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【つの版】日本刀備忘録89:本阿弥家

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本刀は単なる武器ではなく、由緒ある家に代々伝わる宝物、美術品でもあります。その価値を定めるのは切れ味のみならず、姿かたちの美しさ、作られた時期の古さ、刀工の名声、伝わる家の高貴さ、纏わる伝説の有名さなど、多くの判定基準があります。それらを踏まえて刀剣を鑑定し、等級を定め、真贋の判定を下していたのが本阿弥家です。

◆刀◆

◆剣◆


本阿弥家

 本阿弥家の始祖は「妙本」といい、家伝によれば鎌倉時代の菅原氏流高辻家の公卿五条高長(1208-85年)の老年の庶子で、高長の嫡男の長経の子秀長の弟と称し、諱を長春といいました。のち日蓮宗の僧侶日静(足利尊氏の母方の叔父、1298-1369年)に帰依して出家し、妙本阿弥陀仏(妙本阿弥)と名乗り、尊氏に仕えて同朋衆(側近の茶坊主)となりました。そして尊氏から「刀剣奉行」を仰せつかり刀剣の研磨・浄拭・鑑定を行うこととなり、文和2年(1353年)100余歳で没したといいます。日蓮宗の僧侶から得度を受けて時宗系の阿弥号を名乗るのも妙ですし、箔付け話でしょう。また没年を文安元年(1444年)とする説もあり、90年以上も没年が異なります。

 安政3年(1856年)に刊行された『古今鍛冶銘』によると、妙本は同朋衆の順阿の従兄弟で、もと妙本阿弥仏と名乗っていましたが、いつしか前後の名をとって家名とし「本阿弥」と名乗り始めたといいます。そののち本妙、妙大、妙秀、妙寿と続きましたが、妙寿の門弟に松田右衛門三郎清信がおり、鑑刀の技に優れていました。妙寿には男子がなかったので清信を娘婿とし、清信は本阿弥家第六代として「本光」を名乗ったといいます。

 松田氏は桓武平氏の末裔で、鎌倉時代には六波羅奉行人、室町時代には幕府評定衆に列しています。また本光は足利義教と昵懇であったとも伝えますが、義教は嘉吉元年(1441年)に暗殺されているため、妙本の没年が文安元年とすると年代が合いません。さらに第七代とされる本阿弥三郎兵衛光心は永禄2年(1559年)に没したとされ、義教の没年より118年も後になります。推察するに初代妙本は足利尊氏ではなく義教に仕えた同朋衆であり、本光はその100年後の人物ということになります。

妙本―本妙―妙大―妙秀―妙寿―本光―光心

 江戸時代前期に編纂された『老人雑話』によると、足利義教は長8寸7分(約33cm)の粟田口国吉の短刀を帯びていましたが、義教が赤松邸に招かれた時、ひとりでに刀身が鞘から抜け出すことが2回に及びました。これは刀が危険を知らせたものでしたが、義教は気づかず立腹し、刀を準備した本阿弥を投獄しました。間もなく義教は赤松邸で暗殺され、本阿弥は獄中で日蓮宗の僧侶・日親に出逢って改宗し、名を「本光」と改めたといいます。

 これは後世の伝説でしょうが、その時の短刀とされる「抜国吉」は安宅摂津守冬広に伝わり、本阿弥光心が鑑定して押形(墨を塗って紙に写し取る)をとりました。のち冬広が松永弾正の刺客に討たれると織田信長の手にわたり、ついで秀吉の手にわたりましたが没後は行方不明になりました。秀吉はともかく義教・冬広・信長の横死を防ぐことはできませんでしたから、不吉の刀と言えます。

光心刹徳

 本阿弥光心は、弘治2年(1556年)の奥書のある押形集(刀剣鑑定書集)を遺しています。これには上述の「抜国吉」を含め20振りの名刀が列挙されており、三好長慶・松永弾正・石黒甚右衛門など所有者の名前もある程度は記されています。うち半数は「名物」と呼ばれていますが、この呼び名はもともと天皇や将軍ら貴人が所有していた茶器などの「御物」のことです。

 光心の子・又三郎光刹は永正13年(1516年)に生まれ、永禄2年(1559年)に父が没すると跡を継ぎました。光刹は「池田三左衛門(輝政)に推挙されて秀吉に仕え、刀剣極所(鑑定所)の免許を授かった」と伝えられますが、彼は本能寺の変の前年の天正9年(1581年)9月に64歳で没しており、信長が存命なのに秀吉が勝手に免許を出すとも思われません。光心の子らには他に光意、光政、光与らがいます。

