【つの版】日本刀備忘録50:応仁之乱
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
室町幕府の実権を巡り、細川勝元と山名宗全は対立関係に入ります。両者は自らの派閥に属する大名や国人に招集をかけ、京都に多数の軍勢を集めて睨み合いました。将軍・足利義政にも朝廷にもこれを止めることはできず、ついに京都ばかりか天下を二分する大乱が勃発することとなります。

◆末◆
◆法◆
京都炎上
応仁元年(1467年)5月26日早朝、播磨・若狭・伊勢・越前で両軍の衝突が始まる中、京都で合戦が勃発します。将軍・足利義政がいる花の御所(室町第)の隣に西軍の一色義直の屋敷がありましたが、まず東軍の武田信賢・成身院光宣・細川成之がこれを奇襲しました。義直は堀川の西(西陣)の山名宗全の屋敷へ逃げ、東軍は室町第と義政の身柄を確保します。
これに対して西軍の斯波義廉らは堀川の西にあった細川勝久の屋敷を襲撃し、救援に来た東軍の京極持清・赤松政則らと戦い、勝久を匿った成之の邸にも攻め寄せます。義政は28日に命令を出して両軍を停戦させ、伊勢貞親に上洛を呼びかけて乱の収束につとめようとします。しかし勝元は6月3日に義政に要請して将軍家の牙旗(軍旗)を東軍に下させ、義政の弟で後継者である義視を総大将に立てました。東軍が室町幕府の官軍となった以上、これに逆らう西軍は逆賊・賊軍ということになります。
義政からの降伏勧告を受けた西軍は動揺し、勢いに乗じた東軍は堀川の西の斯波義廉邸まで攻め込み、恐れた義廉らは一時降伏の意向を示します。しかし斯波氏宿老の朝倉孝景は東軍に徹底抗戦し、義廉も彼には逆らえず、戦いを継続することとなりました。また6月中旬には大和から古市胤栄、紀伊から畠山政国が西軍の援軍に駆けつけ、7月下旬には大内政弘・河野通春らが大軍を率いて摂津に上陸し、西軍は勢いを回復します。
対する東軍では、義政に呼び戻された伊勢貞親と足利義視が再び対立し、8月下旬に義視が伊勢に出奔してしまいます。大内政弘は彼と入れ替わるように上洛して船岡山に布陣、河内から駆けつけた畠山義就も合流、西軍は下京(京都南部)を制圧します。上皇・天皇は室町第に避難し、義政は再び両軍に停戦を呼びかけますが聞き入れられず、義就は13日には内裏を制圧しました。東軍の浦上宗則らは摂津から北上するも下京には入れず、東寺を経由して東山方面から東軍本陣を目指し、西軍の襲撃を受けつつ合流に成功します(東岩倉の戦い)。しかし東軍は上京北東部に追い詰められ、西軍は勢いに乗じ東軍本陣へ攻めかかります(相国寺の戦い)。
一連の戦いでは放火が戦術として行われたため、京都市街地は延焼を受けて焼き払われ、南禅寺・青蓮院・相国寺などは灰燼に帰し、室町第も焼け崩れます。東軍はなんとか持ちこたえたものの、西軍は相国寺跡等に布陣して東軍を威圧し、朝敵・賊軍でありながら優勢となりました。
この戦いで活躍したのが「足軽」と呼ばれる雑兵です。南北朝時代に悪党の活動が活発化し、集団戦闘が一般化すると、騎馬武者よりも安上がりな戦力として各地で雇い用いられました。装備は種々雑多で半裸軽装、奇襲や放火を得意とし、カネや食糧次第で寝返る危険な連中で、京都市街地では混乱に乗じて民家や寺社を襲撃し、暴行と掠奪をほしいままにしました。細川勝元は多賀高忠の家来であった骨皮道賢という足軽大将を雇って伏見稲荷に遣わし、西軍の背後で放火や撹乱を行わせましたが、彼は応仁2年(1468年)3月に西軍の包囲を受け、討ち死にしています。
戦線膠着
応仁2年(1468年)にも両軍は京都での市街戦を継続しますが、戦闘は次第に伏見・鳥羽・山科・嵯峨・西岡など洛外(京都の外)へと移行していきます。また東軍は官軍である強みを活かして各地の領国の争奪戦を優位に進めており、山名宗全は赤松氏に播磨・備前・美作を制圧され、北陸や伊勢でも東軍が優勢となります。そこで斯波義廉は関東の古河公方・足利成氏に和睦を持ちかけ、その功績で義政を味方につけようと図りました。
この提案には山名宗全と畠山義就も同意し、連名での書状が古河に送られましたが、義政は「上に相談もなく独断で和睦を図った」として7月に義廉を管領から罷免し、細川勝元を再び管領に任命しました。さらに斯波氏の家督と越前・尾張・遠江の守護職も剥奪し、義敏に家督を、義敏の子の松王丸に3ヶ国の守護職を改めて与えます。義廉はこの決定に逆らい管領・3ヶ国守護を名乗り続けたものの、大義名分の上ではますます不利となりました。
一方、京都を出奔して伊勢に滞在していた義視は義政や勝元の説得により9月に東軍へ帰参します。しかし義政は義視の政敵である伊勢貞親を政務に復帰させ、義視を跡継ぎから外して実子・義尚を擁立しようと図ります。勝元も義視を支持せず出家を勧めたため、義視は再び出奔して比叡山に登りました。これに目をつけた西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れ、義政に代わる新たな将軍として擁立します。室町幕府は東西に分裂したのです。
激怒した義政は朝廷に働きかけて義視や側近の官位を剥奪させ、朝敵として追討する旨の綸旨を出させますが、朝廷にも幕府にも密かに西軍に通じる者は多く、天下を二分する大乱は膠着状態のまま続くことになります。応仁3年(1469年)4月には戦乱により「文明」と改元されますが、なおも戦乱は収まりませんでした。大内政弘は大軍を率いたまま山城国にとどまり、洛中洛外には盗賊が跋扈し、焼け野原となって荒廃していきます。
