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「ラグビーは、日に日に簡単になっていく」~大学から、東芝退団までの10年~

プロラグビー選手の山川力優です。

前回のnoteでは、幼少期から高校までの生い立ちを書きました。今回はその続きです。

天理大学に進学して、社会人になって、NTTドコモ、東芝ブレイブルーパス東京と進み、この5月に東芝退団が発表されるまでの、約10年間の話。

先に少しだけ言っておくと、この10年間には、

二十歳前後の、たった1年の間に、3人の身近な人を亡くした話があります。

どうやっても勝たれへんかった、一学年下のライバルの話があります。

悔いの残った2年間と、後悔のない4年間の話があります。

前回よりさらに長くなりますが、よかったら最後までお付き合いください。


「あれ、俺、思ってたより行けるんちゃう?」

高校時代の僕は、外の世界を全然知りませんでした。

天理高校は天理高校だけで完結している世界で、全国大会には出たけど、他の高校の選手と喋る機会なんて全くない。だから、自分の評価がどこにあるのか、全然わかってなかったんです。

それが大学に入って、いろんな高校から来た選手や先輩と喋るようになって、初めて自分の立ち位置が見えました。

で、思ってたより、高かったんですよ。それがまず、大きな自信になりました。

天理大学のラグビー部は、部員が150人ぐらいいます。AチームからF、Gチームぐらいまであって、新入生は基本、一番下からのスタート。そんな中で僕は、最初の試合からCチームぐらいで使ってもらえました。同級生でCチームに出ていたのは、3人だけでした。

1年生のときに立てた目標は、「1年生の間に、一回だけでもいいから、天理大学の黒のファーストジャージを着る」こと。

高校のジャージは白。大学は黒。黒を着るということは、一軍で試合に出るということです。

先輩の怪我とか、いろんなラッキーも重なって、その目標は1年生の6月か7月ぐらいに達成できました。

その年はレギュラーにも固定のリザーブにもなれなかったけど、「2年目は絶対やってやる」という気持ちで1年目を終えました。

小鍜治悠太、現る

2年生になっても、序列は3番手のまま。上の2人が4年生になって、まだ僕の順番は来ない。それでも「チャンスはそのうち来る」と思っていました。

そこに、1年生が入ってきます。

「これは、すごいのが入ってきたな」

同じポジションの、小鍜治悠太です。

体は最初からめちゃくちゃ強い。スキルはまだこれからやけど、磨いたらとんでもないところまで行くんちゃうか。しかも、練習をめちゃくちゃする。

「これは相当頑張らな、無理やぞ」と、入ってきた瞬間に思いました。

そして2年生の夏、僕はあばらを折ってしまいます。その怪我のタイミングで、小鍜治と僕の序列が入れ替わりました。

そこからは、追い抜かれて、追い越せない。気づけば4番手。

小鍜治はまだAチームでは出ていなかったけど、正直、1年生の時点で、すぐにでもAチームで通用するんちゃうかというレベルでした。「来年、再来年、自分らの代になったとき、俺、試合に出られへんのちゃうか」

大きな挫折でした。

練習へのモチベーションがなくなることを「腐る」って言うんですけど、僕は完全に腐りかけていました。練習もしたくないし、何をやってもしんどい。

そんなタイミングでした。友達が、白血病になったんです。

「生きるって、何なんやろ」

そいつとは、中学の野球時代からの縁でした。

チームは違うけどポジションが同じで、なんでか仲が良くて。高校で天理に入ったら、部活は違うのにまた同じ場所で再会して、「おお、あんときの!」って。大学では学部もクラスも一緒になって、授業中に先生に隠れて笑かし合いをするような仲でした。

