宮脇俊三と行く?【北海道&東日本パス】のたび
午前5時の東京駅。
まだ街が自らの意志で動き出す前の、
巨大なコンクリートの抜け殻のような時間。
カゴに入ったおもちゃのように、
文化地理学の巨頭たちは、早くも案内板の前で遭難していました。
👓 サウアー教授 「なるほど……。この『東日本・北海道パス』という紙切れは、巨大な空間を強引に同一平面上にマッピングするための、きわめて行政的な装置だな」
👓 レルフ教授 「いや、問題はこの『5時集合』という非人間的な時間設定だ。人間が場所に対する愛着(トポフィリア)を形成する前に、精神を記号化させていく、プレイスレスネスの極致がここから始まる」
📖 トゥアン教授 「しかし、まだ誰もいないホームに滑り込んでくる始発電車のライトを見てごらんなさい。あの光が、無機質な空間(Space)を、いま確実に私たちの旅の場所(Place)へと書き換えている……!」
彼らがそんな議論を始めた瞬間、コートの襟を立てた宮脇先生が、少し眠そうな、しかし実に嬉しそうに微笑みながら、胸のポケットから何やらカードを取り出しました。
宮脇先生 「皆さん、早朝からそんな大声で議論していては、駅員さんや他のお客さんの迷惑になります。 今日は皆さんを『隔離された聖域』へご案内しましょう。 実はね、ビューカードのJREポイントが、使い切れないほど貯まっておるんですよ。 これを普通列車グリーン券に換えれば、全員静かに移動できます」
千鶴(目を丸くして) 「えっ、宮脇先生、ポイントで全員分のグリーン券を? ……ちょっと、そこの学者3人、先生に感謝しなさいよ。 さあ、山手線で上野へ移動します。 サウアー先生、そっちは内回り! 一周に50分以上かかるからダメだって! レルフ先生、中央線じゃない! なんで1・2番ホーム行エスカレーターに乗るの、こっち!」
凛々子 「トゥアン先生も柱の陰で風を感じてないで、早く! 5時32分発の宇都宮行きに遅れちゃいます!」
5時32分、上野駅15番線ホームから
吉本新喜劇よりドタバタしながら上野駅の低い地平ホームへと滑り込んだ一行は、4号車・5号車のグリーン車へと吸い込まれていきました。 階段をトントンと上がり、まだ数人のお年寄りが静かに座っている2階席の、ホールド感のあるリクライニングシートに収まります。
宮脇先生が全員の頭上の座席ランプに、6枚のSuicaを順番にタッチしていくと、ランプが赤から「緑」へと鮮やかに変わりました。
千鶴(声を潜めて) 「はぁ……助かった。 ここはお金を払って――いえ、先生のポイントで『静寂』をいただいた空間なんですから、3人とも絶対に大きな声を出さないでくださいね」
👓 サウアー教授(声をひそめながら) 「ふむ……。普通列車の頭上に、これほど快適な1等車という、2層構造の空間(階上席)が乗っかっているとは。 これは通勤ラッシュという『過酷な景観』を生き抜くために、日本人が編み出した高度な空間階層化の知恵だな」
👓 レルフ教授 「いや、これは現代のプレイスレスネスの象徴に見える。 階下の座席という『リアルな地表面』から物理的に数メートル浮き上がったこの場所は、まるで飛行機の客室のようだ。 土地との結びつきが希薄になっている」
凛々子(窓の外を眺めながら) 「でも先生。 この2階席からの眺めは、普段の電車の窓より少し高いでしょう? 防音壁の向こう側にある民家の2階や、庭の木々の梢がちょうど目線の高さに飛び込んでくる。 これって、新しい風景の『覗き方』だと思いませんか?」
📖 トゥアン教授(深くうなずいて) 「素晴らしい指摘だ、凛々子くん。数メートル高くなっただけで、世界との距離感を『親密(Intimate)』に書き換えている。 これは空間の疎外ではなく、新しい視覚の獲得だよ」
宮脇先生はシートを1ノッチだけ倒し、静かにロング缶のプルトップを起こしました。 グリーン車にふさわしく、少しだけ上品な、しっかりとアルコール度数のあるエビスです。
