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「孤の家」第4章│新築の音色

そうだった。私は道に迷うたび、マリアの家を思い出している。何度も、何度も。あの家の中に流れていた空気を、それを浴びた自分の心に沸き上がった感情を、必死で呼び起こそうとする。

先週のバーベキューは、まさにその契機となった。

私が泣きだしたことで、せっかくのバーベキューは早々に切り上げられた。「残りの酒は私が飲むから安心しな」と香織は言い残し、何度も謝り続ける澤口くんが運転する車に乗って帰ったのだそうだ。私は残念ながらふたりを見送ることもできず、後かたづけもすべて誠が済ませてくれた。ただ申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、その日私は誠の腕の中で眠った。

誠との間に、新しい幸せを探していく。2年前の春、私は確かにそう決めたはずだ。結婚、出産、女としてのロール、家族としてのロール。そういうものにひれ伏すのでもなく、かといってむやみに反発するのでもなく、ほんとうに自分がただ、そこにいるだけで満たされるような未来を描こう、と。

それなのに、誠と交際して時が経つほど、誠と家族になりたい、結婚したいという想いが強まっていく。それが自分の“結婚ごっこ”の延長線上にある願望なのか、それとは別のものなのか判別がつかない。

そして、そんな葛藤の前段にある「どっちにしろ誠にはすでに愛する子どもがいて、私は家族じゃない」という、変わらない事実。選択しないんじゃなくて、選択できない。その絶望は、すこしずつ時間をかけて、私の心を蝕んでいった。

それらが蓄積して、爆発した。あのバーベキューの日に。

時間は巻き戻らないけれど、私の中に残るマリアのぬくもりはいまだに消えていない。昔使っていたメールアドレスを打ち込み、受信ボックスにログインしてみる。当時登録した店舗やサービスのDMが、未開封のまま難百通と山積みになっている。こんなにも時が流れているんだな。そう思いながら、特定の年月でソートをかけると、大学生のころのやりとりが残っている。

――やべー妊娠しちゃった

そのスレッドを見たら、昨日のことのようにマリアのピアノの音を思い出せた。まるでご機嫌な日にキッチンで歌う鼻歌のような、楽しくて幸せになる演奏だったな。

海に投げ込むボトルに一通の手紙を丸めて入れるように、私はそのメールアドレス宛のメッセージを新規作成する。

――ひさしぶり。元気にしてる?

きっと数秒後にはエラーメッセージが返ってくるだろう。どうせ届くことがないとわかっているメール送信は、自分勝手で儀式的な行為にほかならなかった。しかし返ってきたのは、エラーではなく本人からの返信だった。予想外のことに驚いて、スマートフォンを取り落としそうになる。

――ぜんぜんげんきじゃない!てかメールありがとう、あかねはげんき?

高校生のころと何も変わらない、マリアのかさついた声で呼びかけられたようで、思わず口元が緩んでしまう。でも、マリアは“ぜんぜんげんきじゃない”らしい。

――私は元気。何か嫌なことあったの?

その一言を返信するのに、ずいぶんと時間をかけた。自分は彼女にそんなことを訊いていい立場なのか、そもそも訊かれたくないんじゃないか。なんて訊くのが一番マリアにとって負担がないだろうか。

その疑問の先にあったのは、「何か嫌なことあったんですか」という蓮の問いだった。

私はあの日、蓮にすべてを打ち明けることでなんとか明日を生きる理由を見つけたのだった。彼の言葉が、私を仲介してマリアへと継がれる。何も知らない相手ですら、手をさしのべてくれたら嬉しかった。逃げだしたい日常から救い上げてくれたんだ。だったら私だって、言っていいだろう。その一言くらい。

