【つの版】度量衡比較・貨幣211
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は尾張の続きです。

◆尾◆
◆張◆
名古屋城
慶長12年(1607年)、徳川家康は甲府藩主であった九男の義利を8歳で清洲城主とし尾張47万石余を授け、甲府城代であった平岩親吉を犬山城主として12万3000石を授け、義利の後見人として政務を委ねました。これより明治維新まで続く尾張徳川家(尾張藩/名古屋藩)の始まりです。義利は駿府城の家康のもとで引き続き養育されますが、家康は義利の居城として慶長14年(1609年)尾張に新たな城を築かせ始めます。すなわち名古屋城です。
尾張国の中心は、15世紀後半から100年以上にわたり清洲にありました。しかし清洲城は地盤が弱くて地震や水害による被害を受けやすく、多くの兵を駐屯させられず、守りに弱い城でした。これに対し、今川氏親によって大永年間(1521-28年)に築かれた那古野城は清洲の南東、熱田台地の西北端にあり、比較的地盤が強く水害の被害も受けにくい位置にあります。
那古野の地名は、城主とされた今川氏の分家にちなむとされます。駿河今川氏の初代当主・範国の弟を頼国といい、北条氏分家の名越高家の子・高範(母が今川氏)を養子としたのが始まりです。高家の高祖父朝時は北条義時の次男で、祖父の時政が住んでいた鎌倉の名越の屋敷を相続したことから名越の家名を得ました。名越とは鎌倉から三浦へ向かう坂道のことで、険しく難所であることから「難越」が転じた地名のようです。ただし安元元年(1175年)には東大寺別当の顕恵が開発領主となって那古野荘を開いており、鎌倉時代以前からある地名だともいいます。
天文7年(1538年)には織田信秀が策略をもって城主の今川氏豊を追放し、一時拠点をここに置きました。のち信長は清洲城に拠点を移し、叔父の信光を那古野城主としますが、彼が間もなく没したため、重臣の林秀貞を留守居役としました。秀貞はのち信忠の家老となりますが、天正8年(1580年)突然信長の命令で追放され、間もなく没しています。那古野城は廃城とされましたが、周囲に寺社の門前町や市場があって清洲や熱田に次ぐ大きな町となっていました。南には熱田神宮があり、北と西には庄内川が巡り、経済的にも防御面でも期待できます。
慶長15年(1610年)閏2月、家康は西国の諸大名に助役を命じ、天下普請による築城を開始します。普請奉行には滝川忠征(もと滝川一益の家来)ら5名が任ぜられ、加藤清正・細川忠興・黒田長政・福島正則・池田輝政ら名だたる大名が築城普請助役を担い、同年暮れまでには石垣の大部分が完成します。次いで慶長17年(1612年)からは城郭と城下町が建設され、清洲城と寺社、城下町2700戸5万人のほとんどが移されます(清洲越し)。並行して堀や周辺河川の整備も進められ、大坂夏の陣直前の慶長20年(1615年)2月には本丸御殿が完成しました。
この間の慶長16年(1611年)、数え12歳の義利は参議に叙任されて義直と改名しています(元和7年とも)。同年末に平岩親吉が没し、後継ぎがなかったため遺領と家臣は義直直轄となりました。慶長19年(1614年)大坂冬の陣で初陣し、慶長20年(1615年)4月に浅野幸長の娘を正室に迎えます。家康は彼の婚儀のため駿府から名古屋に入り、5月の大坂夏の陣には義直も後詰で参戦します。翌元和2年(1616年)4月に家康が薨去すると、義直は駿府を離れ尾張に入国し、元和5年(1619年)には56万3206石を賜りました。
同年には弟の頼宣が紀州・伊勢55万5000石を賜っており、尾張徳川家はそれを上回り、親藩の中では最も高い家格と石高を有することとなります。ただ尾張国の石高は慶長3年(1598年)に57万石余でしたが、慶長郷帳では48万石余となっており、これを義直領のみとして平岩親吉が領していた犬山領11万石余を足せば60万石余となります。
徳川尾州
義直は成人すると藩政を自ら行い、灌漑用水の整備や新田開発、検地を行って税収を増やしました。正保元年(1644年)から翌年には「正保の四つ概」という財政整理を行い、木曽や寺社領を除く領内の税率を六公四民から四公六民に改めます。民には減税に見えますが、実は領内の石高を「概高」と称して1.5倍としており、それに合わせて年貢を納めさせたため減収にはならず、かえって10万石近い増収となっています。
慶安3年(1650年)義直が51歳で薨去すると嫡男光義が後を継ぎます(寛文12年/1672年に光友と改名)。彼は徳川家光の偏諱を賜り、家光の娘・千代姫を正室としており、父の菩提寺として建中寺、母の菩提寺として大森寺を建立しました。また寺社奉行や評定所を設置し、防火・林業・軍備などを整備して藩政の基礎を固めましたが、万治3年(1660年)城下町で火災が発生し、次いで江戸藩邸が焼けるなど災害が続き、さっそく財政難に陥ります。やむなく寛文6年(1666年)に藩札を発行しますが成果があがらず短期間で廃止し、藩札回収のために幕府から10万両を借金する羽目になります。
寛文11年(1671年)、幕府より給人領として三河国加茂郡・近江国蒲生郡・摂津国川辺郡などに5万石を加増され、尾張藩の石高は61万9500石に達します。他に美濃や信濃にも飛び地があり、特に木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与しました。天和元年(1681年)には財政改革を断行して口米(年貢に対する付加税)を藩収入に繰り入れ、倹約令や上米(米の上納)によって財政を立て直しています。また江戸屋敷を幕府から拝領して拡張を進め、次男・三男を分家に立てて連枝を整備しました。