「こんなに人のこと笑かせるやつ、おるんや」

っていうぐらい、とにかく面白いやつでした。これは、亡くなったから言うてるんじゃないです。あいつが生きてるときから、ずっと思ってたことです。

そいつが、パタッと学校に来なくなりました。白血病と聞いてから、2ヶ月か3ヶ月。

二十歳の誕生日を目前にして、亡くなりました。19歳でした。

僕はそのとき、白血病がどういう病気なのかすら、ちゃんと知りませんでした。

自分が挫折を味わっている真っ最中に、友達が亡くなる。

「生きるのって、どういう意味なんやろ」

そこから初めて、そんなことを考え始めました。当時の僕の頭の中にはラグビーしかなくて、ラグビーが全てやった。そのラグビーはうまくいかない。友達は亡くなる。全然、他人事じゃない。

足元がふわふわするような感覚になって、夜も寝られへんし、「死んだらどうなるんやろ」とか、ずっと考えている。今思えば子どもっぽいですけど、当時は本気でした。

やっと気持ちの整理がついてきた数ヶ月後に、今度は小学校のときの野球のコーチが急に亡くなりました。この間まで元気やった人です。まだ39歳ぐらいの若さでした。

「生きるって、何なんやろ」

答えなんて全く出ていないまま、また同じ課題にぶつかりました。

出した答えは、「今を生きる」

3年生になるにあたって、僕が出した答えは、シンプルでした。

こんなん考えてても、しゃあない。

とにかく、今を生きる。死んでも後悔がないように、今、目の前のことに全力を出す。思ったことは、後悔する前に、すぐやる。

生きる意味っていうのは、たぶんそこなんかなと。まずはそう思うことにしました。

小鍜治に追いつけない状況は変わっていません。でも、「ここで俺が腐ってたら、一生後悔するぞ。死んでも死にきれへんぞ」と思ったんです。

だから、目の前の一本にひたすら集中し続けました。練習も、試合も、ただひたすら。

3年生で、やっと公式戦に出られるようになりました。スタメンは小鍜治、僕はリザーブ。悔しかったですけど、それでも目の前に集中し続ける。

チームは関西Aリーグで優勝して、12月に大学選手権に進みます。

準々決勝の朝、じいちゃんとの別れ

大学選手権・準々決勝の日の朝、親から電話がかかってきました。じいちゃんが、もう危ないかもしれん、という連絡でした。

本当ならすぐに駆けつけたかった。でも、試合の日の朝で、もう準備もしていました。

泣きながら、電話しました。

「おじいちゃん、今までありがとう」

電話越しの、それが最後になりました。

僕は、めちゃくちゃおじいちゃん子でした。最後は一緒に住んでいたし、週に1回家に帰るたびに、いろんな話をしてくれる。僕のモチベーションの源みたいな人でした。

じいちゃんの口癖は、「成せば成る」

何でもやったら絶対に形になる。思い続けてたら絶対に成功するから。帰るたびに、毎回毎回、しつこいぐらいに言われて、僕は「もうええで、その話」って流していました。

母方の親戚は頭のいい人ばっかりで、東大とか京大とか、弁護士とか。その中でひとり、勉強のほうはからっきしで肩身の狭かった僕を、じいちゃんだけがずっと守ってくれていました。

「お前はスポーツだけ頑張っとったら、それでええから」

そのじいちゃんが、その日に亡くなりました。

じいちゃんが亡くなった日の試合。僕は、自分に被さっていたものが全部めくれたような、何かが開花したような感覚になりました。友達とコーチの死からずっと考えてきた「生きる意味」と、じいちゃんが僕に言い続けてくれたことが、全部合致した。

「これや」

もう、これしかない。自分がやりたいことを、絶対にやろう。そう思いました。

実際、その日の僕は、いつも以上のパフォーマンスが出ていました。「とにかくスクラムだけは全部勝つ」と決めて臨んだ試合は、後半、危ない展開になります。その後半から出た僕は、スクラムを全部押しました。

