誰かの記憶を守り続けている。
同じ花魔法なのに。
あまりにも遠かった。
「私には……」
言いかけて、フラワーは口を閉じた。
私には無理です。
そう言いそうになった。
けれど、ハイネがこちらを見る。
「今は、無理でいいです」
心を読まれたみたいで、フラワーは目を見開いた。
ハイネは視線を桜へ戻す。
「サクラも、最初からサクラだったわけじゃない」
その声は、ほんの少しだけ優しかった。
三人は花の道を進んだ。
歩くたび、足元の草花がかすかに揺れる。
どこからか水の音が聞こえた。
小川が流れているわけではない。
雨が降っているわけでもない。
それなのに、この場所全体に、命が巡っているような音がある。
風が吹く。
花びらが舞う。
その一枚一枚に、誰かの記憶が宿っている気がした。
フラワーは、腕を伸ばして花びらを受け止めた。
薄桃色の花びらは、掌の上で淡く光ったあと、すぐに風へ戻っていく。
消えたのではない。
巡っている。
そんな気がした。
やがて、三人はひときわ大きな桜の前で足を止めた。
その木だけは、他の桜とは違っていた。
大きい。
ただそれだけではない。
幹に手を触れなくても分かる。
そこに、誰かがいる。
木であり、花であり、祈りであり、記憶であり、墓標でもある。
「この木が……」
フラワーの声は自然と小さくなった。
メルスティンが、静かに言った。
「サクラだよ」
その一言で、風の音まで変わった気がした。
フラワーは桜を見上げる。
この木が、サクラ。
命と引き換えに龍族を桜へ変えた人。
百年ものあいだ、この場所を守り続けている人。
フラワーは、なぜか頭を下げていた。
会ったこともない。
声も知らない。
どんな人だったのかも、まだ何も分からない。
それなのに、胸の奥がいっぱいになった。
その時だった。
強い風が吹いた。
桜吹雪が舞い上がる。
薄桃色の花びらが、フラワーの周囲を回るように集まっていく。
一枚、また一枚。
光を帯びた花びらが重なり、細く長い形を作っていった。
「え……」
フラワーの目の前に、それは現れた。
一本のフルート。
淡い光を帯びた、硝子細工のような花のフルートだった。
表面には桜の花弁のような紋様が刻まれ、管の内側には水の光が流れている。
それはふわりと宙に浮いたあと、フラワーの腕の中へ静かに落ちてきた。
抱えた瞬間、胸の奥に春が満ちた。
あたたかい。
でも、軽くはない。
まるで誰かの最後の願いを、そのまま手渡されたようだった。
「わ、わたしに……?」
声が震える。
ハイネは桜の大樹を見上げたまま、静かに言う。
「サクラが、認めたんだと思います」
「そんな……」
フラワーは首を振る。
嬉しいより先に、怖かった。
自分の花は燃えた。
龍を止めたのも一瞬だけだった。
そんな自分が、こんなものを受け取っていいはずがない。
「わたしには、重すぎます……」
ぽつりと零れた言葉に、ハイネは少しだけ黙った。
それから、フラワーの前に立つ。
「重いです」
否定しなかった。
「これは、たぶん軽く持っていいものじゃありません」
フラワーの指が、フルートを握りしめる。
「でも、重いと思えるなら、持てます」
「どうして……」
「軽く扱う人には、渡されないものだからです」
ハイネの声は小さい。
けれど、真っ直ぐだった。
「ただし、そのフルートは、私がいいと言うまで絶対に使わないでください」
「え……?」
ハイネの表情が、ほんの少し険しくなる。
「まだ早いから」
「早い……?」
「花は、命を繋ぐ魔法です。でも、命に触れる魔法は、間違えると命を奪います」
フラワーは息を呑む。
腕の中のフルートが、少しだけ重くなった気がした。
ハイネはそれ以上、多くを語らなかった。
ただ、フルートを見つめる目が、ひどく慎重だった。
「約束してください」
フラワーは、胸元にフルートを抱いた。
怖い。
重い。
自分にはまだ分からないことばかりだ。
