父の身辺雑記 垣間見えた戦中戦後の日本~① 内務省採用 原爆投下を知らされる
引き出しから出てきた父の日記
「又しても、日記を書き始める」。こんな書き出しで始まる父の身辺雑記。亡くなって間もなく母が引き出しから出して見せてくれました。東京帝国大学の学生だった昭和17年10月1日から亡くなる2年くらい前まであり、手書きだった部分はワープロで入力し直し、印刷してありました(空襲で一部焼失、欠落)。今回はその中から戦中~戦後にかけての部分を抜粋ですが少しずつ紹介していこうと思います。なお、日記と同期する写真はないため、本文と時代やシーンとは直接関係はありませんが、父のアルバムの中からいくつかを選んで掲載しました。

内務省就職
昭和20年8月8日
3日上京長利君の家に泊まる。4日選考試験。6日採用発表。7日人事課長の所へ挨拶にいく。その席で広島の原爆被災を知った
終戦前後
昭和20年8月10日
日ソ開戦す。これが昨夕得たニュースであった。広島に於ける特殊爆弾と言い、今回のこの報道と言い、只でも次第に終末に近付きつつあると思わせるのに、愈々最後の段階に突入したの感が深い。また聞く所に依れば、目下御前会議開催中という。
昭和20年8月15日
歴史的なるこの日、早朝より空襲警報発令。遅めの朝食を済ませて登庁したが、折からの解除の報を聞いて、三々五々集まってきた工員達は、恐らくは何も知らないのであろう。何時もと同じ様な顔をして、何時もと同じ様に工廠の門へと吸い込まれて行く。
正午、天皇陛下ご自身の放送あり。
昭和20年8月16日
昨日の発表は余りに意外であったらしい。憤慨激昂するもあり、落胆愁傷するもあり。工廠当局の如き、何を勘違いしたのか、未だ戦争は済んだのではないから、警戒を厳にし、兵器増産に増々努力せよ、と諭している。
昭和20年8月17日
次第に事態が明瞭になって来たようだ。工廠でも総ての仕事は停止し、専ら焼却と処分と整理とに大童のようだ。
昭和20年8月18日
昨晩敵軍迫るのデマに、居合わせた者は慌てて東京へ帰って行った。残ったのは僕を入れて三名。何しろ多少信じていたから、やや悲壮な気持ちで籠城していた所へ、鈴木君野辺地君など続々帰来し、大いに心強く思った。軽率な言動は厳に慎むべきだ。
物資部は大混雑、在庫品のありたけを売り捌くと言うので、大勢詰めかけている。
*学生時代の父はこの時、勤労動員で東京の下宿とは別に神奈川・平塚の「相模工廠」の宿舎に居ました(20年5月10日~)。平塚は本土決戦となった場合、米軍上陸が想定されていたところです。後の日記によれば「昭和20年7月16日夜半、平塚市の我々の宿舎は、遂に敵機の焼き払う所となり、昨年八月末よりより書き続けた日記も亦、焼失してしまった、ともありますので、平塚で別の宿舎に入ったのか。また、「その前の日記は、下宿に残したまま、三月の東京空襲で焼けてしまった)」とあります。ただ、昭和17年10月1日から18年11月12日までの日記は残っており、日記焼失の詳しい経緯は不明です。
昭和20年8月21日
昨二十日退庁。今日は長利君にも手伝って貰って、荷物をすっかり運んだ。(取り敢えず同君宅に落ち着く)
昭和20年8月22日
先ず大学へ行く。三年は授業がないと言うことを確かめ、次に内務省へ行く。此処でも、郷里へ宛てて電報を打ってやるから帰郷してもよいとのこと。そこで最後に東京駅へ出て見た所、近く敵軍進駐を前にして、我が軍を後退させる為、軍人以外一切切符の発売を停止するとある。すっかりがっかりして帰途に就く。
昭和20年8月27日
汽車乗車券の発売制限が緩和されたと言うので、早速東京駅に行って見た。物凄い行列、朝の十時頃から一時過ぎまで掛かって、それでもやっとともかく切符が手に入った。
*この後、帰省中に大阪赴任が決まり(昭和20年10月3日の日記)、22年に東京に転勤になりました(22年2月19日の日記)。