ああ、蓮もどこかで別の幸せを育んでいてほしい。離婚して以降、初めて彼のことを想った。

――あかねに会いたい

その返信を読んだとき、私は彼女がきっと今、泣いているんだとなぜかわかった。この瞬間、私にできることがあるのならば。

――どこ?予定あいてるなら、すぐ行くよ
――北見

「ううっ」

低く呻いてしまう。北海道は広大である。Googleマップで札幌から北見にピンを立てると、高速道路を使って「4時間」という絶望的な時間が表示される。でも私の指はもう返信を打ち込んでいた。

――午後2時にはつく。
――うそ、まじで来てくれんの!?まじで!?やばい

相変わらずマリアは「やばい」で感情を表現する子なんだな、と思ったら、あたたかな感情が灯った。あ、この感情。私はやっぱり、マリアからしか得られない“何か”があるんだ。

急いで最低限のメイクをして、いちばん楽なマキシ丈のワンピースを着替えると、車の鍵を手に取る。その間、マリアからは住所が届いていた。北見駅からそう遠くない住宅街の一画らしい。ほかにも「ごめん」「まじで」「やばい」「うれしい」などのメッセージが次々に来てスマートフォンが震え続けているから、苦笑しながら通知を切った。

それ以上の背景や情報を何も訊かず、私は車のエンジンをかける。住宅街を走行するときは、時速30km以内厳守で。町内会の回覧板で2度ほど回ってきた警告だ。よほど自動車のスピードについて気になる人がこの町内会にいるのだろう。そのルール通り、ゆっくりと一軒家が向かい合う道路を凱旋する。

庭の雑草を取る、しゃがんだ初老の背中。犬の散歩をする女性。白い壁、赤い屋根、三角、四角、まっすぐ伸びる街路樹。窓を薄く開けると、どこかから子どもの笑い声が聞こえる。私は片手をハンドルに、もう一方の片手でバッグから加熱式タバコを探り当て、メンソールのスティックをセットする。それぞれの幸せの間を抜けて、私はいま、10年以上会っていない友人の「会いたい」に応えるため、車を走らせている。

不思議と心は高揚していた。この瞬間、生活を置きざりにして誰かのために走れる選択肢があることを、自由と呼ぶのかもしれない。


ひたすら山間を突っ切る高速道路を走った。途中でちいさな道の駅に寄って、目についた熊のマスコットキャラクターのついたキーホルダーを買う。こういうよくわからないマスコットを、マリアは好んで部屋に置いていたから。

やがてだだっ広く畑が続く道を抜けて市街地に入ったころ、通知を切っていたスマートフォンの画面を見ると、最新の表示に「ありがとう」という言葉が見えた。それだけで、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた心が整理されていくような感覚が走る。感謝したいのは、私のほうだ。

指定された住所付近には、私が暮らす住宅街とはまた違う景色の住宅街があった。ここにもまた、人々の生活がある。家が近づくにつれて、楽しみな気持ちと同じくらい、不安や緊張が増してくる。

家の前にはゆとりのある駐車スペースがあったので、そこに自分の車を入れた。玄関には三輪車、子どもを乗せる椅子のついた自転車、子ども用のしぼんだプールが雑然と並んでいる。インターフォンを鳴らすとき“坂井”という表札を見て、ああ、マリアは“錦戸”じゃなくなったのか、と改めて認識する。

ドアを開けて出てきたのは、あのマリアだった。高い声を上げて、顔が崩れてしまうほど笑いながら目を赤くして、抱きついてくる。どれほど大人になったんだろうとか、母とか妻とかの顔をしていたらどうしようとか、いろんなことを想像していたが、マリアはマリアだった。

マリアの家は想像通りモノがあふれていて、いろんな匂いがした。料理の残り香と、子どもたちの玩具、洗濯物の山、ほこりをかぶった記念写真たち。そこに写る色黒の男性がマリアの夫で、周りを囲んで花のように笑う4人の子どもたちがマリアの宝なんだな、と私はしばし目を細めて眺める。ぐるりとリビングを見回して、そこにキーボードがないことを確認したとき、胸がすこしだけ苦しくなった。