それでも、これは今、自分に託されたものなのだ。
「……はい」
フラワーは頷いた。
「ハイネさんがいいと言うまで、使いません」
ハイネは、少しだけ安心したように息を吐いた。
その時、少し離れた場所で、メルスティンが桜の根元に腰を下ろしていた。
何もない空間から、小さな酒瓶と二つのお猪口を取り出す。
ひとつを自分の前に。
もうひとつを、桜の根元に。
「サクラの国の酒だよ」
メルスティンはそう言って、静かに酒を注いだ。
とく、とく、とく。
澄んだ音が、花びらの降る空気に溶けていく。
フラワーもハイネも、何も言わなかった。
メルスティンは、桜の根元に置いた猪口を見つめていた。
いつもの軽さはなかった。
校長としての顔も。
時の魔法士としての余裕も。
今そこにいるのは、百年前に大切な人を失い、それでも春が来るたびに会いに来る男だった。
「今年も、ちゃんと咲いたね」
ぽつりと零れた声。
それだけで、フラワーの胸が締めつけられた。
メルスティンは自分の猪口を持ち上げる。
けれどすぐには飲まない。
桜を見上げる。
「……約束通り、思い出しに来たよ」
その声はあまりにも静かだった。
桜の花びらが一枚、メルスティンの肩に落ちる。
彼は笑おうとした。
けれど、その笑みは少しだけ崩れた。
目元に光るものがあった。
一滴。
それは音もなく、お猪口の中へ落ちた。
水面に、小さな波紋が広がる。
その波紋を隠すように、桜の花びらがそっと猪口へ降りた。
メルスティンは低く言う。
「献杯」

そして、酒を一息に飲み干した。
フラワーは動けなかった。
悲しみは、泣き叫ぶものだと思っていた。
でも違った。
百年経っても、こんなふうに静かに残る悲しみがある。
春が来るたびに、花を見るたびに、酒を注ぐたびに、同じ場所で同じ人を思い出す悲しみ。
それは消えていない。
ただ、花の下で静かに息をしている。
ハイネは桜の大樹を見上げていた。
その横顔には、メルスティンとは違う痛みがあった。
泣いてはいない。
けれど、泣くよりも深い場所で、何かを堪えているように見えた。
風が吹く。
花びらが舞う。
やがてメルスティンが、遠い昔を見る目で口を開いた。
「百年前も、こうして桜が舞っていた」
その一言で、聖域の春が、焼けた戦場の記憶へ変わっていく。
百年前。
戦場で、サクラは二人を見つめていた。
空には龍族の群れ。
大地には炎。
人々の悲鳴と、崩れていく防壁の音。
その中で、サクラだけが穏やかだった。
「二人とも、そんな顔しないで」
「するに決まってるだろ……!」
ハイネの声は震えていた。
黒い魔導書を抱える手にも、もう力が残っていない。
深淵を開き続けた反動で、膝も指先も限界に近かった。
メルスティンもまた、銀の懐中時計を握りしめたまま、何も言えずに立っている。
時を引き延ばしても、限界がある。
深淵で沈めても、数が多すぎる。
このままでは、帝国が呑まれる。
サクラは空を見上げた。
黒い翼が、太陽を隠している。
「花はね」
彼女は、静かに言った。
「咲くだけの魔法じゃないの」
指先から、ひとひらの花びらが舞う。
焦げた地面に落ちた瞬間、小さな花が咲いた。
「命を繋ぐ魔法。想いを留める魔法。帰る場所を残す魔法」
「やめろ」
ハイネが一歩踏み出す。
「サクラ、やめて」
サクラは首を振った。
「ハイネ。あなたは、五十年前にひとりで世界を守ったでしょう」
「そんな話してない!」
「今度は、私の番」
「違う!」
ハイネの叫びが、戦場に響く。
「番とかじゃない。順番なんかじゃない。誰かがいなくなることで守る世界なんて、そんなの……!」
言葉が続かなかった。
サクラは、泣きそうなくらいやさしい顔で笑った。
「優しいね、ハイネ」
「やめて」
「でもね、私はいなくなるわけじゃないよ」
桃色の光が、彼女の周囲で静かに強くなる。
花びらが舞う。
一枚。
十枚。
百枚。
戦場の風向きが変わる。
