【つの版】日本刀備忘録82:林崎甚助
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
剣術は鞘から刀を抜いて構えた状態から始まりますが、刀を用いる武芸のひとつとして、鞘から刀を抜き放つと同時に攻撃する「抜刀術」または「居合術」があります。「抜き打ち」とも言って古くからある技術でしたが、戦国時代の後期に林崎甚助が流派として確立したとされ、江戸時代を通じて盛んとなりました。
◆抜◆
◆刀◆
林崎甚助
林崎甚助は、本姓を源、諱を重信といい、伝承によれば天文11年(1542年)ないし天文17年(1548年)の生まれです。出身地は出羽国村山郡楯岡の林崎村(現山形県村山市林崎)で、幼名は浅野民治丸といいました。父の浅野数馬源重治は楯岡城主の楯岡豊前守満茂に仕えていましたが、何らかの理由で坂上主膳という者の恨みを買い、闇討ちされます。
主膳はそのまま逐電し、数え6歳の民治丸は武家の跡取りとして仇討ちが義務付けられ、8歳の時に楯岡城の武芸師範である東根刑部大夫に入門して武芸を習います。ところが一向に技量があがらず、母を嘆かせました。そこで14歳の時、民治丸は林崎の熊野明神に百日参籠して剣術の奥義を授け給えと祈念し、満願の夜に夢中に示現した神から抜刀の秘術を授かりました。
元服した民治丸は林崎甚助源重信と名乗り、18歳の時に仇討の旅に出発、2年後に仇討ちを果たします。帰国すると明神に長三尺三寸(約1メートル)の信国の太刀を奉納し、翌年母が没すると再び出羽を去って諸国を旅しながら修行し、文禄3年(1594年)ないし元和3年(1621年)に没したと伝えられます。以上は昭和8年(1933年)に編纂された『林崎居合神社記』などによるものですが、果たしてどの程度史実性のある話でしょうか。
長柄之刀
彼に関する最古の記述は、寛永18年(1641年)頃までに編纂された『北条五代記』に見えます。ここでは「林崎かん介勝吉」と呼ばれ、鹿島明神が老翁の姿で彼の前に現れて、長柄の刀を用いることを伝えたとされます。
さて又長柄刀のはじまる子細は。[鹿島]明神老翁に現じ。長柄の益有を林崎かん介勝吉と云人に伝へ給ふゆへに。かつと[よ]し長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛成政という者に。是を伝ふる。
成政長柄刀をさし諸国兵法修行し。柄に八寸の徳。みこし[見越]にさんぢう[三重]の利。其外神妙秘術を伝へしより以後。長柄刀を皆人さし給へり。然に成政が兵法第一の神秘奥義といつは。手に叶ひなば。いか程も長きを用ひべし。勝事一寸にして伝へたり。其上文選に。末大なればかならず折れ。尾大なればうごかしがたしと云々(左伝昭公11年に「末大必折、尾大不掉」とある)。若し又かたき長きを用るときんば。大敵をばあざむき。小敵をばをそれよと云をきし。光武[東漢世祖光武帝]のいさめを。用ゆべしと云り(後漢書光武帝紀にあり、太平記等にも引用)。
むかしの武士も。長きに益有にや。太刀をはき給へり。長刀は古今用ひ来れり。扨又長柄の益といつは。太刀はみじかし。長刀は長過ぎたりとて。是中を取たる益なり。又刀太刀長刀を略して。一腰につゝめ。常にさしたるに徳有べし。それ関東の長柄刀。めはなのさきのさし合は。すこしき失なり。敵をほろぼし我命を助けんは。大益なるべし。
打刀の刀身は2尺3寸(約70㎝)ほど、柄の長さは8寸(約25cm)ほどですが、柄をそのままにして刀身を伸ばせば扱いづらく、逆に柄を伸ばせば扱いやすく、鞘から抜きやすいうえ間合い(見越、リーチ)も伸びます。南北朝時代には大太刀が流行しましたが、剛力の巨漢でなければ扱いづらいため、3尺の刀身に3尺ほどの長柄をつけた長巻が軽便で威力の高い武器として好まれました。長柄刀もそうした理由から実戦で用いられたものと思われます。その柄の長さは「目鼻の先に差し支える」ほどもあったと記されますが、抜刀と斬撃を同時に行う術のことは書かれていません。「柄に八寸の徳」云々というのは鹿島新当流に説くところですし、鹿島明神より秘術を授かっているのですから、元来は関東の剣術なのでしょう。
18世紀前半に編纂された、甚助の甥・高松勘兵衛信勝の系統とする一宮流伝書『武術太白成伝』によると、林崎甚助は諱を氏賢といい、生国は相模です。文禄4年(1595年)から7年間は武州一宮(氷川神社、現埼玉県さいたま市大宮)の社地に住し、54歳で諸国歴遊の旅に出た後、元和2年(1616年)に武州川越の高松勘兵衛のもとに滞在し、翌年奥州へ旅立ち消息を絶ったといいます。逆算して文禄4年に47歳、1616年に78歳となり、天文17年(1548年)生まれです。相模や武蔵は小田原北条氏の領国でしたから、甚助は『北条五代記』に見える林崎かん介勝吉本人か、その一族なのかも知れません。