マリアはしばらく、初めて演奏の感想を教えてくれたときみたいに、「やばい」と「すごい」だけで北見まで車を走らせてきた私への称賛を伝える。彼女がくれた水出しウーロン茶で私が喉を潤している間に、“パパ”の転勤で北見に来て家を建ててから5年になる、と説明される。はじめ“パパ”が誰を指すのか混乱したが、夫のことか、と話の流れで理解した。

「あかねからメール来たときね、ほんっとまじで泣いた。今朝さ、めっちゃ、嫌なことがあってさ、そのタイミングで来たから」

私はソファに座る姿勢を正して、マリアの話に耳を傾ける。マリアはそこからぐずぐずと鼻水をすすりながら、時系列がバラバラの言葉を並べていった。

今日は家族でドライブに行く約束があった。どこに行くかとか何時に出るかとか、三男の体調が良くないとか、いろいろ重なってパパと言い争いになった。そもそもずっと関係性がよくない。あいつ浮気している。こっち来てからずっと。多分。でもそれを確認するのがこわい。こわいだけじゃない、確認したところでどうにもならない。だって自分はパートしかしていなくて、4人の子どもがいて、家があって。この家のローンはパパが払っている。彼が優しかったのは結婚して1年目までだった。子育てだってぜんぜん手伝ってくれない。お菓子や玩具を買い与えたり外出したりすることだけ積極的で、日常のいろいろはやってくれない。ずっと指摘してきたけど、ぜんぜん伝わらない。3年前のケンカで「おまえが産むって言ったんだろ」って言われてから、もうあいつのことを家族だって認識できない。結婚したのも私のせいみたいな言い方だった。夜、パパが帰ってこない。子どもたちが寝付かない。自分の時間がない。誰にも話せない。いやママ友はいるけど、愚痴はこぼせるけど、ぜんぶ噂になっちゃうからほんとうのことは言えない。その場で言えることだけこぼしても何も変わらない。自分の家族は札幌だから会えない。心配させたくないから家族にも本音が言えない。ほんとうは札幌にいたかった。ちゃんと働いて自立して子どもたちとこの家を出ていきたいけど、この年齢になってゼロから何を始められるのかわからない。どうしたらいいのかわからない。今朝、そういうすべてが爆発して、自分が何を叫んでいるのかわからなくなって涙が止まらなくなった。パパは子どもたち全員を連れて家を出ていった。私を置いて予定通りドライブに行ったんだ。もう私は必要ないんだ。

嗚咽が混じって言葉の輪郭が崩れて、ところどころ不明瞭ではあった。でもマリアは同じことを何度も話しながら、そういう一連のことを私に伝え続けた。途中から、もうマリアそのものがどろどろに溶けてしまうんじゃないかと心配になって、なんとか人間の形を保てるよう彼女の細い肩を抱きしめた。

マリアが私の知らなかった10年間を吐き出し続けるなか、私は自分がいかに何も知らなかったかを知っていく。私が思い描いていたマリアの明るい未来は、なんて自分勝手でおこがましいものだったのだろう。私もまた、彼女の孤独に気付けなかった大勢のうちの一人だ。その自覚が、胸をじりじりと焼いていく。そうして私がずっと探していた“マリアの家”の像も、ほろほろと焦げて崩れていく。たしかにあそこには、幸せがあった。でも私が見たのは、きっと家族のほんの一面なんだ。

ずっと、ずっと私の心の中で大切にしてきた玩具がある。赤いさんかく屋根のドールハウスだ。私はそこに、いろんな人形を入れ替えながらままごとを続けてきた。傷つきたくないから、ままごとの範疇を超えた現実を避けてきた。でも、マリアは本物の家に生き続けている。だから抱えているものがたくさんあって、選択肢も少なくなる。自由からは遠く離れた場所で足を踏ん張っている。それが“家族”なんだろう。

