【つの版】度量衡比較・貨幣199
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は甲斐国の続きです。

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甲府城番
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は武田氏の本拠地であった甲斐を重視し、譜代の重臣・平岩親吉を甲府郡代に任じて4郡のうち3郡(国中地方)の統治を行わせます。また甲斐の金山などは大久保長安に取り仕切らせ、東部の都留郡(郡内地方/谷村藩)には鳥居成次を封じました。しかし江戸防衛の東の要として徳川家の一門を封じる(親藩)考えは早くからあったようです。
武田氏滅亡の際、勝頼の子・信勝は父とともに自害します。信勝の弟・勝千代は2歳でしたが、家来の手引きで鎌倉を経て摂津尼崎に移住し、池田信輝の庇護を受けて出家、本願寺派の僧侶・善悦となって100歳を超える長寿を保ったといいます。家康は穴山梅雪の子・穴山勝千代に武田氏の家督を継がせますが、彼が5年後に逝去すると家康の五男・万千代(信義/信吉)が家督を継承します。しかし甲斐ではなく常陸国水戸25万石に封じられ、慶長8年(1603年)21歳で逝去しました。武田氏の嫡流は信玄の次男の子・信道が継承し、紆余曲折ありながらも家名は現代まで続いています。
関ヶ原の前年、家康は八男の仙千代を平岩親吉の養嗣子としますが、この仙千代は翌年2月に6歳で病没します。そこで慶長8年、家康は仙千代の同母弟・五郎太丸(のちの徳川義直)を4歳で甲斐国主とし、親吉をその傅役に任じました。慶長12年(1607年)、五郎太丸改め徳川義利は尾張国清洲47万石余に転封され(後の名古屋藩)、親吉は尾張国犬山城主12万3000石を賜って甲斐から移り、後見役を続けることとなります。
このため甲斐国中3郡はいったん幕府直轄領とされ、武田家の遺臣であった武川衆・津金衆ら12名が交代で甲府城の城番をつとめることとなります。この状態は元和4年(1618年)まで11年続きました。この間の慶長18年(1613年)に大久保長安は病没し、彼の一族や武田信道を含む多数の関係者が処罰されています(大久保長安事件)。
代わって甲斐国主に封じられたのは、徳川秀忠の三男・松平国千代です。この時12歳で元服しておらず入国もしませんでしたが、谷村藩主の鳥居成次を附家老とする家臣団が編成され、武田遺臣ら代官衆とともに藩政を取り仕切ります。元和6年(1620年)国千代は元服して忠長と名乗り、加増を重ねて信濃国佐久郡6万石と小県郡の一部、駿河一国と遠江国の掛川藩領を賜り55万石の大大名となります。寛永3年(1626年)には権大納言となり「駿府大納言」と呼ばれますが、彼は将軍家光の弟として大坂城か100万石を父に要求するなど傲慢不遜でした。寛永9年(1632年)大御所の秀忠が薨去すると、家光は忠長を改易して全ての領国を没収し、幕府直轄領としました。以後は再び甲府勤番制が敷かれ、20年近くが経過します。
鳥居成次はこの前年に没しており、子の忠房が谷村藩主を継いでいましたが、彼は忠長の改易に連座して改易され、秋元泰朝が代わって谷村藩主となります。秋元家による都留郡の統治は以後宝永元年(1704年)まで3代72年続きました。
甲府藩政
慶安4年(1651年)4月、将軍家光の三男・長松が数え8歳で甲斐府中等15万石を賜ります。所領は武蔵・信濃・駿河・近江にも散在しており、元服前かつ家光が同月に薨去したため入国はせず、江戸桜田の御殿にとどまりました。父家光の喪が明けた承応2年(1653年)8月、長松は10歳で元服し、将軍となった長兄・家綱の偏諱を受けて綱重と名乗りました。弟の徳松も同時に元服して綱吉と名乗り、上野国館林等に15万石を授かっています。なお綱重は翌年芝の埋め立て地を別宅として賜りました(現在の浜離宮)。