 光刹の子が光徳(諱は幸忠/益忠、1554-1619年)です。父が没した時には数え27歳ほどで、のち天下人となった秀吉に仕えました。秀吉は彼を刀剣極所の長とし、銅印を授けて折り紙(鑑定証書)の裏に捺印させました。また山城国乙訓郡築山村、同久世郡中村の両所に知行257石を賜り、同国砥石山を拝領してその運上を収めたといいます。砥石は刀剣の研磨に不可欠ですから、それを産出する山を授かったのでしょう。

 光徳は秀吉や諸大名の所有する刀剣を鑑定し、磨り上げされて無銘の刀には金で鑑定銘を象嵌しました。また刀工を国別に挙げた銘鑑『日本鍛冶集』や、秀吉が蒐集した名物を記載・列挙した『太閤御物刀絵図』などを編纂して後世に伝えていますが、後者には記載内容の異なる五冊が存在します。信長が茶器を褒美や贈答品としたように、秀吉は刀剣に価値を与えて褒美や贈答品とし、それを司る本阿弥家に自らの名で権威を授けたのです。

 執権北条氏の重宝で、足利将軍家に伝来した太刀「鬼丸国綱」は足利義昭が所持していましたが、天正15年(1587年)毛利輝元とともに上洛した際、秀吉に献上されました。秀吉はこれを光徳に預けて保管を命じましたが、大坂の陣に際して光徳は子の光室とともに徳川家康の陣へ赴き、鬼丸国綱を献上しました。家康は「そのまま預かっていよ」と命じ、大坂の陣の後に光室らを江戸に召し出し、知行に加え50人扶持を授けて江戸に住まわせたといいます。本阿弥家はその後も刀剣極所の職務を世襲し、5年に1度は京都に戻り朝廷の御用もつとめることとなりました。

光二光悦

 本阿弥光心の娘・妙秀は片岡次郎左衛門清忠(1522-1603年)に嫁ぎました。清忠の父は応仁の乱の頃に京都所司代をつとめた多賀高忠の子、母は妙寿の二女で、清忠は光心の従弟にあたります。このため光心の婿養子として光二と名乗りますが、実子がいるため分家となり、その子孫は本家と並び栄えました。光二は永禄年間に今川義元に仕え、駿府で人質になっていた松平竹千代(徳川家康)や、越前府中領主であった頃(天正3年/1575年以後)の前田利家と交流があり、のち信長に仕えたといいます。やがて前田利家が出世するとこれに仕えて200石を授かり、慶長8年(1603年)に没しました。

 この光二の子が、数寄者(芸術家)として名高い光悦(諱は清友)です。彼は永禄元年(1558年)に京都で生まれ、父が没するとその扶持を継承して加賀前田家に仕えました。光悦の姉の法秀は染物屋の尾形道柏(尾形光琳・乾山の曾祖父)に嫁ぎ、妹の妙光は本家の光徳に嫁ぎました。光悦も本家から光刹の娘・妙得を娶りますが、慶長6年(1601年)に死別し、継室が生んだ嫡男の徳善も元和9年(1623年)に没したため、従兄弟の片岡次郎左衛門を養子としています(本阿弥光瑳)。

 光悦は家業である刀剣鑑定・研磨・浄拭を行い、押形も残していますが、現存する光悦の書状の中には刀剣について触れたものは乏しく、書・陶芸・漆芸・能楽・茶の湯などに携わった数寄者として名を残しました。茶の湯は古田織部に、陶芸は楽焼の田中常慶に学び、書は光悦流の祖となり、漆芸では螺鈿や鉛・銀などを用いた光悦蒔絵を創始しています。元和元年(1615年)には徳川家康より洛北鷹峯の地を拝領し、元和5年(1619年)一族や町衆、職人など100名を率いて移住し、芸術村「光悦村」を築き上げました。

 本阿弥光悦は寛永14年(1637年)この地で没し、養子の光瑳も同年に没したため、その子・光甫が跡を継ぎました。光二系の本阿弥家も養子をもらいながら本家と並んで栄え、明治時代以後も存続しています。

◆刀◆

◆剣◆

【続く】

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