私はずっと大事にしてきた心の中のドールハウスを、力いっぱい叩き壊す。

「ねえマリア、ドライブ行こう」

今度は私が、手を引くね。まだ泣きやまないマリアの手を握りしめて、できるだけ優しく助手席に乗せた。道なんて知らない。でもどこか行ければそれでいい。車に置きっぱなしだった熊のマスコットキャラクターを「プレゼント」と渡したら、マリアは目を丸くしてから「誰こいつ、超かわいい」と、鼻をすすりながら笑ってくれた。

私たちはお互いがぜんぜん違う道を歩んできたことを、車の中でかいつまんで共有し合った。マリアは4人の子どもそれぞれ異なる弱点と口癖があることや、長女に初めて彼氏ができたことなどを、愛おしそうに説明する。私は自分の会社の事業内容や、誠ののろけ話などを返した。「なんかお互い、人生違いすぎて別の星の生き物みたいだね」と私が言うと、マリアは「わかる、それな」とげらげら笑った。

子どもを育てるマリアを、私は心から尊敬している。そしてマリアは、ひとりで会社を経営している私を、心から尊敬していると伝えてくれた。積み重ねてきたものは違えど、かけてきた時間は等しい。私が“ママ”という存在に対してずっと抱いてきた感情をマリアに伝えると、驚いた顔をしてマリアは私を叱った。

「なんで!あかねすごいじゃん!なんで子どもがいないから下だと思うの!?あかねはすごいんだよ!?もっと自分のこと褒めて!」

ハンドルを握る私の腕をぽこぽこと叩いてくる。その振動が胸にまで伝わってきて、私は涙を抑えられなかった。「運転してるんだから、泣かせないでよ」と震える声で懇願する。マリアは、「あかねがあかねのこと褒めないからだよ!えらいんだよあかねは!」と繰り返し、結局一緒に泣いてくれた。

「昔からあかねはすごいんだよ……ピアノも勉強も、家族のことを守るのも、がんばってたんだよ……ずっと考えて、がんばってきたんだよ」

あまりにもマリアがずっと「すごい」と「えらい」を繰り返すから、私は運転に支障をきたすほど泣いてしまって、車を路肩に止めた。そこは牧草地帯で、ところどころ牧草ロールが置いてある以外、空だけが広がっていた。その空の色は、すこしずつ夕方の準備をし始めている。

「きれいだね」

マリアがつぶやく。目元が熱い。マリアも目を真っ赤にしている。大の大人がふたりして、こんな大泣きして。そう思うと、すこしずつ笑えてきた。

シンデレラは深夜0時まで踊れたけれど、マリアはそうはいかない。傾きかけた日を見て、私は時間を想う。おなじようにマリアもいろいろと想像したのだろう。おもむろにスマートフォンをポケットから出して、側面のスイッチを押す。その操作の動きを見て、これまで電源を切っていたということを知った。でも、わかるよ。私だって、電源を落としたいときが何度もあった。何度も。

「……うっわ、やば、めっちゃ着信きてる」

相手が誰か訊かずともわかるので、「折り返しな」と促す。マリアは不安そうに顔を曇らせるが、深呼吸してスマートフォンを耳におしつけた。話し始めてから、マリアは車から降りて扉を閉じる。その一瞬だけ聞こえた声は、私が知るマリアの声よりもっとかすれていて、まるで別人みたいだった。

ハンドルに体重を預けて空へと続く一本道を見つめながら、私もまた自分が帰る場所を想った。自宅ではなく、思い描いたのは誠の体温だ。バーベキューの日以来、私は「すこし時間が欲しい」とだけ伝え、彼との連絡を絶っていた。