寛文元年(1661年)には10万石が加増されて25万石となり、各地に分散した所領や甲斐国内の旗本領も整理されます。綱重自身は将軍の弟として江戸にとどまり、家老や代官が領国を統治しました。
この頃日蓮宗総本山身延山久遠寺に参詣した江戸深川の商人・徳島兵左衛門は、釜無川右岸に水が乏しく荒野が広がっているのに目をつけ、堰(農業用水路)を開削して芝地を開墾する計画を立てます。寛文4年(1664年)、兵左衛門は甲府藩と交渉し、開墾初年にのみ水代を徴収し、2年目以降は年貢の1割を永代得るという契約を交わして開削・開墾の許可を得ました。
兵左衛門は3年の歳月と4165両の資金を投じ、難工事の末に17㎞におよぶ用水路を開削しますが、同年に台風の被害を受けて破壊されます。甲府藩は有野村の里長・矢崎又右衛門に復旧を命じ、兵左衛門にはこれまでの工事費を補償する代わりに堰を藩に譲渡させます。堰は寛文10年(1670年)に完成しますが、又右衛門も約束の工事費用を支払われず困窮したといいます。
綱重は延宝6年(1678年)35歳で没し、子の綱豊が跡を継ぎます。2年後に将軍家綱が危篤に陥ると跡継ぎがおらず、綱重の弟・綱吉が養嗣子となって跡を継ぎました。しかし彼も跡継ぎに恵まれず、宝永元年(1704年)には甥の綱豊を養嗣子としています。これに伴い綱豊は家宣と改名し、甲府徳川家は廃止され、家臣団は次期将軍の家臣として江戸城に入りました。間部詮房や新井白石、和算家の関孝和らもこの時に幕臣となっています。
代わって甲府藩主となったのは、綱吉の側近で松平姓を受けていた柳沢吉保です。柳沢氏は甲斐源氏のうち武田氏傍流一条氏の末裔を称し、武川衆・武田家遺臣として徳川家に仕えました。吉保の父・安忠は忠長に仕えていましたが改易後に牢人となり、館林藩に仕官していました。そのため吉保は幼い時から綱吉に仕え、忠臣として出世を重ねたのです。なお同年には谷村藩が廃止され、都留郡は幕府直轄領となって代官が置かれました。
宝永4年(1707年)には南海トラフを震源とする大地震が起き、続いて富士山が大噴火するなど災害が相次ぎます。宝永6年(1709年)に綱吉が薨去すると家宣が後を継ぎ、権勢を失った吉保は隠居して子の吉里に家督を譲りました。また子の経隆と時睦に各々1万石を授けています(甲府新田藩)。吉里は翌年甲府藩主としては初めて入国し、検地や用水路の整備などを行って善政を敷くこととなります。
家宣は将軍在任3年で薨去し、子の家継も跡継ぎがないまま3年で薨去したため、享保元年(1716年)紀州和歌山藩主の吉宗が将軍に就任します。彼は間部詮房・新井白石ら旧家宣派を排斥し、紀州藩から家臣らを呼び寄せて幕臣とし、享保の改革を行って幕政を立て直そうとしました。その一環として享保8年(1724年)甲府藩を取り潰し、柳沢吉里は大和国郡山藩15万石余に転封されます。2つの甲府新田藩も越後国黒川と三日市に転封され、ここに甲斐一国は再び幕府直轄領に戻されたのです。
甲府藩は江戸に近く金山も多く、旧家宣・綱吉派の地盤ですから、放っておけば反吉宗派の牙城になりかねません。家宣の同母弟の松平清武は館林藩主でしたが、甲府藩士の越智家に養子に入っていたため(越智松平家)将軍家を継げず、子の清方ともども享保8年に病没しています。
甲府勤番
吉宗は甲斐一国の統治を「甲府勤番」という役職に委ねます。トップは「甲府勤番支配」といい、定員2名で老中の支配下に置かれ、知行高は3000石、役高1000石とされます。駿府城代と並ぶ遠国奉行の筆頭であり、各々が甲府城内の大手(追手)と山ノ手に配置され、配下には勤番士200名と与力20名、同心50名がおり、甲府城の警備と政務、訴訟処理を担当しました。