チームは、勝ちました。

年明けの準決勝の相手は、9連覇中で10連覇に王手をかけていた帝京大学。

これにも、勝ちました。

続く決勝は明治大学に負けて、学校史上2回目の決勝は、準優勝で終わりました。

悔しさはもちろんあります。でも、あの3年間はずっと、「生きる意味って何なんやろ」って、自分を探し続けた時間やったなと思います。

そして、ひとつ気づいたことがあります。

誰かが亡くなるということは、必ずしもとは言わんけど、残された人間に影響を与えるようになっている。世界はそういうふうに回っている。

じゃあ、俺が死ぬときは、誰に影響を与えられるんやろ。

一人でも多くの人に、影響を与えられる人間になりたい。

大学生の僕が、3人との別れの先にたどり着いた場所でした。

最終学年 ― 小鍜治と、バチバチの日々

4年生になって、僕はリーダーの一人になりました。天理はキャプテン、副キャプテン、FWリーダー、BKリーダーの4人体制で、僕はFWリーダー。

「勝たなあかん」という責任感はもちろんありました。でも正直に言うと、僕は自分のことで精一杯でした。

まず自分が小鍜治に勝って試合に出な、何も始まらん。4年生のはじめはそんな感じやったと思います。

小鍜治とは、練習でバチバチにやり合いました。

AチームとBチームでスクラムを組んで、「そっちがペナルティやろ」「いや、そっちやろ」って熱くなって、つかみ合いになったことも普通にあります。僕らに限った話じゃなくて、天理では選手同士で激しい感情のぶつかり合いになることも珍しくない。

それぐらい、全員が本気で勝ちたかったということです。でも、練習が終わったらみんな仲がいい。

小鍜治とも、めちゃくちゃにやり合った日の夜に、肩を組んで焼酎を飲んでいました。今でも「あの時、あんな感じやったよな」って、よくその話をします。

本気でぶつかって、本気で高め合う。それが天理のいいところで、小鍜治は僕にとって、ライバルである前に、『仲間』でした。

僕から見た小鍜治は、気持ちが強い。体が強い。負けず嫌い。仲間のために体を張れる。ラグビー選手に必要なものを全部持っているやつです。

僕も負けん気とハングリー精神には自信がありますけど、体の強さは小鍜治のほうが上やと思うし、何より、あいつは並外れて努力ができる。だいぶ怖い存在でした。めちゃくちゃマイペースなところも含めて、憎めない、ほんまにいいやつなんですけど。

ぶつかるのは、体だけじゃありません。

天理は、学生が仕切るチームです。練習メニューや戦略はコーチ陣が考えてくれるけど、基本は「自分たちで考えて、あかんかったら俺らが直す」というスタイル。モールでこうなったとき、前のやつは抜けるべきか、抜けへんべきか——そんなプレーひとつでも、その場でみんなで議論します。

リーダーとして、これが難しかった。人数が人数なんで、意見は絶対にまとまらない。キャプテンと言い合いになったこともあるし、小鍜治も遠慮なく「それはないやろ」って言うてくる。みんなから「ああだこうだ」言われて、「俺の答え、合ってんのかな」ってなる瞬間もありました。それでも最後は、押し通さなしゃあない。

まあ、僕がやっていたのなんてほんの一部で、キャプテンはもっとしんどかったやろな、と毎日思っていましたけど。

夏ぐらいからは、「小鍜治に勝ちたい」よりも、「チームで勝ちたい」という気持ちのほうが強くなっていきました。前の年が準優勝。目指すのは、優勝しかない。

正直、簡単やとは思っていませんでした。前年のいい4年生がガラッと抜けて、厳しくなるのはわかっていた。それでも合宿では勝つべき相手にしっかり勝てていたし、「やり続ければ、いける」と思っていました。

大学4年生の関西Aリーグで優勝したとき。小鍜治(写真左)と。

ベスト4。記憶がない

この年の結果は、関西Aリーグは優勝したものの、大学選手権はベスト4でした。

準決勝で、早稲田に大差で負けました。

そのときの記憶が、本当にないんです。悔しすぎて、試合を見返すこともできない。

残ったのは、「やりきった」という悔しさじゃなくて、「もっとできたな」という悔しさだけでした。あの結果は、正直、今も受け入れられていません。

小鍜治との勝負でいえば、序列はずっと僕が下でした。それでも、自分の中では「ちゃんとやった」と言えるだけのことはやったので、そこに後悔はありません。ただ、チームとしての終わり方だけは、ずっと胸に残っています。