やっぱり私は、誠のもとに帰りたい。ドールハウスを壊したあとの私を、抱きしめてほしい。自分のスマートフォンを手に取る。今日は彼も休日のはず。

――何も予定がなければ、今晩会いに行ってもいい?ちょっと時間かかるけど。

そうメッセージを作って、いま眼前に広がる風景の写真を送った。きっとドライブが好きな彼なら、どれほど遠くの地か写真だけでおよそ想像できるはずだから。

メッセージを送信して間もなく、助手席のドアが開いてマリアが乗り込んでくる。

「パパにめっちゃ謝られた。ちゃんと話し合いたいから帰っておいで、だってさ。マリアは車持ってないのにいなくなったから、焦ってたよ」

私はうなずいて「急いで帰ろ」と返しながらエンジンをかける。今度はマリアの家の住所をカーナビに入力してUターンした。「でもね」と、マリアはちいさな声で続ける。

「どうせ話し合いになんて、ならないんだよ。知ってる。ケンカになるんだよ、きっと。でもね、マリア帰るよ。ママだからね」

私はそのあと、マリアが私にくれたのと同じくらい、いやそれ以上に「えらい」と「すごい」を繰り返し続けた。ずっと前からマリアはえらいんだよ、と。私はマリアの演奏から、家族から、言葉から、ずっとそのえらさを感じてきたよ、昔もいまも、私はマリアに救われているよ、と。マリアは大声でずっとわんわん泣いていたけれど、家が近づくにつれて、次第に大人の表情に戻っていった。

マリアが家族を守るために作る顔ならば、それもマリアの一部なんだろう。そう思ったら、私はふと、母親の顔を思い出した。あれもまた、家族を守るための顔だったのかもしれないな。

……――いまならば、母親のことを正面から見られるかもしれない。

私は私の帰る場所をめざして、アクセルを踏んだ。


誠の家につくなり、きつく抱きしめられた。誠は体が大きいし力が強いから、本気で抱きしめられると骨が折れそうになるし息ができない。でも、その強さとあたたかさが、私はたまらなく好きだと、改めて思う。

「おかえり」
「ただいま」

家の匂いも、子どもたちの絵も、何一つ変わらない。でも、私の心は晴れ渡っていた。この家の中でも妬みや悲しみが芽生えないことを確認して、ほっとする。

私は誠が用意してくれていた夕飯を食べながら、今日あった出来事を話す。マリアという大切な友人に会ったこと、彼女が泣きながら話したこと。それを受け止めた自分が、どう感じたかを。それらを振り返るなかで、自分がいかに“家族”を求めてきたか、素直に伝えられた。そしてあんなにも遠回りして言えなかった願望が、何のしこりもなく口からするするとこぼれる。

「私ね、誠と結婚したいと思ってた」

ああ、過去形だ。でも、わずかな波紋が自分の心に広がるのを感じる。そのちいさな揺らぎにも、私は耳を澄ます。自分自身が投げかける疑問を、わずかでも見逃さないように。もう押し殺さないように。

「……正直、自分には子どもがいないんだなって感じると、押しつぶされそうになる。とても好きな人が目の前にいて、幸せだなって思っているのに、この先家族になることはないんだって想像すると、すごくさみしい。それはたぶん、女だからっていうより、誠のことが好きだからだと思う。きっとこれからもその気持ちは変わらないし、そのさみしさと、うまく付き合っていける自信はないんだ」

私は誰かに何かを伝えるとき、決まってその先にある流れをコントロールしようとしてきた。でも、いま自分が紡ぎ出した言葉の先には何の答えも、正しさもない。誠に何かしてほしいという期待は一切なかった。ただ、感情を伝えた。この先、彼と一緒に歩み続けるために。たったそれだけの願いのために。

誠はしばらく、私の言葉をもう一度読み直すように丁寧な沈黙を置く。私の家にあった沈黙とは異なり、その間には私を理解しようと努める誠の必死さが感じられた。だから私は呼吸を乱すことなく、ただ待つことができる。

「……俺はね。茜と一緒に暮らして、関係性が変わってしまうのが、こわいんだと思う。もう二度と、後悔したくないから。後悔しないように、茜のことを大切にしようと思ってて」

