【つの版】度量衡比較・貨幣240
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

◆鎌◆
◆倉◆
源平合戦
寿永2年(1183年)7月に上洛した木曽義仲は後白河院を奉じて畿内を制圧しますが、次第に後白河院と対立し、11月には幽閉してしまいます。さらに頼朝追討の院宣を出させたため、頼朝は義仲を討伐すべく弟範頼と義経を遣わしました。義経は11月には近江にいましたが手勢が少なく、東国から大軍を率いて来た範頼と合流し、瀬田へ進軍し義仲と北陸との連携を絶ちます。
範頼は西へ進んで勢多橋を守る今井兼平と対峙し、義経は別動隊を率いて宇治に向かい、南から京都を攻撃します。この時に佐々木高綱は義経の軍勢に加わっており、橋が落とされていたため馬を宇治川に乗り入れて先陣を切ったといいます。義仲の軍勢はすでに少なくなっていて防ぎきれず、義仲はついに京都を捨てて北陸へ逃げようとし、今井兼平と合流して瀬田に向かいました。範頼はこれを待ち構え、勢多橋の手前の粟津で包囲します。
義仲は巴御前を離脱させ、今井兼平とともに粟津の松原へ向かいますが、馬の脚を深田に取られて動けなくなり、顔に矢を受けて討死しました。兼平はすぐさま後を追って自害し、木曽義仲の勢力は壊滅したのです。京都を制圧した範頼と義経は後白河院を解放し、摂津国に集結していた平家の軍勢を討伐するよう命じられ、2月に一ノ谷の戦いでこれを打ち破ります。朝廷は4月に元暦と改元しますが、平家の勢力はまだ瀬戸内海・四国・九州を抑えており、隙を突いて京都を奪還しようと目論んでいました。
元暦元年(1184年)7月、伊賀・伊勢に潜伏していた平家の家人の平田家継・平信兼・伊藤忠清らが挙兵し、伊賀守護の大内惟義の郎従を多数殺害しました。さらに伊賀国に隣接する近江国甲賀郡にも攻め込み、73歳の老将佐々木秀義は五男の義清とともに鎮圧に赴きます。この戦いで平田家継は討ち取られたものの、秀義も流れ矢に当たり討死しました。残党は伊賀・伊勢へ撤退し、源義経らに討伐されています。
嫡男の定綱が家督を継ぎ、父の仇となった平家を討伐するため弟たちとともに奮戦します。秀義の三男盛綱は同年12月に備前国児島郡藤戸(現岡山県倉敷市藤戸町)で平家軍と戦い、浅瀬を馬で押し渡って敵軍の籠る児島に攻め込み勝利を収めたといいます。
近江守護
翌年壇ノ浦の戦いで平家が滅ぶと、佐々木定綱は近江・石見・隠岐の守護に、弟の高綱は備前・長門の守護に、経高は淡路・阿波・土佐の守護に任じられましたが、盛綱と義清には守護職は授けられていません。とはいえ兄弟3人で8か国の守護を兼ねたのですから、相応の所領は授かっていたでしょう(守護代になったかも知れません)。また高綱は安芸・周防・因幡・伯耆・出雲・日向にも恩賞地を拝領しています。文治5年(1189年)の奥州合戦には盛綱・義清も参戦しました。
しかし建久2年(1191年)3月下旬、近江国の佐々木荘に延暦寺の傘下にある日吉社の宮仕数十人が神鏡を奉じて押し寄せ、千僧供料(寺への年貢)を貢納する義務を遂行せよと迫ります。前年の水害による不作で未納だったのを取り立てに来たのですが、佐々木定綱は在京中で留守でした。そこで宮仕らは定綱の屋敷に乱入し、家中の男女に暴行を加え、放火に及びます。これに怒った定綱の次男定重は郎従に命じて反撃させ、神鏡を破損させました。
激怒した延暦寺の衆徒は定綱父子の身柄引き渡しを朝廷と後白河院に要求し、強訴を起こして死罪を求めます。驚いた頼朝は梶原景時らを派遣して交渉させますがうまくいかず、後白河院が定綱父子らを流罪にするという院宣を出してなんとか収めました。これにより定綱は薩摩、長男広綱は隠岐、定重は対馬、定高は土佐へ配流されますが、衆徒は不服として暴動を起こし、頼朝はこれを鎮めるために定重を配流の途上で斬首させ、衆徒に引き渡したといいます。定綱らは2年後に許されて帰国したものの、延暦寺の横暴に屈したことで頼朝と定綱の面子は丸つぶれとなりました。
正治元年(1199年)1月に頼朝が没すると、佐々木経高は翌年7月9日に淡路・阿波・土佐の軍を京に集めて警戒したため、後鳥羽院の怒りに触れて三国の守護職を解任されます。経高は2年後に出家して経蓮と称し、鎌倉殿を継いだ頼家から赦免され、翌建仁3年(1203年)10月には勅命を奉じて一族とともに近江国八王子山に籠った比叡山衆徒を討伐しています。この戦いで高綱の嫡男重綱が戦死しますが、佐々木氏は積年の恨みを果たしました。
その後も佐々木定綱は幕府の重鎮として活躍し、元久2年(1205年)4月に64歳で没しました。嫡男の広綱が家督を相続し、近江守護に任じられますが在京して朝廷や院を守護することとなります。盛綱は出家して西念と称し、没年は不明ですが建仁の乱や牧氏事件の鎮圧にも活躍しています。高綱は建保2年(1214年)信濃国筑摩郡で没し、義清は鎌倉で御家人として頼家・実朝に仕えました。
