見出し画像

【つの版】日本刀備忘録48:寛正飢饉

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 鎌倉公方と関東管領の対立で関東が東西に分裂し、諸国が御家騒動や下剋上で混乱する中、長禄3年から寛正2年(1461年)にかけて全国的な大飢饉が発生します。幕府や諸大名は政争・戦争に明け暮れて民の救済どころではなく、怒り狂った庶民は土一揆を起こして掠奪による自力救済を行います。戦国時代の幕開けとなる「応仁の乱」の勃発は、もう間近に迫っていました。

◆室町◆

◆無頼◆


伊勢貞親

 康正元年(1455年)8月、20歳の将軍・足利義政は、母・日野重子の甥の娘にあたる16歳の日野富子を御台所(正妻)に迎えます。義政が目指していたのは父・義教のような将軍による専制政治でしたが、これを行うには管領・細川勝元とその派閥に加え、幼少からの側近が邪魔となります。すなわち養父の烏丸からすま資任すけとう、乳母の今参いままいりのつぼね御今おいま)、赤松氏の支流である有馬ありま元家もといえで、ともに「ま」がつくため反対派閥(細川・山名派)から「政は三魔より出ず」と誹謗されました。しかし同年に有馬元家が同族の赤松氏に連座して出家し、今参局は重子・富子と対立します。

 義政は畠山義就を手懐けて手駒とする一方、自らの代父とされていた伊勢貞親が家督を相続したのを好機とし、彼に幕府財政の再建を任せました。幕府は金融業者を庇護して収入を得ていたため、徳政令(債務帳消し)を求める土一揆の頻発で危機的状態にありましたが、貞親は政所執事(財政と領地訴訟を司る職)の二階堂忠行と協議して「債権/債務額の一割を手数料として幕府に納めれば紛争当事者に債権の存続/債務の帳消しを許す」という分一徳政令を発布し、見事に財政再建を果たして見せます。

 これにより義政は康正2年(1456年)には内裏再建を成し遂げ、右近衛大将拝賀式を盛大に執り行うことができ、喜んだ義政は貞親に大名並みの待遇を与えて寵愛しました。また義政は宝徳3年(1451年)より日明貿易を復活させ、寺院や諸大名の邸宅への表敬訪問(御成)をしばしば行い、贈答品を受け取って懐を肥やしています。

 伊勢氏は桓武平氏維衡流を称し、鎌倉時代末期には足利氏の近臣として上総守護代などをつとめていました。伊勢貞継は尊氏・義詮・義満と三代の将軍に仕え、康暦元年(1379年)より代々幕府の政所執事を世襲しました。貞親の父・貞国は義政の兄・義勝の養父となりましたが、宝徳元年(1449年)に彼が政所執事を辞職すると二階堂忠行が後任となっていました。忠行は寛正元年(1460年)に貞親へ職を譲り、以後は再び伊勢氏の世襲となります。

 長禄元年(1457年)末には、赤松氏の遺臣らが吉野の後南朝の行宮に潜入して自天王・忠義王兄弟を討ち取り(長禄の変)、かつて後南朝に奪われた神璽(三種の神器の一つ・八尺瓊勾玉)を奪還して、翌年京都の朝廷に持ち帰りました。嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した後、その遺臣の一部は後南朝に従っていましたが、細川勝元は勢力を強める山名氏を牽制するために赤松氏の復興を図り、彼らに神璽奪還と引き換えに御家再興を持ちかけたのです。

 この功績により、赤松満祐の甥の子・次郎法師丸(政則)が家督を相続し、富樫成春に代わって加賀北半国の守護等に任じられます。しかし政則はまだ4歳の幼児であり、実権は彼を養育した家臣・浦上則宗が握りました。また義政は同年に赤松氏の支流出身で義教の側近だった禅僧・季瓊真蘂を政治顧問に取り立て、伊勢貞親とともに相談役としています。同年には山名持豊(宗峯/宗全)が赦免されて但馬から京都に戻り、幕政に復帰しました。

 長禄3年(1459年)正月、義政は「富子が生んだ子を呪詛して殺した」として今参局を流罪とし(道中で自害)、翌月には自分の娘を生んだ4人の側室を今参局に同調したとして追放します。同月には義満・義教が御所とした「花の御所(室町第)」の再建を山名宗全らに行わせ、同年11月に烏丸邸から移り住みました。義政の母・重子は烏丸邸に残りますが、義政が室町第に入ったことで養父・烏丸資任の発言力は低下し、伊勢貞親と日野富子、富子の兄で貞親の姉妹を娶っていた日野勝光が発言力を強めました。

義就没落

 義政の支援で畠山氏の家督を相続した義就でしたが、大和・山城で従兄の弥三郎派や細川勝元と所領を巡って争いを起こし、「(義政の)上意」と詐称して押領を行ったので、義政の怒りを買って所領を没収されました。長禄3年(1459年)には弥三郎が義政により赦免され、偏諱を授かり「政久」と名乗ります。彼は間もなく死去しますが、反義就派は弟の弥二郎を擁立して義就と対立を続け、義政や勝元に支援を働きかけます。