甲府勤番には成立当初から武田家遺臣の系譜を引く甲州系の幕臣/旗本が多く、また決まった役職のない「小普請」と呼ばれる家禄3000石以下の旗本や御家人が任命されることが多かったようです。つまり反吉宗派の左遷先で、後には余剰幕臣の受け皿としても機能しました。失脚したり失態を犯した幕臣は小普請を経て甲府勤番にされるため、島流しならぬ「山流し」として嫌われたといいます。
また延享3年(1746年)、田安徳川家の賄料10万石のうち甲斐国山梨郡・八代郡から63村3万石余が幕府領から配分され、山梨郡に田安陣屋が置かれて家領支配が行われました。田安家は吉宗の次男宗武を祖とし、宗家に跡継ぎがない時の候補者として建てられましたが、当主は江戸城内の田安屋敷から離れられず、各地の田安家領からの賄料で生活しているだけで、支配は代官に任せきりでした。江戸時代後期、この田安家領で一揆が勃発します。
甲斐国(甲州)のうち都留郡を除く国中三郡では、武田信玄以来の遺制として、甲州金・甲州枡・大小切税法という「甲州三法」が適用されていました。甲府には金座が置かれて文政年間まで甲州金が鋳造され、甲斐国内での流通が許可されており、甲州枡は1升が京枡の三倍もありましたが、甲斐国内でのみ使用が許可されていました。また山がちで水稲耕作に向かない甲斐国では、年貢のうち米で納めるのは9分の4とされ、残りは米を金に換算して納める(大切・小切)やり方が定着していました。
代々の甲斐の支配者は、納税額を上乗せするためこれらの制度を廃止しようとしましたが、そのたびに地元住民の頑強な抵抗に遭い、失敗してきた歴史があります。また住民は金納のために養蚕・織物・煙草栽培・林業などを行っており、米によらない貨幣経済が浸透していたため、金納制度を廃止するのは現実的でもなかったのです(明治時代にこれを巡って大規模な一揆が起きています)。となると、増税のために行えるのは枡の改変です。
安永5年(1776年)には江戸枡座の樽屋が幕府に請願して東国における枡改の触が出され、甲州枡(国枡)は撤廃の危機に瀕します。これに対し安永9年(1780年)には田安家領を含む国中三郡の百姓が結集し、甲州枡の存続運動(増税反対運動)を起こしました。この時は最終的に幕府側の譲歩が引き出せましたが、天明年間にかけて災害が相次ぐと田安家の財政も悪化し、またも増税がはかられます。寛政4年(1792年)に田安領の代官として着任した山口彦三郎は新枡(太枡)の適用による増税を断行し、領内百姓から集団訴訟が殺到しました。役人たちが聞き入れなかったため、百姓たちはついに江戸への越訴(幕府への訴願提出)を計画します。
寛政4年末、代表団は江戸へ到着し、寺社奉行に対して訴状を提出しました。しかし江戸への出訴は明和7年(1770年)の百姓一揆禁止令に違反しており、徒党を組んでの行いも問題視され、首謀者のうち3名が死罪、4名が遠島に処せられました。田安家では下級地方役人の山下次助だけに責任を負わせて追放し、事態をなんとかおさめています。この後も甲州枡の使用は明治時代まで続けられ、甲州は「難治の地」とみなされました。
当時の田安家当主・斉匡は、将軍家斉の異母弟にあたり、松平定信の兄・治察が没して以来長く絶えていた田安家の家督を一橋家から入って継いでいます。幕末の越前福井藩主・松平春嶽は彼の子の一人です。
とはいえ甲斐国は決して貧しい国ではなく、むしろ貨幣経済にいち早く適応した先進的な地域とさえ言えました。江戸に近く交通も整備されていたため人や物の往来もあり、文化的に発展しています。寛政の改革を進めた松平定信は各地に学問所を設置させ綱紀粛正につとめましたが、寛政8年(1796年)には甲府に学問所が設置され、享和3年(1803年)には林述斎から「徽典館」と命名されて昌平坂学問所の分校となりました。また『甲斐国志』など地誌書を記した勤番士も輩出しています。
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