元禄6年(1693年)光友は家督を嫡男綱誠に譲り隠居しますが、元禄12年(1699年)綱誠に先立たれ、翌年光友も76歳で没しました。綱誠の嫡男吉通が後を継ぎ、将軍家宣の遺言で後継ぎ候補に立てられたこともありますが、幕閣は家宣の子・鍋松(家継)を擁立し、翌正徳3年(1713年)吉通は25歳で急逝します。子の五郎太も同年に没したため、吉通の弟・継友が21歳で跡を継ぎました。相次ぐ藩主の急逝は、同時期の将軍家の跡継ぎ問題と関係があるのではないかとも噂されますが、確証はありません。
将軍家継は3歳に過ぎず、政治は側用人の間部詮房と政治顧問の新井白石に委ねられましたが、家継は3年後に病没し、秀忠以来の徳川将軍宗家は跡継ぎを失います。そこで尾張徳川家の継友が将軍の後継候補に立てられますが、継友も重臣たちも乗り気でなく、結局紀州徳川家の吉宗が将軍となります。以後も尾張家からは将軍が出ることはありませんでしたが、継友は倹約と蓄財に励んで財政を立て直し、年2万8000両(1両20万円として56億円)を超える黒字を残したとされます。ただ江戸屋敷の火災で幕府から2万両を下賜されるなどしており、実際に黒字であったかは疑わしいともいいます。
享保3年(1718年)の収支は、金収入11万9041両、支出10万5662両で差引1万3379両の剰余、米収入13万970石、支出11万3741石で差引7229石の剰余があり、米価1石=金2両で換算すると総差引2万7837両の黒字です。享保13年(1728年)も総差引2万8167両の黒字を計上していました。
財政改革
享保15年(1730年)継友が39歳で病没すると、陸奥梁川藩主であった異母弟の松平通春が後を継ぎ、翌年将軍吉宗より偏諱を授かって徳川宗春と改名しました。前述のように、彼は継友が倹約して貯蓄していたカネを湯水のように浪費し、緊縮政策から規制緩和・自由経済政策へと大きく路線を変更します。これにより領内は好景気に沸き、庶民からは人気を集めたものの、倹約と緊縮政策により御金蔵を満たすことを是とする吉宗や幕府、代々の重臣たちからは理解不能で、大きく反発を受けました。
また藩財政は年間2万7000両もの赤字に転じ、累積赤字は7年間で14万7500両(1両20万円として295億円)超にも達し、領内の物価はインフレで高騰しました。宗春はインフレの過熱を抑えようと名古屋城下や岐阜・農村から多額の借財を行い貨幣を回収しますが、耐えかねた重臣たちは幕府と結託し、元文3年(1738年)吉宗の命令により宗春は隠居に追い込まれます。彼が単に派手好みの暗君であったのか、領民のためを思った開明的な名君だったのかは、評価の別れるところです。
後を継いだのは、2代藩主光友の11男・友著の子で、吉通・継友・宗春らの従弟にあたる松平義敦です。彼は尾張藩の支藩である美濃高須藩主でしたが、将軍吉宗は宗春から藩領をいったん没収し、彼に授けるという形で跡を継がせ、偏諱を授けて宗勝と名乗らせました。宗勝は宗春とは逆に倹約と緊縮政策を行い、延享4年(1747年)には藩財政は総差引1万3612両の黒字に転じました。彼が宝暦11年(1761年)没すると、子の宗睦が後を継ぎます。
宗睦は父に続いて質素倹約や新田開発による財政再建を行い、藩校・明倫館を創設するなど善政を敷きますが、河川の氾濫や天明の大飢饉により再び財政難に陥ります。そこで天明7年(1787年)末、尾張藩の木曽代官として善政を敷いていた山村良由(蘇門)を年寄職(家老)に取り立て、知行3000石を授けました。
蘇門は天明元年(1781年)より木曽代官をつとめ、石作駒石を勘定役に抜擢し、質素倹約と産業振興によって山村家の財政難を再建しました。また飢饉に際しては幕府に掛け合って美濃や松本から木曽谷へ米を運び入れ、自ら領内を巡視して金穀や医薬を配給しています。幕府老中の松平定信も彼を評価しましたが、尾張藩は市中の富商56人から金5000両を借り、幕府から2万両の公金を拝借するなど借金まみれで、財政再建は困難でした。
寛政6年(1794年)、尾張藩は財政赤字を解決するため藩札を発行しますが、かえってインフレを招きます。そこで藩札の回収のためと称して課役銀を倍増し、財政緊縮と増収を図りました。この前年には幕府から海軍防備令が出され、知多半島の防備を再編していますから、その資金調達のためもあったのでしょう。しかしこれは大きな反発を招き、寛政9年(1797年)には家臣からの封書による政策提言を受けつける制度を実施しています。
寛政11年末(1800年)宗睦が没すると、直系の世継ぎが疫病で早世していたため義直以来の男系は絶えますが、養嗣子の斉朝が7歳で後を継ぎます。彼の母方の高祖母は吉通の娘にあたるため、一応遠縁ではありました。幼少であるため付家老の成瀬正典が藩政を取り仕切り、成人すると財政再建を行い、倹約令や借金対策などを行っています。
この頃、宗睦の代から尾張藩に仕えた農政家・樋口好古によって地誌『郡村徇行記』が記されています。これは尾張・美濃・近江の藩領を巡検した際の記録で、各地の村の沿革や境界・人口・租税・河川・水路・橋などについて寛政4年(1792年)春から文政5年(1822年)5月まで31年に渡って記されており、この時代の貴重な資料となっています。
◆SEKAI NO◆
◆OWARI◆
【続く】
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