【つの版】度量衡比較・貨幣221
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は飛騨の北、越中国です。

◆越◆
◆中◆
越中概略
越中国は北陸道に属し、現在の富山県にあたります。東は越後と信濃、南は飛騨、西は加賀、北は能登と日本海(富山湾)に面し、三方は山々で区切られています。中央には富山平野と総称される複数の沖積平野や扇状地が広がり、東から黒部川、片貝川、早月川、常願寺川(新川)、神通川(鵜坂川)、庄川、小矢部川(射水川)といった大小の河川が流れて富山湾に注ぎます。このうち神通川と庄川は飛騨に源流を持ちます。平野は肥沃な農地となりましたが、河川は頻繁に洪水を起こし、冬には豪雪に閉ざされます。
古代には、敦賀から北の日本海沿岸地方は「高志国」と総称されました。古墳時代にヤマト王権がこの地を服属させ、7世紀末には都に近い順に前・中・後に分割されます。この頃の高志前国(越前国)は加賀・能登を含み、高志中国(越中国)は頸城・古志・魚沼・蒲原の4郡を含む広大なものでしたが、大宝2年(702年)にこの4郡は越後国に割譲され、越中国は礪波・射水・婦負・新川の4郡を含む範囲となります。奈良時代には越前から分割された能登国と16年間だけ併合していました。
4郡のうち礪波・射水・婦負の3つは神通川を中心とする越中国の西半分を占め、新川郡だけで越中国の東半分を占めます。国府は射水郡の伏木(現高岡市伏木)に置かれましたが、ここは小矢部川の河口部にあたります。北陸道は加賀から倶利伽羅峠(標高277m)を越えて礪波郡に入り、東は海沿いの道に山が迫って断崖となった親不知という難所を越えて越後国頸城郡に入りました。海路なら比較的楽に行き交うことができますが、この難所のゆえに越中国は越後以東よりも能登や加賀以西との結びつきが強くなりました。
中世越中
平安時代には土地が肥沃で産物が多いことから「上国」とされ、多くの荘園が設立されています。源平合戦では木曽義仲が倶利伽羅峠で平家の軍を打ち破り、越中国東端の新川郡宮崎に潜んでいた以仁王の子(北陸宮)を奉じて新帝候補としましたが、後白河法皇が後鳥羽天皇を擁立したためかないませんでした。義仲と平家を倒した源義経も戦後は頼朝に追われる身となり、京から近江・北陸を経て奥州へ逃れたと伝えられます。
南北朝時代から室町時代にかけて成立した『義経記』によると、加賀国の大名富樫介が山伏姿の一行を怪しみましたが、武蔵坊弁慶の機転で窮地を逃れ、倶利伽羅峠を越えて越中国に入りました。しかし射水川(小矢部川)の如意の渡しを守る平権守に訝しまれ、弁慶は義経を繰り返し打擲して疑いを晴らしたといいます。能の『安宅』や歌舞伎の『勧進帳』では、この2つのエピソードを合成し、加賀国安宅関での出来事としています。
承久の乱の後は鎌倉幕府執権北条氏の分家である名越氏が代々越中守護となりました。正応3年(1290年)、越中守護の名越時有は守護所として婦負郡に放生津城(現射水市中新湊)を建設します。のち後醍醐天皇が挙兵すると、時有は射水郡二塚の気多社に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子恒性を暗殺させますが、討幕軍が優勢となって城を包囲され、一族郎党とともに自害しました。子の時兼は生き延び、2年後に北条時行が信濃で挙兵する(中先代の乱)と呼応して北陸で挙兵しますが鎮圧されています。
鎌倉幕府滅亡後、越中守護に任じられたのは井上俊清です。出自は定かでありませんが越中守護名越氏の被官であり、時有に反旗を翻してこれを打倒するのに功績がありました。後醍醐天皇は越中国司として公家の中院定清を派遣しましたが、中先代の乱の鎮圧後に足利尊氏が後醍醐天皇に背くと、俊清は尊氏に味方して定清を攻め、能登国境の石動山で討ち取っています。しかし康永3年(1344年)東大寺領の違乱行為等によって守護職を罷免され、所領没収のうえ追討を受けます。俊清は越後の南朝勢力と手を結び、北朝と激しく戦うこととなりました。