西軍は足利義視を新将軍としたものの、院や天子は東軍側におり、朝敵の認定を取り消すことはできないままでした。そこで文明3年(1471年)には山名宗全が南朝の後裔という小倉宮を新たな天子(新主)に擁立します(西陣南帝)。幕府ばかりか朝廷までもが東西に分裂したのです。
同年5月、斯波義廉の宿老である朝倉孝景が、幕府より越前守護代に任じられることを条件として東軍に寝返ります。これにより東軍の優位は決定的となり、関東では足利成氏が一時古河城を追われ、西軍に協力するどころではなくなります。文明4年(1472年)から勝元・宗全の間で和議交渉が開始されますが決裂し、両者は文明5年(1473年)に相次いで世を去ります。伊勢貞親も同年に近江朽木で没し、戦乱は収束に向かい始めました。
大乱終焉
文明5年末、義政は嫡子・義尚に将軍職を譲ります。10歳にも満たぬ少年ゆえ実権は義政にあり、母の日野富子、その兄の勝光、伊勢貞親の子で政所頭人の貞宗らが政務を執りました。畠山政長は一時的に管領に復帰しますがすぐ辞任し、以後6年ほど管領は不在となります。
山名宗全の跡を継いだ孫の政豊は、細川勝元の跡を継いだ政元(数え8歳ゆえ分家の政国が後見)との和議交渉を行い、文明6年(1474年)4月に和睦が成立します。一色義直も丹後の所領の返還を条件に東軍に帰順しますが、西軍の畠山義就・大内政弘・土岐成頼・斎藤妙椿、東軍の赤松政則らは和睦に応じず、戦いはなお数年続きました。
文明7年(1475年)2月、越前を巡って朝倉孝景と争っていた甲斐敏光(常治の子)が上洛して義政に謁見し、東軍に降伏して遠江守護代に任じられ、斯波義敏・義良(松王丸)に服属します。孤立した義廉は同年11月に京都を立ち去り、尾張守護代の織田敏広に身を寄せました。文明8年(1476年)9月には義政から大内政弘へ御内書を送り、12月には義視が義政との和睦に応じます。主戦派の畠山義就は文明9年(1477年)9月に河内へ去り、11月に大内政弘が義政・義尚に恭順、4ヶ国の守護職を安堵されて撤収します。
能登守護の畠山義統も京都の邸宅を焼き払って帰国の途につき、美濃守護の土岐成頼と斎藤妙椿は足利義視・義材らを伴って美濃へ戻り、西軍は消滅します。諸将に置き去りにされた西陣南帝は鞍馬山へ逃げ、東海・北陸などを放浪した末に行方知れずとなりました。幕府では「天下静謐」の祝宴が催され、翌文明10年(1478年)には義視・義材・成頼も赦免されますが、畠山義就は文明18年(1486年)に赦免されるまで政長と戦い続けています。
かくて応仁の乱は終結したものの、京都は焦土と化して荒廃し、戦乱を10年以上も止められなかった朝廷や幕府の権威は著しく失墜しました。また京都に屋敷を置いて幕政に関わってきた多くの守護大名が領国へ立ち去り(守護在京制の崩壊)、国内や隣国の敵対勢力と相争うこととなり、朝廷や公家や幕府への年貢・段銭の上納も滞ります。さらに斯波氏や畠山氏らは御家騒動で守護権力が弱体化し、守護代や家臣団・国人衆への統制を失っており、領国に対する実権を家臣に奪われる(下剋上)状況となります。そして京都からは武家のみならず、荘園を押領され没落した公家や、戦火で家を失った庶民も地方へ流出し、京都文化が地方に伝播することとなります。
焼け野原になったのは公家や大名の屋敷があった上京で、下京は西軍に制圧されたものの比較的被害が少なかったため、戦後復興は下京にいた商工業者が上京に動く形で進みました。西軍の陣地跡(西陣)には絹織物の職人が進出し、「西陣織」というブランドを生み出しています。
とはいえ、西軍を消滅させ戦乱を一応終わらせた室町幕府は、なお一定の権威を持っていました。関東管領の上杉氏が内紛で混乱する中、文明10年(1478年)には足利成氏と上杉氏の、文明14年(1483年)には成氏と幕府との和睦が成立します。堀越公方の足利政知は伊豆一国の領主とされ、成氏は正式な鎌倉公方(鎌倉殿)として幕府に改めて承認されました。ここに28年続いた享徳の乱も終結したのです。しかし上杉氏の内紛は収まらず、関東の戦乱はその後も100年以上にわたって継続することとなります。
足利義政は義尚に将軍職を譲った後、文明14年から京都の東山に山荘を造営し、ここに移り住んで優雅な隠居生活を送りました。造営費用は守護大名や庶民に供出させ、日明貿易で得たカネも注ぎ込まれています。また正室の日野富子は京都各地に関所を設けて関銭を徴収し、将軍の母として権力を握りました。長享5年/延徳元年(1489年)に義尚が、延徳2年(1490年)に義政が、延徳3年(1491年)に義視が相次いで世を去ると、将軍権力は弱体化し、細川勝元の子・政元が管領として畿内を支配することとなります。
室町幕府はなお存続しますし、戦国時代の始まりをどこに求めるかも諸説ありますが、きりがいいので室町中期編はここまでとします。次回からはインデックスも新しくし、久しぶりに刀剣の話に戻るとしましょう。
◆刀◆
◆剣◆
【続く】
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