「ひとつだけ、お願いがあるの」
サクラは、メルスティンを見た。
メルスティンの唇が震える。
「……言うな」
「聞いて」
「嫌だ」
「メル」
その呼び方に、メルスティンの表情が崩れた。
サクラは、そっと微笑む。
「桜の季節になったら、私を思い出してほしい」
メルスティンは何も言えなかった。
何か言えば、彼女を止められる気がしていた。
でも、本当はもう分かっていた。
止められない。
サクラは、自分の命を魔法へ変えるつもりなのだ。
ハイネが黒い魔導書を開こうとする。
「だめだ。そんなことさせない。深淵で、私が――」
「ハイネ」
サクラの声が、静かにそれを止めた。
「沈めるだけでは、終わらないよ」
ハイネの指が止まる。
「憎しみを沈めても、またどこかで浮かび上がる。だから私は、春に還す」
「還す……?」
「龍を、ただの敵で終わらせない」
サクラは空を見上げた。
「命は、奪い合うだけじゃない。形を変えて、残ることもできる」
桃色の光が、空へ昇っていく。
龍族の咆哮が、わずかに変わった。
それは怒りではなかった。
恐怖でもなかった。
まるで、遠い記憶に触れたものの声だった。
サクラは最後に、二人を見た。
「春は、ちゃんと来るから」

その瞬間、世界が桜色に染まった。
大地から、花が咲いた。
焼けた土から。
砕けた石畳から。
倒れた兵士のそばから。
折れた旗の根元から。
無数の桜が一斉に芽吹き、枝を伸ばし、花を開いた。
その花は、空へ届いた。
龍族の巨体を包み込む。
鱗が樹皮へ変わる。
翼が枝へ変わる。
爪が根へ変わる。
咆哮が、花びらの舞う音へ変わる。
それは討つ魔法ではなかった。
殺す魔法でも、沈める魔法でもなかった。
暴威そのものを、春へ還す魔法だった。
一本。
また一本。
龍が桜へ変わっていく。
黒かった空が、薄桃色に染まっていく。
そして、その中心で。
サクラの身体もまた、光に包まれていた。
「いやだ……」
ハイネの声は、もう子どもみたいに弱かった。
「サクラ、いやだ」
サクラは微笑んでいた。
その身体が、少しずつ花びらへほどけていく。
指先から。
髪の先から。
頬の輪郭から。
春の風に溶けるように。
メルスティンが一歩踏み出した。
けれど、届かない。
時を止めようとしても、止まらない。
時を戻そうとしても、戻らない。
サクラ自身が、自分の命の時間を魔法に変えている。
止めるということは、彼女の願いを壊すことだった。
メルスティンは膝をついた。
「……サクラ」
サクラは最後に、彼を見た。
「泣かないで」
「無理だよ」
「じゃあ、泣いてもいいから」
サクラは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「春には、会いに来て」
メルスティンの頬を、涙が伝った。
サクラはもう一度、ハイネを見る。
「ハイネ」
ハイネは首を振る。
「聞きたくない」
「花を、嫌いにならないでね」
その言葉に、ハイネの目が見開かれた。
「あなたの深淵も、誰かを守るためにあるんだよ」
「違う……私は……」
「違わない」
サクラの声は、もう風の中に溶けかけていた。
「あなたは、沈めることで守ってきた。私は、咲かせることで残す。それだけ」
花びらが舞う。
サクラの輪郭が、薄れていく。
「いつか、私の花を継ぐ子が現れたら」
彼女は笑った。
「その子を、見つけてあげて」
ハイネは何も言えなかった。
その言葉が、百年後の自分に届くものだなんて、まだ知らなかった。
サクラの身体は、無数の花びらとなって風へ溶けた。

空を覆っていた龍族も、すべて桜へ変わっていく。
黒かった空に、春が戻る。
そして戦場には、泣き崩れるメルスティンと、黒い魔導書を抱えたまま立ち尽くすハイネだけが残った。
ハイネは、散っていく花びらの向こうへ手を伸ばす。
けれど、何も掴めなかった。
ただ、春の匂いだけが指先に残った。
