【つの版】度量衡比較・貨幣246
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

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信長課銭
永禄11年(1568年)10月、足利義昭を上洛させ将軍に就任させた織田信長は、その功績により副将軍か管領に任じられようとしますが断り、足利家の桐紋と斯波家(足利家名門)並みの礼遇だけを賜ります(朝廷や幕府からは管領に準じる扱いを受けています)。また幕府の承認を受けて近江国栗太郡草津と滋賀郡大津、和泉国堺に代官を置いた後、岐阜へ帰還しました。
大津は琵琶湖南西岸に位置する京都の外港で、草津はその東、琵琶湖の南湖を挟んだ対岸にあります。ここは東海道・東山道と琵琶湖水運を結ぶ交通の要衝です。国際港である堺とともに琵琶湖水運を掌握した信長は、六角氏に領国を戻すことなく、尾張・美濃と京都の間に広がる南近江を自らの所領に組み込み始めたのです。六角氏の重臣であった蒲生賢秀を厚遇し、子息の烏帽子親となり娘婿としたのもこの政策の一環です。とはいえ岐阜と京都の間は120㎞弱、日に40㎞の速度で急いでも3日はかかり、大軍が移動するには10日は必要となります。この隙を突いて反信長派が動き出しました。
永禄12年正月(西暦1569年2月)、三好三人衆は一色龍興・小笠原貞慶らとともに兵を率いて京都に攻め寄せ、足利義昭の仮御所である六条本国寺を襲撃しました。彼らはほとんど戦わずして撤退したため兵力はほぼ無傷で、豪雪により美濃からの援軍が動けないであろうと踏んで反撃に出たのです。しかし義昭は明智光秀・細川藤賢らわずかな手勢とともに抗戦し、周囲から援軍が駆け付けるまで持ちこたえます。松永久秀は岐阜へ年賀の祝いに来ていて留守でしたが、三好義継・和田惟政・池田勝正・荒木村重らは急報を聞いて馳せ参じ、三好三人衆の軍を攻撃して撃退に追い込みました。
信長は10数騎を連れて岐阜城を出発し、馬を乗り換えてか襲撃開始の2日後には本国寺に駆け付けますが、すでに敵軍は撤退していました。そこで足利義輝の御所があった二条御所を再建し、堅牢な石垣を築いて本国寺の建物を移築しました。この工事には畿内近国から8万人もの人手が集まり、3か月ほどで御所は完成し、義昭が移住したのを見届けると信長は帰国します。同年8月には南伊勢の北畠氏と戦い(北伊勢は2年前に制圧)、10月に和睦して息子を養嗣子に送り込んでいます。
これら相次ぐ出兵や工事の費用は、各地の寺社や商人に課した銭で賄われています。法隆寺に1000貫、石山本願寺には5000貫を課し、摂津尼崎には焼き討ちを行ってまで銭を出させ、堺には矢銭(軍用金)として2万貫を課しました。銭1文を現代日本円の100円と仮定すると、1貫は1000文=10万円、1000貫は1億円、5000貫は5億円、1万貫は10億円、2万貫は20億円にもなります。さすがの堺も出し渋り、3か月後にようやく支払っていますが、信長が商業の栄えた堺・大津・草津に代官を置いたのも、これらの銭を徴収するために他なりません。上洛時にも美濃を平定したばかりですから、素早く動いて敵を制するには、物資と交換可能な銭で徴収するのが理にかなっています。ようやく貨幣の話に戻ってきましたね。
信長包囲
翌永禄13年(1570年)正月、信長は「殿中御掟」を制定して幕政の基礎を固めますが、義昭や側近は自らの権力を強めるために恣意的な裁許を行いがちで、結果的にこれを諫めた形となりました。また信長は甲斐・三河・遠江・伊勢・飛騨など21か国の大名や国衆に「禁中御修理」「武家御用」など「天下静謐」の礼参を名目に上洛を促す触状を発しました。3月にはこれに応じて諸大名やその使者が続々と入京し、朝廷と幕府には多額の金品が献納されます。喜んだ朝廷は信長を副将軍に任じたいとの意向を示しますが、信長は応じていません。しかし事実上幕府を主導し、圧倒的な軍事力と権力を有しているのが信長であることは誰の目にも明らかとなりました。
