花にあらし
後輩が退職した。
「家庭の事情で」と聞くと、まるで体面のいい退職理由のようだが、彼の場合は本当にのっぴきならない事情があった。
退職すると報告にきたとき、後輩の表情はくしゃくしゃに歪んでいた。
「お世話になりました」と「色々教えてもらったのに」を交互に繰り返し、何度も目元を拭っていた。
私はおろおろと見守ることしかできない。 大変だったね。
倒れるまえに決断できてよかったじゃん。
色々相談して決めたならそれが一番だよ。
ぜんぶ軽薄すぎる気がして言うのをやめた。もはや「気にしないで」と返すことさえ負担になりそうだった。
散らかったデスクの横でぺこぺこと頭を下げあい、担当業務に戻っていく。
帳簿を打ち込む慣れた手つきの裏で、自分はうまく先輩をやれていたのか、と問いつづけていた。
後輩が入社してきたのは一昨年の春。
はたから見てもわかるほど焦って仕事に取り組む彼は、とても礼儀正しくて素直で、周囲の先輩たちにも可愛がられていた。
昨年の春に私が異動するまでの一年間、指導係として気に掛けていたけれど、特別に何かしてあげられたという実感はあまりない。基本業務と雑務を教えたあとは「何かあれば聞いてね」と放っておくことも多かった。
だからどこか責任とも自責ともつかないものを感じていたのかもしれない。自分がもっと気に掛けてあげれば、後輩は今より余裕をもって仕事ができたのではないか、と。
思い上がりもいいところだ。
急速に頭が冷えていく。その時の自分にやれることはやったはず。彼の選択は彼のもので、他人が自己弁護のために私物化していいものではない。私にできるのは、最終出勤日に気持ちよく後輩を送り出してあげること。そう言い聞かせた。
最後の日はいつもより忙しかった。
時短勤務の私は時計を睨みながら、ばたばたと書類を片付けてカバンを掴む。「お先に失礼します!」周囲に頭を下げ、オフィスの出口に向かう途中、後輩の席の近くを通りかかった。
彼は目が合うと、また申し訳なさそうな表情で頭を下げた。
最後くらい笑えよ。まぁ無理か。
だから、何も言わずに笑って手を振った。「楽しかったよ」も「お疲れさま」も直接言うと負担になりそうだと思った。でも少し格好つけすぎたかもしれない。少しでも伝わっていたら、と思う。思いながら、時間に押し流されるように会社をあとにした。
翌出勤日にパソコンを起動すると、社内チャットに後輩からメッセージが届いていた。
『短い期間でしたがお世話になりました』
『助けてもらってばかりでした』
『ずっと先輩の言葉遣いを参考にしてて』
『電話応対ができるようになったのは先輩のおかげです』
ゆっくりと二度読み返し、画面を閉じた。
なに食わぬ顔で帳簿の入力を始める。マスクで隠して口をすぼめた。
誰かにもらった文章をこんなに嬉しく思ったのは、随分と久しぶりのことだった。
ねえ、これ私が帰ったあとに送ってくれてるじゃん。わざわざ時間使わなくてよかったのに。いい奴すぎるよ。
それに入社して一ヶ月もしないうちに、他の先輩たちとめちゃくちゃ仲良くなってたじゃん。あれ、結構びっくりしたからね。ド陰キャの私とは大違い。
あのさ、君は自分が思っているよりもずっと頑張ってたんだよ。
電話応対も私のおかげじゃないんだよ。上手くなろうとして、君がちゃんと頑張ったからできるようになったんだよ。
だから次のところでも頑張れるよ。
久しぶりに後輩ができて楽しかった。元気でね。メッセージありがとう。
もう届くことのない返事を、そっと宙に投げた。
この文を、退職祝いとしてここに置く。
後輩がどこかで元気にしていますように。
本記事はこちらの企画に参加しています。