井上俊清の後任として越中守護に任じられたのが桃井直常です。桃井氏は清和源氏足利氏の傍流で、上野国群馬郡桃井郷(現群馬県北群馬郡榛東村桃井)を領して名字としました。直常ははじめ貞直と名乗り、足利尊氏に従って六波羅探題や南朝軍と戦い、北畠顕家との戦いで手柄をたてました。この功績により若狭・伊賀守護を経て越中守護となり、各地に城を築いて防御を固めています。ところが観応の擾乱では尊氏の弟直義に味方し、越中や上野を拠点として尊氏や高師直と戦うことになります。
南朝の正平10年/北朝の文和4年(1355年)冬、桃井直常は山名時氏・新田義宗・足利直冬と結んで北陸から京都に侵攻し、尊氏の子義詮と戦います。義詮が近江へ逃れると一時洛中を制圧しますが、勢力を盛り返した義詮に追われて信濃・越中へ逃れ、義詮の弟で鎌倉公方の基氏に身を寄せました。
正平16年/康安元年(1361年)足利尾張守家(斯波氏)で越前・若狭守護の高経が越中守護となり、翌年高経が出家すると子の義将が13歳で越中守護職を引き継ぎました。義将は同年に執事(管領)に任じられ、高経が実権を握って幕政を主導しますが、宿老の京極道誉と対立し、貞治5年(1366年)失脚します(貞治の変)。翌年基氏が没すると桃井直常は出家・上京して義詮に帰順し、弟の直信が越中守護に任じられます。
しかし翌正平23年/応安元年(1368年)に義将が幕政に復帰すると、直信は罷免されて義将が越中守護職を取り戻したため、直常はまたも幕府に反旗を翻し、南朝に帰順して挙兵しました。翌年には能登にも攻め込みますが、応安3年(1370年)越中婦負郡長沢(現富山市長沢)で大敗を喫し、子の直和が戦死します。直常は南朝方の飛騨国司姉小路氏の支援を受けて戦い続けますが、ついに越中での基盤も失い、飛騨に逃げ込んだ後消息不明となりました。彼の生没年は不明ですが、この頃に没したと推測されています。
義将はその後も長く幕政を主導し、義詮の子義満を輔佐しましたが、康暦2年(1380年)に越中守護職を畠山基国に譲り、代わりに越前守護職を得ています。これより戦国時代まで100年以上にわたり畠山氏が越中守護職となりました。ただし守護自身は在京し、家来の神保氏が越中の婦負・射水郡守護代、椎名氏が新川郡守護代、遊佐氏が礪波郡守護代に任じられています。
神保長誠
神保氏は上野国多胡郡の神保邑を本貫地とする武家で、鎌倉時代より畠山氏に仕えた重臣です。畠山基国の孫持国の時に跡継ぎを巡って御家騒動が勃発し、神保国宗は持国の甥の弥三郎政久を擁立しましたが謀殺されます。政久の弟政長は持国の子義就と家督を巡って争い続け、応仁の乱を引き起こすこととなりました。政長が尾張守に任じられたことから、その子孫を畠山尾州家と呼び、神保氏はこちらに与することとなります。
国宗の没後に神保氏の惣領となった長誠は、応仁の乱において畠山政長を輔佐して奮戦し、越中へ戻ると寺社や公家の荘園を押領して勢力を拡大しました。将軍義政や管領細川氏は政長と義就の対立を利用して畠山氏の勢力を弱めていましたが、延徳2年(1490年)義政が没すると弟で養子の義視が美濃から上洛し、自らの子の義材を将軍に擁立しました。しかし義視が翌年に没すると、管領の細川政元は義材と対立し始めます。
畠山政長は政元に対抗するため義材を支援し、宿敵義就の子基家を義材を総大将として討伐させようとします。畠山氏を分裂したままにしておきたい政元は反対し、義材の出陣後にクーデターを起こします。そして義材を廃位し、義材の従弟で出家の清晃(義政の弟で堀越公方となった政知の子)を還俗させて義遐(のち義高)と改名させ、新たな将軍として擁立したのです。政元は基家と手を結んで赦免し、政長は諸国の守護職を解任されたうえ討伐が命じられ、追い詰められた末に自刃しました。基家は政元より義豊の名と畠山氏の家督を授かり、政長に代わって河内守護職に任じられます。