同年4月20日、信長は徳川家康・池田勝正・松永久秀らと連合して3万の幕府軍を率い、琵琶湖西岸を北上して若狭国へ出兵しました。同国大飯郡の国人・武藤友益を討伐するとの名目でしたが、実際は若狭を制圧し守護を拉致している越前朝倉氏を討伐するのが目的です。朝倉氏は足利義昭を数年間庇護しましたが上洛の支援をせず、義昭はこれを見限って信長のもとへ逃げ込んだのですから、討伐される理由もあります。この出陣の3日後には元亀と改元され、その2日後に幕府軍は若狭から越前敦賀へ侵攻、翌日には敦賀を制圧しました。ところがこの時、浅井長政が信長に反旗を翻したのです。
浅井長政は信長の妹・お市の方を娶った義弟で、茶々や初といった娘たちも生まれており、信長からも篤く信頼されていました。側室の子と思われる万福丸は越前一乗谷に人質として取られており、味方しなければ殺すと脅された可能性は高いでしょうが、信長を裏切れば天下はまたも混乱することは目に見えています。同時期には六角氏が江南で挙兵しており、おそらくは朝倉氏が六角氏や、長政の父で隠居していた久政とその派閥を調略したのでしょう。仰天した信長は敦賀から若狭へ全速力で撤退し、朽木谷を経由して京都へ帰還しました。朝倉・浅井勢の追撃も若狭までは届かず、幕府軍は大きな被害を出すこともなく、無事に撤退に成功します。
この時、信長の撤退を支援したのが朽木谷領主の朽木元綱です。朽木谷がある高島郡は名目上は京極氏の所領で、江北国人衆の盟主である浅井氏の版図でしたが、朽木氏は佐々木氏傍流かつ代々幕府奉公衆として将軍家に直属しており、浅井氏の家臣というわけではありません。元綱の曾祖父材秀と祖父稙綱は足利義材/義稙、父晴綱は足利義晴、叔父の藤綱・輝孝は足利義藤/義輝から偏諱を賜っていますが、元綱は細川晴元から偏諱を授かったのでしょう。撤退中の幕府軍に逆らえば生き残るため全力で潰されますし、信長が倒れれば幕府も危ういのですから、元綱は松永久秀の説得もあり、状況判断して信長に味方したのです。
4月30日に京都に戻った信長は、体勢を立て直したのち、5月9日に岐阜へ向かいます。敦賀を奪還した朝倉義景は11日に一族の朝倉景鏡を南下させ、南の六角氏とともに信長を襲わせます。信長は山中越道の東を抑える滋賀郡宇佐山(現大津市南滋賀町)に森可成を遣わして城を築かせ(宇佐山城)、野洲郡永原城(現野洲市永原)に佐久間信盛を、蒲生郡長光寺城(現近江八幡市長光寺町)に柴田勝家を、観音寺城の支城である蒲生郡安土城(現近江八幡市安土町)に中川重政を配備して防がせます。京都と美濃を往来するためには、江南に拠点を築いておかねばなりません。
そして浅井氏に制圧されている関ヶ原方面の道を通らず、蒲生定秀の治める日野城の北、愛知川の支流・和南川沿いに南東へ向かって北伊勢へ抜ける「千種街道」を通りました。道中で杉谷善住坊なる者から火縄銃による狙撃を受けますが軽傷で済み、5月21日に岐阜城へ戻ります。
信長は取り逃がしましたが、六角父子は江南を奪還すべく伊賀・甲賀から北進し、紀州の雑賀衆や伊勢の一向一揆にも援軍を要請して、江南の織田軍を討伐に向かいます。柴田勝家と佐久間信盛はこれを迎撃すべく出陣し、両軍は野洲川の河原の落窪(現野洲市乙窪)で激突しました。この戦いで六角勢は惨敗を喫し、六角父子は逃げ延びたものの、周辺の土豪・国人は信長に服属します。なお江戸時代前期に書かれた『武家事紀』では、この時六角氏が勝家の籠る長光寺城を包囲し、勝家は水瓶を打ち割って不退転の覚悟を兵に示した後、打って出て敵軍を撃破したとしますが、史実ではありません。
姉川合戦
浅井・朝倉軍は美濃と近江の国境にある長比城・苅安尾城を修築し兵を配備しますが、15日に朝倉軍が越前へ戻ると両城は調略によって信長に降り、南西の鎌刃城も竹中半兵衛の調略で織田方につきます。信長は19日に岐阜城を出立、40㎞弱を1日で進んで長比城に入ります。21日には北西に向かって姉川を渡り、小谷城の南の虎御前山に布陣し、城下町を焼き払わせたのち後退し、24日には姉川の南の龍ヶ鼻に布陣し、南の横山城(現長浜市村居田)を包囲します。ここで徳川家康が援軍を率い到着しますが、浅井方にも朝倉景健率いる援軍8000が到着し1万3000となります。