宮脇先生 「学者の皆さんは空間を分類するのが商売です。 でもね、新幹線よりは低いけれど、普通の電車よりは少し高いという『2階の特等席』から眺める関東平野が大好きなんですよ。 あそこに、朝早くから犬の散歩をしている人が見えるでしょう。 あの人は、まさか自分の生活が、5時32分上野発の2階席から覗かれているなんて思っていない。 『無関係な2つの人生』が、時速100キロ弱で一瞬交差する。 これが旅です」
1時間40分の重み
列車は尾久を過ぎ、赤羽を越え、大宮を出てからが、この宇都宮線の本当の「重さ」へと突入していきます。 蓮田、久喜、古河、小山……。 新幹線ならわずか数秒で通り過ぎる駅名が、ひとつひとつ、じっくりと車窓に刻まれていく。 上野から宇都宮まで、たっぷり1時間40分。 現代人には最も耐えられない「何も起きない時間」が、ゆっくりと流れていきます。
千鶴が時計を見ながら、シートに深く身体を沈めました。
千鶴 「大宮を出て15分も走ってるのに、まだ蓮田よ。 宇都宮なんて、まだまだ先。 スマホで動画でも見ようかと思ったけど、この2階席からぼんやり外を眺めているだけで、時間が引き延ばされている…、スマホの画面を見るのが馬鹿馬鹿しくなってくるね」
👓 レルフ教授 「まさにそれだ、千鶴くん。 現代の『速すぎる移動』は、出発地と目的地以外のすべての場所を無意味な空間(スペース)に変えてしまう。 しかし、この1時間40分という絶妙な速度は、車窓に映る田畑や、時折現れる郊外のロードサイド店舗、プレハブの工場といった『普通の場所』に、固有の文脈(プレイス)を与えている」
👓 サウアー教授(熱心に窓の外の農地を指差しながら) 「見給え、あの平地林の残り方、そして新興住宅地が虫食い状に侵食していく関東平野の『文化景観』の変遷。 これは15分や20分の移動ではおそらく捉えきれない。同じような、しかし確実に変化していく土地の表情を凝視し続けて初めて、人間が土地に刻んだ歴史の層が見えてくる」
凛々子 「新幹線は、東京の資本を地方へ運ぶための『パイプ』。 でも、この宇都宮線の2階席は、東京から地続きとして存在する北関東。少しずつ空気が『北』の雰囲気へと変わっていくグラデーションを感じるための『回廊』ね」
宮脇先生は、エビスビールの2缶目を静かに開けながら、窓の外の頼りない朝の光を眺めていました。
宮脇先生 「皆さん、まだ旅の序盤だというのに、随分と熱心ですね。 この何でもない、退屈とも言える車窓が延々と続くのが最高のつまみなんです。朝から飲むビールにはこの風景こそ旨い。 宇都宮まで1時間40分もかかるから、栗橋で利根川を渡る時の、トラス橋の轟音と、一気に広がる水面のきらめきが、メインデッシュのように感じられる。 時間をかけるということは、風景の濃淡を存分に味わうことです」
📖 トゥアン教授(手帳に激しくペンを走らせながら) 「Experience of Time and Space...! 宮脇先生、あなたは言葉だけで、時間が空間をいかに豊かにするかを証明してしまった……!」
千鶴(苦笑しながら) 「先生たち、利根川を渡るくらいでそんなに感動してたら、この先、黒磯を越えて白河の関を越える頃には、涙を流して気絶しちゃうんじゃないですか? ほら、古河に着くわよ。 まだ茨城県に入ったばかり。 宇都宮は、まだまだ、ずーっと先ですからね」
列車は、ジョイント音を規則正しく響かせながら、どこまでも続く関東平野を這うように北上を続けます。 新幹線が30分で消し去る距離を、宮脇先生のJREポイントのおかげで手に入れた極上の静寂の中で、1時間40分かけて「納得」していく6人の旅。
さあ、退屈で愛おしい100分間の平野の旅を終え、列車はいよいよ、餃子の香りと「その先」への鉄路が待つ宇都宮駅へと滑り込みます。 ここから普通列車だけで北を目指す一行の前に、どんな「次のレール」が姿を現すでしょうか?
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