ちなみにその翌年、小鍜治たちの代の天理大学は、大学日本一になります。

NTTドコモでの2年間 ― 悔いの残った社会人スタート

卒業後の進路は、NTTドコモレッドハリケーンズに決まっていました。

大学を卒業する前、卒業旅行で沖縄に行っていたんですけど、そこでテレビ中継を見たんです。当時最強やった神戸と、ドコモの試合。ドコモが、97対0で負けていました。

「なんじゃ、このスコア」

僕は天理高校も天理大学も、ずっとトップに居続けるチームでやってきたので、一番下のチームに入るのは初めてでした。だからこそ、「俺が入ることで、絶対に勝ったる」と思って入りました。

2020年4月に入社して、世の中はコロナ真っ只中。8月ぐらいまでチーム活動はできませんでした。

活動が始まって、最初に思ったこと。正直に書きます。

「あれ、俺の知ってる『チーム』と違うな」

僕が知っている「仲間」は、本気でぶつかり合って、本気で高め合う、天理のあの感じでした。それを勝手にものさしにしていたから、当時の僕には、チームの距離感がどこか遠く感じられたんです。

もっと本気でぶつかり合いたいのに、と。ただ、今思えばコロナ禍で、そもそも顔を合わせる時間がほとんどない、特殊すぎる時期でした。あの空気は、誰が悪かったわけでもないと思います。

それでも、これだけは環境のせいにできません。僕自身が、完全にその空気に流されました。

練習が終わったらすぐ帰って、シャワー浴びて、飯食って寝る。それで一日が完結する生活に、まんまと乗っかってしまった。自主練をするかどうかは完全に自分次第やのに、僕は、やらなくなっていきました。

ポジションも、本職の3番ではなく1番で使ってもらうことが多くて、「ほんまは3番がやりたいな」と思いながらやっていました。2年間で公式戦に出られたのは、3試合ほどでした。

1年目の時点で、「このまま、ここでの自分を続けてたら、あかんな」と思っていました。だから2年目は、試合に出て、移籍して、プロになる。そう決めて過ごしました。

社会人6年間で、後悔が残っているのはこの2年間だけです。もっと自主練して、自分が試合に出るための準備を、ちゃんとせなあかんかった。大学時代にあれだけ「今を生きる」って誓ったはずやのに、環境に流された自分がいました。

小鍜治がつないでくれた、東芝への道

そのタイミングでNTTのチーム再編成もあり、僕は移籍活動を始めます。

移籍したいからといって、各チームのヘッドコーチに直接自分を売り込むことはできません。所属する知り合いの選手に自分のプレー動画を送って、その選手からリクルーターに渡してもらう。いわば、紹介制です。

紹介する側にもリスクがあります。

「いい選手ですよ」と推した選手が期待外れやったら、自分の株が下がる。それに、各チームには補強の方針やポジションの事情もある。動画を受け取っても、リクルーターまで話を上げるのは、簡単なことじゃありません。

僕は、いろんなチームの選手に動画を送りました。

そんな中で、すぐにリクルーターへつないでくれたのが、小鍜治でした。

しかも後から聞いた話ですが、小鍜治はリクルーターにこう熱弁してくれていたそうです。

「この選手は絶対に取ったほうがいい。すごい高め合える仲なんで」

大学であんだけつかみ合いの喧嘩をして、肩を組んで焼酎を飲んだあいつが、僕の東芝への扉を開けてくれた。運命としか、思えませんでした。

東芝からオファーをもらったときは、「絶対に東芝に行きたい」と即決でした。泥臭いチームで、どこか天理に似た雰囲気があって、ここなら絶対に成長できるとわかっていたからです。