一度そこで言葉が切れる。誠の肩が震えていることを知って、私はその分厚い肩を抱きしめる。大丈夫、ちゃんと伝わっている。あなたが私を大切に想ってくれていることはわかってるんだよ。結婚したいという私の願いを、あなたが無視していたわけじゃないことくらい、私だってちゃんと理解できてるんだよ。そう伝えたくて、腕に力をこめた。

「茜と一緒にいて、俺はね、すごくいま、幸せなんだよ。だから、これからも、なにが一番幸せなのかは、ふたりで考えていきたい」

初めて誠が喉を詰まらせる声を聞いた。私は目を閉じる。頬を涙が伝う。過去よりもいま、このときを守っていくことに集中しようと誓う。答えあわせなんてしなくていい。きっと答えは変わっていくし、わからなければ考えればいい。ふたりで。

その日から、私は空き地になった心の一画に、ちいさな家を新たに建て始めた。


日々はすこしだけ彩度を高めて、また巡りはじめる。

相変わらず私は毎朝コーヒーを淹れながら一服し、ひとりの空間でパソコンに向き合う。機材をそろそろ買い替えようかと法人口座の通帳の残高を見ていたら、ついわくわくしてしまう。こんなに稼げるなんて、私って天才かもしれない。日が暮れると窓の外から虫の声が聞こえ始めている。そろそろ一番過ごしやすい秋が来るなあ。凝り固まった首を回して、深呼吸をする。

ふと思い出して、“高本蓮”とブラウザに入力し、検索してみる。元カレの名前を検索する女。これもまた、私が浅はかだと笑っていたものの一種だ。でも、私は彼の不幸を願っているわけじゃない。だから後ろめたくはない。

イメージ検索結果に、空虚な東京を写したモノクロームの写真がいくつもヒットして、その中のひとつが今年のフォトコンテストで優勝していることを確認する。こんなにも美しく東京を切り取れるあなたの目に選ばれた私を、誇りに思う。私はこれからも、この地であなたが絶賛した“かわいい”私を大切にするね、と、その風景たちに誓った。

ある晩、「澤口と付き合い始めた」という連絡が香織から来て、私はすぐ誠に電話をかける。あのバーベキューの日、私が泣いたことで時間を持て余した夜に、ふたりは急激に距離を縮めたらしい。その流れを報告して「私ってばキューピッドだよね!」とはしゃいだら、誠の笑い声がスピーカーをあたためた。早く会ってその笑顔を見たいと、私は頬を熱くする。

マリアとは、あの日のあと頻繁に電話をしている。ときどき子どもの泣き声や「ママ」と呼ぶ声が響くなか、炒め物をする音の中で私との会話を楽しむマリアに、「マルチタスクっぷりがすごいね」と褒める。「まじ!?マリアのこと天才枠で雇ってもくれてもいいよ!?」とマリアは喜びながら、子どもたちをあやしている。電話を切る直前になると、いつも「一番下の子がもうすこし大きくなったら、マリアが会いに行くからね」と言われる。その切実さは彼女が抱えているものを想像させるから、私は「マリアが会いたい日は、いつでも私が北見に行くよ」と返す。友人を誰よりも大切にできることが、家族をもたない私の特権だから。

震える指で母親にメッセージを送ったのは、ここ最近のことだ。

きっかけは、姉と連絡を取り合うようになったことだった。記憶の中の姉は鋭い眼光を帯びていたけれど、電話越しに聞こえる姉の声は、やわらかく、丸くなっていた。姉には新しい家族がいて、東京で働きながら子育てをしている。私が言葉を慎重に選びながら母親のことを切り出すと、姉はこともなげに「ああ、もうぜんぜん気にしてないよ」と即答した。私はそれに驚いてしまったが、姉には姉の家族と家があって、私が囚われている実家や両親のことはすでに過去としてピリオドが打たれているのだと知る。「なんかもう、許した」という姉のからりとした笑い声が、私の心を軽くしたのだ。