日記はこのほか、昭和17年のソロモン海戦の大本営発表への疑問や、敗戦後の餓死への恐怖や寒さなどが淡々と綴られています。
年代は前後しますが、ソロモン海戦に関しては以下の記述が興味深いです。
戦局
昭和18年2月10日
新聞はソロモン海に於ける敵味方の損害発表を伝えている。敵軍の戦死二万五千余に対し、我が方は一万六千七百三十四人であるが、比率から言って我が損害は大であったと言えよう。
*死者数からすれば日本軍が勝って米軍が負けているように見えますが、分母となる兵員数は米軍の方が圧倒的に多いので結局日本が負けているということです。大本営発表は嘘ばかりと言いますが、注意深く読むと案外真実を伝えていると言われます。
🖊マイノート
大阪の商家に生まれ高等文官へ
大正11年、大阪・順慶町(現大阪市中央区南船場)の商家に長男として生まれた父は勉強が好きで、小学校を1学年飛び級し、大阪・北野中学校、大高(いずれも旧制)へと進み、東京帝国大学法学部法律学科在学中に高等文官試験に合格し、官僚の道を歩み始めました。家業を継がなかった理由は、本人によれば「休みが1日もないのが嫌だった」から。

実家は雑貨を扱っていたそうです。私が生まれる前に当主(私の祖父)が亡くなって既に事業を売却しており、訪ねに行ったことはありません。丁稚を雇っていたと話していました。
丁稚と同じものを食べていた
食事は家族も丁稚も同じものを食べていたそうです。よく出たのが切り干し大根と(ドロドロになった)ワカメの味噌汁だそうで「三丁先から匂ってきた」。下校して家近くまできてこの匂いがしてくると「またか」とげんなりしたそうです。
大阪の商家といえば小説に出てくるような豪勢な食事と道楽といった派手なイメージがありますが、実際は質素なものを食べ休みなく働きひたすら貯める生活だったことが分かります。
「小学校を出たらすぐに商売や」
日頃からこう口にしていた父の父(私の祖父)は学校を出ても家業に何の役にもたたない、商売や、商売や、という考えの持ち主で、中学進学にさえ反対したそうですが、とにかく周囲が説得してなんとか大学まで行かせてもらいました。
他にも祖父は変わった人だったと聞いています。祖父が小学校低学年のころ、どこか儲かっていそうな商家を1人で訪ねて行き、玄関先で「ぼく商売したいんや、雇って」「ほう、それは感心やな。でもな、いっぺんお父ちゃんと相談して、いいと言われたらもういっぺんおいで」と体よく追い返された話とか、小学生だった父が百人一首を買って欲しいとねだったところ「この場でどれか歌を空で詠めたら買うてあげる」というので、じゃあと、すらすら詠んだら(断る理由がなくなったので)しぶしぶ買ってくれたとか、ハーモニカは絶対に買ってくれなかったとかも話していました。学問や詩歌管弦は商売がおろそかになる元だと考えていたふしが感じられます。
そんな祖父は常にお金(資金繰り)の心配をしていたといいます。この頃になると、いわゆる商家は斜陽になっており、それが原因だったのでしょうか、父が大学在学中に急死してしまいました。
戦争に行かなかった父
なお、父は徴兵検査で「肺に影がある」として不合格となりました。このため戦争には行っていません。
今では考えられないことですが「(不合格となった父は)しょんぼりして帰ってきた」と祖母が語っていました。当時としては不名誉なことだったのですね。
どこか外出先で同年代の人に年齢を聞かれ、「では戦争はどこへ」「いや、ワシは…」とうつむきながら消え入りそうな声で答えていた姿を覚えています。同窓生らが次々と戦死していく中で「自分だけが生き残ってしまった」と…心苦しかったのでしょうか。
(続く)
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