両軍は6月28日朝に姉川を挟んで激突し、一時は浅井・朝倉軍が優勢となりますが、伸びきった敵陣に対して家康方の榊原康政が横合いから攻撃し、大打撃を与えて敗走に追い込みます。この戦いで浅井長政の弟政之、重臣遠藤直経ら多くの浅井家の武将が戦死し、朝倉方は猛将の真柄直隆らが討死、信長方は小谷城の麓まで追撃して放火しますが落とせぬと見て撤退します。まもなく横山城は降伏し、信長は木下藤吉郎秀吉を城番としました。
横山城は小谷城の南東10㎞ほどの位置にある山城で、美濃と近江の境の関ヶ原からも同じほどの距離があり、北には姉川が西へ流れ国友村を経て琵琶湖に達し、小谷城を護るにも攻めるにも最前線基地となります。ここを抑えている限り、浅井勢は南へ容易に動けず、美濃へ進出することもかないません。これほどの重要な城を任された秀吉は、すでに美濃・近江・敦賀など各地を転戦して手柄をあげ、信長から相当に信頼されていました。
姉川の北、小谷城の南には浅井方の宮部城(現長浜市宮部町)があり、宮部継潤が城主として睨みをきかせていました。もとは比叡山の僧侶であったといい、南の国友城とともに防衛線を敷いています。
鎌刃城が信長に寝返ったため、その南の佐和山城(現彦根市古沢町)を拠点としていた浅井勢は小谷城と分断されます。ここは琵琶湖に山が迫る狭隘な地に築かれた交通の要衝で、もと六角氏の城でしたが浅井氏に制圧され、重臣磯野員昌が居城としていました。信長はこれを包囲にかかります。
志賀之陣
三好三人衆はこの間に摂津を制圧、7月には淀川河口部の野田・福島(現大阪市福島区)にあった砦を増築して拠点とし、8月17日には織田方の古橋城(現門真市御堂町)を攻め落とします。阿波や紀伊からも援軍が到着し、松永久秀らが大和から駆け付けますが抑えきれなくなります。情報を受けた信長は8月20日に岐阜城を出立し、横山城・長光寺・京都本能寺・枚方を経て26日には天王寺に到着します。しかし入り組んだ河川に囲まれた2つの城は堅牢で、石山本願寺も反信長で挙兵し、膠着状態となります。
9月16日、浅井・朝倉連合軍はこの隙を突いて進軍を開始し、守りの堅い姉川方面を避け、琵琶湖西岸を南下して高島郡から坂本へ攻め寄せました。森可成は先んじて坂本を制圧し、穴太などに伏兵を配置して迎え撃ちます。信長の弟信治、近江国人の青地茂綱らも駆けつけて支援しますが、19日には本願寺の要請を受けた延暦寺が反信長派に加勢し(信長は延暦寺の荘園を多数押領していたので大義名分はあります)、可成・信治・茂綱ら3将は討死しました。宇佐山城は可成の家老らの奮戦で落城しませんでしたが、連合軍は大津を焼き払い、逢坂を越えて山科・醍醐まで侵攻、御所をうかがう有様となります。やむなく信長は京都まで撤退し、連合軍は比叡山に籠城しました。信長は坂本に陣を敷いて包囲にかかったものの攻めあぐねます。
この間に摂津の三好勢は勢力を盛り返して京都をうかがい、六角氏も一向一揆とともに江南で挙兵し、美濃と京都の交通を一時遮断します。これは木下秀吉と丹羽長秀、徳川家康の援軍により回復され、六角氏は信長と和睦しますが、本願寺の呼びかけに答えて伊勢長島でも一向一揆が蜂起し、尾張に攻め込んで信長の弟信興が討死しています。さらに浅井・朝倉勢も隙を突いて京都へゲリラ戦を仕掛け、越前から若狭へ侵攻して小浜を制圧し、親信長勢力と戦い始めます。四方を敵に囲まれた信長は窮地に陥り、坂井正尚らに近江堅田の砦を占拠させたものの包囲されて敗北し、正尚は討死しました。
両者の対陣は3か月続き、秋から冬に及びました。朝倉勢は優勢でしたが攻めきれず、北陸には雪が降り始め、豪雪が積もれば越前と比叡山の連絡が絶たれてしまいます。信長も朝廷と幕府を動かして和議をはかり、11月から12月にかけて各勢力と信長との和睦が成立します。しかしこれも一時的なものに過ぎず、信長包囲網はその後も拡大していくこととなりました。

◆戦◆
◆国◆
【続く】
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