承久3年(1221年)5月、後鳥羽院は鎌倉幕府を牛耳る北条義時を「朝敵」と宣言し、全国の武家に義時追討を命じました。佐々木広綱は叔父の経高とともに呼びかけに応じて官軍に加わり、幕府京都守護の伊賀光季を討伐し、京極高辻にあった彼の館を賜ります。しかし官軍が敗北すると幕府軍に捕縛されて処刑され、経高は恐れをなして自害しました。
佐々木広綱には4人の男子がいましたが、嫡男継綱は戦死しており、次男と三男は行方不明となり、末子の勢多伽丸は仁和寺にいましたが父に連坐して処刑されています。定綱の四男信綱は北条義時の娘婿で、承久の乱に際しては幕府軍に加わり、宇治川の戦いで先陣を切る活躍を見せました。広綱とその子らが処刑された後、信綱は功績によって佐々木荘などを賜り、佐々木氏の家督を相続し、近江守護・近江国司に任じられました。これより信綱の子孫が佐々木氏嫡流となります。
定綱の弟義清は、承久の乱の後に隠岐・出雲両国の守護職を授かり、後鳥羽院が隠岐へ流された時に供奉して下向しました。ほどなく鎌倉へ戻りますが、守護職に加えて出雲・隠岐両国の国司の官位も授けられています。のち嫡男の政義が両国守護職を譲られ、彼が無断で出家すると弟の泰清が相続しています。また高綱の子光綱は義清の娘婿となって出雲国能義郡に下向し、泰清とともに出雲源氏の祖となりました。義清はその後も長生きし、『吾妻鏡』には宝治元年(1248年)末を最後に登場しなくなりますが、この頃には数え88歳に達していたと思われます。
六角京極
佐々木信綱には、嫡男重綱、次男高信、三男泰綱、四男氏信がいました。重綱と高信の母は川崎為重(渋谷重国の親戚)の娘でしたが、泰綱と氏信の母はおそらく北条義時の娘でした。各々の生年と諱から見るに、泰綱は北条義時の子で執権の泰時から、氏信は泰時の妹を娶った足利義氏から偏諱を賜っており、後ろ盾として申し分ありません。重綱は為重、高信は高綱から偏諱を授かったのでしょう。それに川崎為重は比企の乱で北条氏に背いて滅んでいますから、その子孫では北条氏から疑われます。

このため信綱は天福2年(1234年)に出家するにあたり、三男泰綱に家督と京都頂法寺六角堂近くの邸と江南6郡(神崎・蒲生・野洲・栗太・甲賀・滋賀)を、四男氏信に東京極の邸と江北6郡(高島・伊香・浅井・坂田・犬上・愛智)を譲り、重綱には坂田郡大原庄(現滋賀県米原市の一部)、高信には高島郡田中郷(現高島市安曇川町)しか与えませんでした。仁治3年(1242年)3月に信綱が没すると、翌年重綱は泰綱に訴訟を起こし、幕府は泰綱にある程度所領を割譲させましたが、家督はそのまま泰綱とその子孫が相続することとなりました。
これにより佐々木氏は複数の家に分裂し、重綱の子孫は大原氏、高信の子孫は高島氏、泰綱の子孫は六角氏、氏信の子孫は京極氏と呼ばれることになります。また高島氏からは永田・朽木・平井・横山などの分家が生じ、高島郡各地に豪族(国人衆)として割拠することとなりました。六角氏は宗家として近江守護職を世襲したものの、各分家はそれぞれ幕府直臣となったため近江一国をまとめることは叶わず、延暦寺など有力寺院との対立関係も解消されませんでした。
佐々木秀義―定綱―広綱
経高 信綱―重綱(大原氏)
盛綱 高信(高島氏)
高綱 泰綱(六角氏)
義清 氏信(京極氏)
京極道誉
京極氏信の曾孫にあたるのが、足利尊氏の腹心となった京極高氏です。彼は傍流から養子に入って京極氏の家督を相続し、足利高氏(尊氏)と同じく北条得宗家(本家)当主の高時から偏諱を賜り、御相伴衆として仕えていました。正中3年(1326年)高時が病気のため執権職を辞して出家すると、京極高氏もともに出家し導誉/道誉と号しました。足利高氏が幕府から後醍醐天皇に寝返って京都の六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を攻撃するとこれに従い、討幕のために参戦します。
六波羅探題の北条仲時と時利は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしますが、近江国坂田郡の番場峠(現米原市番場)で数千人もの野伏に襲撃されます。坂田郡は京極氏の所領ですし、彼らは道誉が差し向けたとも推察されます。やむなく仲時らは番場の蓮華寺に天子や院を入らせた後、一族郎党ともども自刃したといいます。佐々木氏の中でも出雲守護の塩谷高貞らは後醍醐天皇に味方しており、佐々木氏嫡流の六角時信も道誉を介して降伏しました。これより道誉は足利高氏改め尊氏に仕え、南北朝の動乱を戦っていくこととなります。
◆逃◆
◆若◆
【続く】
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