とはいえ、母親に連絡をとるのが何年ぶりかすら、もうわからない。敬語を交えて淡々とした近況報告のメッセージをいくつか交換したあと、夕飯の約束をする。向こうからは、両親どちらも来るという。私は現在交際している男性と共に行くと伝えた。ただ、その相手との結婚や家族といった未来はいまのところ想定していない、と事前に念を押す。長らく絶縁していた両親に、私ひとりで会うのはあまりにも怖かった。どう接したらいいかわからない。そこまでストレートに伝えたわけではないが、自分も彼がいたほうが話しやすいから、とだけは伝えた。

約束の日、札幌のなかでは高級な店が立ち並ぶエリアを指定されていた。円山駅に着いてからというもの、妙な汗が止まらない。いつも以上にペットボトルのお茶をがぶがぶと飲む私の背中を、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と誠はさする。数時間かけて迷いに迷って買った手土産を片手に、両親が予約した店ののれんをくぐる。

久しぶりに顔を見た両親は、ずいぶんと老け込んでいた。両親だけれど、老人だ。ふたりって、こんなにちいさかったっけ。私は面食らいながら、手土産を渡す。

「ありがとう」

当たり前の一言なのに、あまりにも嬉しそうに言われたから、感謝されたことあったっけ、と記憶をたどってしまう。きっと、たくさんあったのだと思う。私が忘れてしまっているだけで。

厳しさをまったく感じさせない表情で、両親は深々と頭を下げ、誠にあいさつした。私が抱いていた両親の印象は、もう過去なのだと痛感する。

家族の思い出話は一切しなかった。両親は誠のことにもほとんど触れなかった。ただ、最近気になっている映画だとか、新しく買った家具だとか、政治に憤りを感じるだとか、そういうなんてことない話を、早口でまくしたて続けている。

こんなに話す両親を、私は見たことがなかった。あれほど冷え切っていたふたりの間で、言葉のキャッチボールが成立している。このふたりは子どもたちが巣だったあと、沈黙という厄介な化け物とようやく戦う決意をして、いつのまにか手を取り合うようになったのかもしれない。

絶え間なくしゃべり続ける不器用な両親を見守りながら、私は願った。その必死さの理由が、ずっと“家族”という偶像に振り回されてきた娘のきもちに、すこしでも寄り添うためであることを。

帰るころになって、ようやく両親は話のネタが尽きたらしく静かになる。ここまで沈黙から守ってくれたお礼にと、私もたわいない話題をひとつ振ることにする。

「そういえばね、この前、ひとりで北見までドライブに行ったんだよ。すごく景色がきれいだったんだ」

マリアの話をすると過去とつながってややこしいと思ったから、私は写真フォルダにあった夕暮れの写真だけ見せる。マリアとふたりで泣きながら、時間の経過を想った、あの夕暮れだ。

「きれいね」

母親はスマートフォンの画像に見入って、うっすら涙を浮かべる。

「茜ちゃんが産まれた日もね、こんな空が広がってたの。すごくきれいな色だったから、“茜”って名前にしたのよ」

スマートフォンを私の手元にそっと戻した母親の笑顔は、きれいで明るかった。

両親と別れたあとの帰り道、私は声をあげて泣き続けた。「よかったね」と、誠は私の手を強く握ってくれた。

その晩、私は誠の腕の中で目を閉じる。「だいすきだよ」という言葉の子音が耳を撫でたあと、すぐ意識は遠のく。何の夢にも邪魔されない、深い、深い眠りの奥底で、新しい家を建てる静かな音色だけが、響いていた。

(了)

―全章―

―解説―


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宿木雪樹(やどりぎゆき) 読んでいただき、ありがとうございました!もしコンテンツに「いい!」と感じていただいたら、ほんの少しでもサポートしていただけたらとってもとっても嬉しいです。これからもよろしくお願いいたします。