義材は降伏しますが側近公家の葉室光忠らを殺され、自らも京都に幽閉されたうえ毒殺されそうになります。さらに讃岐の小豆島へ流されるという噂も流れたため、義材は越中守護代の神保長誠の手引きによって近臣とともに京都を脱出し、近江を経由して越中に入りました。長誠は彼を放生津城に迎え入れ、正光寺を仮の御所として亡命政権を樹立させます。政長の子で紀伊に逃れていた尚順、加賀守護の富樫泰高、能登守護の畠山義統、越前守護代の朝倉貞景、越後守護の上杉房能ら北陸の諸侯がこれを支援し、越中一国は義材のもとに従いますが、義材を奉じて上洛し政元を討つという動きはなく、義材は政元と和睦して将軍に復帰させようとしますが失敗します。
明応7年(1498年)、義材は義尹と改名して密かに越中を離れ、越前朝倉氏を説得するため一乗谷に赴きました。翌年には南の尚順と呼応して越前から近江に攻め入りますが、朝倉氏の支援が得られず敗走し、海路で周防へ下向して大内義興を頼りました。神保長誠の子慶宗もこれに同行し、文亀元年(1501年)父が没すると帰国して跡を継ぎます。義尹は大内氏の支援を得て上洛を狙いますが、政元は義興を朝敵として討伐を命じ、北陸の義尹派諸侯に対しては一向一揆を差し向けて戦わせます。
一向一揆
一向一揆とは、浄土真宗本願寺派(一向宗は浄土宗などからの他称)の教団に属する宗教的自治組織(一揆)のことです。鎌倉時代に親鸞によって成立した浄土真宗(親鸞は法然の浄土宗の後継者と名乗りました)は、分裂を重ねながら諸国へ広まっていましたが、応仁の乱の後に蓮如が現れて越前や加賀で勢力を広げ、加賀守護の富樫氏の内紛に援軍として加わり、加賀一向一揆が形成されます。戦後に富樫政親がこれを弾圧すると越中へ逃れ、越中一向一揆を形成して守護からの弾圧に対抗します。
この頃、蓮如は京都山科に本願寺を再建(初代大谷本願寺は応仁の乱の2年前に延暦寺が破却)しました。長享2年(1488年)には加賀一向一揆が富樫政親を倒して泰親を守護に擁立し、彼を傀儡として蓮如の3人の子らが実権を握り、加賀一国を事実上支配下におさめます。一向一揆は国人衆を取り込んで能登や越前に勢力を伸ばし、守護勢力や越前朝倉氏とも激しく争っていたため、政元はこれを支援して利用したのです。
永正3年(1506年)3月、加賀一向一揆が突如越中に侵攻し、越中守護の神保慶宗は隣国越後の守護代長尾能景を頼ります。能景はこれに応じて8月に越中へ向かい、一揆勢を撃破します。しかし慶宗は一揆勢に内通し、続く戦いで途中離脱したため、能景は討死してしまいます。能景の子の為景(上杉謙信の父)は激怒し、これより神保氏と一向一揆を父の仇とみなすこととなりました。翌年には細川政元が暗殺されて細川氏が内紛を起こし、これを好機とした大内義興が義尹を奉じて上洛、義尹は将軍位に返り咲きます。功臣畠山尚順は河内・紀伊・越中守護に任じられますが、越中は守護代の神保氏らが押領したような形になっており、奪還する必要がありました。
慶宗は本願寺坊官の下間氏との婚姻を進めるなどして一向一揆との和解をはかり、その勢力を後ろ盾として主家である畠山氏からの自立を企てます。越後と隣接する新川郡守護の椎名慶胤もこれに加担し、越中一国も一向一揆の手に落ちるかと思われました。為景は能登守護の畠山義総、越中守護の畠山尚順らと手を結び、繰り返し越中へ攻め込んだ末、永正17年(1520年)に慶宗を自害に追い込み、椎名慶胤を討ち取ります。為景は慶胤に代わって越中新川郡守護代を兼任し、長く一向一揆と戦うことになります。
◆Kingdom Of◆
◆The Strong◆
【続く】
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