また同書には、享保元年(1716年)に高松勘兵衛の孫弟子にあたる奥幸四郎が施主となって川越の蓮馨寺に墓碑を建て、良仙院一誉昌道寂心大信士の法号を彫り、生国鎌倉天照山光明寺(現神奈川県鎌倉市材木座)の過去帖にもその名を留めた、とあるそうです。とはいえ甚助の失踪から100年も後の話ですから、史実かどうかは定かでありません。
正徳4年(1714年)に編纂され享保元年に刊行された『本朝武芸小伝』では林崎甚助重信とし、相模や出羽ではなく奥州(陸奥)の人としています。
林崎甚助重信ハ奥州ノ人也。林崎ノ明神ヲ祈テ刀術ノ精妙ヲ悟ル。此ノ人中興抜刀之始祖也。
また『北条五代記』の記述を引用し、「勘助[介]とは(甚助の)写本時の写し間違いであろうか。五代記には勝吉、伝書には重信とあり、奥州楯岡の近くに林崎明神という神社があって、この神に祈って抜刀の極意を悟ったという」と記しています。ここに伝説の原型が揃ったわけですが、楯岡は奥州ではなく出羽です。また居合術の祖を「林之明神」とする伝書も数多くありますが、常陸国鹿島神宮の北に林という地名があり、鹿島新当流の祖・塚原卜伝に師事したとの伝説もあります。卜伝は元亀2年(1571年)83歳で没したとされますから、年代的に会うことはできたでしょう。
さらに異説では、本姓は北条氏で奥州伊達郡(現福島県北部)に住し、初め神道流を学んで兵法者を志し、出羽楯岡の林之明神に百日参籠祈願して、夢想の中に万字剣という居合の極意を発明したとされます。父の仇討ちのために剣術を修行する話は、念流の始祖とされる念阿弥慈恩の近世の伝説にもありますし、後付けかと思われます。
林崎甚助の門人には高松勘兵衛の他、東下野守元治、片山伯耆守久安、田宮平兵衛重正らがいたといいますが、『北条五代記』にある弟子の名は田宮平兵衛(成政)のみです。伊東一刀斎が実在すら定かでなく、弟子の小野忠明によって名が残ったように、林崎甚助の名も田宮平兵衛とその弟子たちによって残ったのです。
田宮重正
田宮平兵衛は、『北条五代記』では諱を成政とし、『本朝武芸小伝』には重正とあり(読みは同じ)、関東の人(一説に上野国邑楽郡岩田村、現群馬県板倉町岩田)で林崎甚助重信(勘助勝吉)の弟子と記します。彼は長柄刀の利を唱え、通常より柄を三寸(約10cm)長くし、のちに田宮流と呼ばれる兵法の祖となりました。また初め東元治に師事し、ついで林崎甚助に学んで居合の精妙を極め、のち対馬守と称したといいます。後世の系譜では「討死した」とありますが、彼の生没年は定かでありません。
重正の子・長勝(常円)は父の武芸を受け継ぎ加賀に住んでいましたが、池田輝政・利隆父子に仕えて大坂の陣で活躍しました。この功績により家康の十男の頼信に800石で召し抱えられ、子の長家も250石を賜ります。元和5年(1619年)頼信改め頼宣が駿府から紀州和歌山に国替えされ、紀州藩士となりました。田宮重正が生きていれば記録されたでしょうから、この頃までには没したようです。長勝は正保2年(1645年)正月に没したといいます。
長家は通称を掃部、のち平兵衛といい、大猷大君(徳川家光)が頼宣に命じて江戸に召し寄せ、慶安5年(1651年)にその武芸を観覧したことで天下に名が知られるようになりました。長家の子・三之助朝成は常快と称し、その子の次郎左衛門成常は中納言吉宗に仕え、吉宗が紀州藩主から将軍になると田宮流はますます有名となり、その末流(子孫や門人による分派)が諸州に存在するようになったといいます。
田宮重正―長勝―長家―朝成―成常
また重信・重正の直弟子とされる者に長野無楽斎がいます。上野国の戦国大名長野氏の一族ですが、長野氏滅亡後に奥羽へ赴いて重信らに師事し、のちに無楽流と呼ばれる居合術の一派をなしました。家康が関東に転封され、その重臣である井伊直政が上野に封じられると、無楽斎は彼に仕えます。関ヶ原の戦いの後、直政が近江に国替えされるとこれに従い、90余歳で没したと伝えられます。その弟子には上泉信綱の孫・秀信らがおり、彼らの諸流は奥羽諸藩に広まりました。
◆抜◆
◆刀◆
【続く】
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