 長禄4年(1460年)に紀伊の根来寺が畠山氏の軍勢と争った際、義就は京都から紀伊へ援軍を派遣しますが、9月に幕府から「猶子の政国(能登畠山氏)に家督を譲れ」と命じられます。義就は河内へ逃亡しますが家督譲渡は拒否し、義政は18歳の弥二郎に偏諱を授けて「政長」と名乗らせ、室町殿の権威により彼に畠山氏の家督を継承させます。さらに後花園天皇に働きかけて「義就を朝敵として討伐する」との綸旨を出させます。劣勢に追いやられた義就は河内国嶽山城(現・大阪府富田林市嶽山)に立て籠もり、2年以上にわたり抵抗を続けました。

 管領もつとめた有力守護大名・畠山氏の内紛は、家臣や国人衆、各地の守護大名を巻き込み、幕府や朝廷をも動かす大乱へと発展します。義政や勝元からすれば、畠山氏を弱体化させて当主を傀儡化し権益を拡大する好機ではありましたが、この争いが応仁の乱の原因の一つとなっていきます。

寛正飢饉

 義政が花の御所を再建した年、長禄3年(1459年)には西国を中心に全国的な旱魃と飢饉が発生します。秋8月には畿内に台風が直撃して賀茂川が氾濫し、多数の家屋と人民が流されました。翌年にも水害と旱魃が交互に訪れた上、作物は虫に食い荒らされ、飢民の間には疫病が流行して地獄絵図となります。さらに関東では享禄の乱が継続中で、北陸では斯波氏の内紛に幕府が介入(長禄合戦・武衛騒動)、畿内で畠山義就の乱が起きたため、戦乱を避けた民衆は京都へ大量に流入しました。

 寛正2年(1461年)には飢饉が最も深刻化し、記録によれば京都に数万人の乞食が溢れ、2ヶ月で8万2000人もの餓死者が出、賀茂川の流れが死体によって堰き止められたといいます。しかし義政は花の御所の改築にうつつを抜かして民を救済しようとはせず、嘆いた後花園天皇は漢詩を送って訓戒しましたが無視されました。

 同年正月、勧進聖の願阿弥は義政に飢民救済を願い出て許され、2月には粟粥などを飢民8000人に施し、数千の死体を埋めて弔います。さすがの義政も祟りを恐れてか、京都五山などに餓死者の慰霊(施餓鬼)を命じました。同時代の日記『経覚私要鈔』には、義政の夢枕に父・義教が立ち「民を救うことが供養になる」と諭され改心したとも記されています。

 庶民の飢えと怒りはおさまらず、寛正3年(1462年)9月、京都では牢人(浪人)の蓮田兵衛を大将とする土一揆が勃発します。これには牢人のみならず、在京大名の被官までもが加わって膨れ上がり、土倉を襲撃して掠奪を行い、下京(京都南部)に火を放つに及びます。一度は沈静化したものの、10月になると山城南部の木津の馬借らが大和奈良で一揆を起こし、京都でも一揆が再発して各地の関所を封鎖します。さらには東寺を制圧し、賀茂川沿いに北上して糺の森(賀茂御祖神社の境内)に入り、相国寺東門を攻撃し、花の御所をも脅かす勢いを見せました。

 京極持清の従弟・多賀高忠は京都侍所の所司代として治安維持を担っており、浦上則宗率いる赤松勢とともに鎮圧にあたります。蓮田兵衛は土豪百姓を率いて攻め寄せ、一度は赤松勢を押し返しますが、再度の攻撃を防ぎきれず総崩れとなり、一揆勢は離散しました。兵衛は京都南部の沼沢地・淀に身を隠しますが11月に捕縛・斬首され、大和では興福寺が一揆を鎮圧します。

 大飢饉と土一揆により京都が混乱したため、畠山義就は河内を拠点に抵抗を続けることができたものの、寛正4年(1463年)4月に嶽山城が陥落、紀伊を経て吉野へ逃れます。同年8月に義政の母・日野重子が没したため恩赦を受けて朝敵認定は取り消されますが、畠山氏の家督を相続することは許されず、翌寛正5年(1464年)11月には23歳の政長が35歳の細川勝元より管領の職を譲られました。政長の妻は京極持清の娘で、勝元の親類にあたります。

 当然勝元は政長を介して幕政を牛耳り続けますが、将軍による専制を目論む義政、その側近の貞親らには面白くありません。各地の守護大名や国人も勝元派と反勝元派に分かれて争い、利害を巡って寝返りや裏切りが頻発します。義政の優柔不断で無責任で自己中心的な政策方針も混乱を長引かせて、応仁の乱の火種になっていったのです。

◆室町◆

◆無頼◆

【続く】

いいなと思ったら応援しよう!

三宅つの つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。