入るときの自己評価は、プロップの序列、完全に最下位。ドコモのときはそんなこと思わんかったのに。でも、だからこそ、その挑戦がしたいと思いました。

勝ち筋はシンプルです。自分が試合に出るために何を強くするべきかを考えて、自分の強みを磨き抜く。僕の場合は、スクラムでした。

東芝での4年間 ― 怪我だらけ。でも、後悔はない

1年目は、良かったです。開幕から2、3試合、出させてもらいました。

2年目は大きい怪我をしてしまったんですけど、復帰してすぐ、また試合に出してもらえました。

2年目が終わってから3年目に入るタイミングで、ニュージーランドに留学しました。目的はひとつ。とにかく試合に出て、試合勘を取り戻すこと。結果、めちゃくちゃ取り戻せたし、めちゃくちゃ成長しました。

あとから思えば、僕のラグビー観は、この留学のあたりから徐々に変わり始めていました。

ラグビー以外にも選手が現役中に他のビジネスをしている姿に刺激をもらったんですけど、その話は別のnoteに書きました。

3年目は、ずっといい位置にいました。でも、いいところで怪我。

4年目も、自分がアピールできる場所で、また怪我。

3年目と4年目は、怪我で潰してしまいました。めちゃくちゃ悔しかったです。

それでも、何回でも立ち上がりました。ほんまに、何回でも。

東芝は、グラウンド練習が終わったあと、ほぼ全員が自主練をするチームです。ドコモ時代に自主練から逃げた僕には、その景色が、まぶしく見えました。泥臭くて、本気でぶつかり合える。天理で知っていた、あの「仲間」の感覚が、そこにはありました。

今年、契約満了を告げられて、4年間を振り返りました。

全然、悪い4年間じゃなかった。

めちゃくちゃ成長できたし、自分がどういう位置にいる選手なのかも確認できた。次につながるスキルも磨けたし、自主練もやり切った。

出場試合の数だけを見れば、物足りないと思われるかもしれません。それでも、後悔は、ありません。

今、思っていること ― ラグビーは、日に日に簡単になっていく

東芝を退団した今の正直な気持ちは、全然、不完全燃焼です。

まだまだやれる。まだまだやりたい。

次のチームが正式に発表されたら、そのときはまた、新しい場所のことをこのnoteで書かせてください。

最後に、いま僕がラグビーに対して思っていることを書いて、締めたいと思います。

社会人6年間で、僕のラグビー観は変わりました。ひとことで言うと、

「ラグビーは、日に日に簡単になっていく」

プロになると、どうしても難しく考えすぎてしまうんです。でも実際は、ラグビーでやることって単純なんですよね。体を当てて、スクラムを組んで、チームのために体を張る。チームのためにディテールを頭に入れて、トレーニングして、同じサイクルを回し続ける。

ニュージーランドに行ったあたりからですね。「ラグビー難しいな」と言っていた自分が、徐々に「もっと簡単にやれるな」になってきて、「ラグビーって、単純やんけ」になってきた。

もちろん、試合に出ることや勝つことが簡単、という意味ではありません。ただ、難しく考えすぎている自分が、確実にいた。

「そんなに難しくないよ」

何年か前の自分に、これを言ってやりたいです。

ただ、ひとつ思うのは、深く難しいところまで考え抜いた人間じゃないと、たぶんこの答えには辿り着けません。生きる意味を考え続けた大学時代も、悔いの残ったドコモの2年間も、怪我だらけやった東芝の4年間も、全部あっての「単純やんけ」やと思っています。

シンプルに、今を生きて、目の前の一本を押す。

成せば成る。

じいちゃんの言葉を、29歳になった今は、素直に信じています。

おわりに

ということで、今回は大学から東芝退団までの、約10年間を書きました。

前回に続いて、「本当に運に恵まれた人生やな」と改めて思います。天理の仲間たち、小鍜治、東芝のみんな。そして、僕に「生きる意味」を考えさせてくれた3人。

一人でも多くの人に影響を与えたい。あのとき、そう思った僕が、いまこうしてnoteを書いています。

新天地のことは、発表され次第、またあらためて。ラグビーの話も、ラグビー以外の話も、これからも書いていきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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