風が止んだ。
フラワーは、桜の大樹の前で立ち尽くしていた。
百年前の景色は消えている。
そこにあるのは、静かな聖域の春だけだ。
でも、胸の奥にはまだ、サクラの声が残っていた。
花は、咲くだけの魔法じゃない。
命を繋ぐ魔法。
想いを留める魔法。
帰る場所を残す魔法。
フラワーは、知らないうちに泣いていた。

悲しいからだけではなかった。
怖いからでもなかった。
ただ、自分が抱えているフルートの重さが、もう物の重さではなくなっていた。
これは、力ではない。
武器でもない。
誰かが命を使って残した、春の続きだ。
そんなものを、今、自分は腕の中に抱いている。
そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「フラワーさん」
ハイネが、そっと呼ぶ。
その声で、どうにか踏みとどまった。
フルートを落としてはいけない。
そう思った。
落としてはいけないというより、手放したくなかった。
メルスティンは、桜の根元に置いた猪口を見つめている。
そこには、さっき注がれた酒がまだ少し残っていた。
花びらが一枚、酒の上に浮いている。
彼は静かに言った。
「百年経ってもね、慣れないよ」
フラワーは何も言えなかった。
「春が来るたびに、今年も咲いたって思う。咲いてくれてよかったって思う。でも同時に、今年もいないんだなって思う」
その声は、あまりにも穏やかだった。
穏やかだからこそ、痛かった。
「時の魔法士なのに、戻したい時間ほど戻せない」
メルスティンは笑った。
「皮肉だよね」
ハイネは黙っていた。
フラワーはフルートを胸に抱きしめる。
「わたし……」
声が震えた。
「わたし、まだ何も分かっていません」
ハイネがこちらを見る。
「花が、こんなに重いものだなんて、知りませんでした」
風が吹く。
フラワーの髪を、桜の花びらが撫でていく。
「でも……忘れたくないです」
昨日も同じことを言った気がした。
怖い。
重い。
自分にはまだ遠すぎる。
でも、忘れたくない。
「サクラさんのことも、ハイネさんが私を見つけてくれたことも、この花の意味も」
フラワーは、ゆっくり顔を上げた。
「忘れたくないです」
ハイネは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……それでいいと思います」
「それだけで、いいんですか?」
「最初は」
ハイネは桜の大樹を見上げた。
「忘れないことからしか、始まらないから」
メルスティンは立ち上がり、根元の猪口をそっと片づけた。
その手つきは丁寧だった。
まるで、そこにまだサクラ本人が座っているみたいに。
「そろそろ戻ろうか。あまり長くいると、ハイネちゃんがまた難しい顔になる」
「なってません」
「なってるよ」
「なってません」
そのやり取りは軽い。
けれど、さっきの献杯を見たあとでは、その軽ささえ悲しみを隠すためのものに見えた。
帰り際、フラワーはもう一度だけサクラの大樹を振り返った。
桜は、静かに咲いている。
百年前からずっと。
龍を春へ還しながら。
誰かの悲しみを抱えながら。
フラワーは胸元のフルートを両手で包んだ。
いつか、自分にも分かる日が来るのだろうか。
花で守るということ。
命を繋ぐということ。
誰かの帰る場所になるということ。
今はまだ、分からない。
けれど、ハイネが見つけてくれたものを、簡単に手放したくはなかった。
銀の魔法陣が足元に広がる。
聖域の春が、少しずつ遠ざかっていく。
最後に、風が吹いた。
一枚の花びらが、フラワーの手の中のフルートに触れる。
その瞬間、かすかに音がした気がした。
まだ吹いていないはずのフルートが、
ほんの一瞬だけ、春の音を鳴らした。
それは、祝福の音ではなかった。
背負うことを選んだ者にだけ聞こえる、
小さな始まりの音だった。
第3話につづく。
NEXT▼




