見出し画像

【大学不要論第4回】巨人の補強が大学をコロス

はじめに:即戦力はどこで栽培されるのか


私は大学不要論を書いている。

すると必ず現れる人々がいる。

彼らは非常に親切である。

大学改革について語ると、必ずこう教えてくれる。

「企業が求める人材を育てろ」

便利な言葉だ。

困ったら即戦力。

就職率が悪いと即戦力。

若者が辞めると即戦力。

景気が悪いと即戦力。

人手不足でも即戦力。

おそらく鎌倉幕府が滅んだ原因も即戦力不足である。

恐竜絶滅の原因も即戦力不足だった可能性が高い。

学者が調べていないだけである。

しかし
私は昔から不思議だった。

企業が本当に即戦力を欲しがっているなら、

なぜ自分で育てないのだろう。

トヨタは自動車を作る。

製鉄会社は鉄を作る。

食品会社は食品を作る。

住宅メーカーは家を作る。

ところが人材だけは他人まかせなのか?

人材育成は大学に頼む?


大学は高校を信用しない、
受験技術で予備校と共犯関係だから。
高等学校なのに…。
高等教育をおざなりにする。

だから高校は、
家庭に人格形成の下請けを丸投げする。

家庭は社会の悲劇を呪う。

そして最後に企業は…。

「最近の若者は即戦力ではない」と吐き捨てる。

虫が良すぎる気がしないか?


第一章:一杯の即戦力(The Cup of Humanity)


ラーメン屋が製麺をやめて…。

スープも作らないで…。

チャーシューも肉屋から仕入れて…。

ネギは業者が小口切りで納品し…。

そしてお客さんへ…。

自動券売機で券を買わせ、温めるだけで

「完成品のラーメンを1100円で提供する」

それはラーメン屋ではない。

ただの受取窓口である。しかも丼を下げるところまでセルフサービスだ。

私は、高等専門学校について調べてみた。


高専である。

教育評論家が大好きな高専である。

産業界が絶賛する高専である。

理工系教育の成功例として紹介される高専である。

十五歳から専門教育。

実験。

実習。

製図。

電子。

機械。

情報。

素晴らしい。

まさに即戦力養成機関だ。

ところが調べているうちに、妙なことに気付いた。


優秀な学生ほど大学へ進学する。

さらに大学院へ進学する。

さらに研究者になる。

あれ?

即戦力はどこへ消えた。

高専は失敗したのではない。

むしろ成功事例である。

教育が成功したから、学生はもっと学びたくなった。

その結果、産業界が期待した「即戦力」は大学へ吸い込まれていく。

考えてみれば当たり前だ。


十五歳の少年に向かって、

「君は優秀だ」

と言う。

すると大学へ行く。

「君はもっと優秀だ」

と言う。

すると大学院へ行く。

「君は天才だ」

と言う。

すると研究者になる。

誰も自分から

「では私は二十歳で社会へ出ます」

とは言わない。

第二章:実利という名の劇薬(The School of Realism)

企業が求める「実利」の劇薬は、
皮肉にも学問そのものの魅力によって解毒されてしまう。

十五歳を都合のいい「部品」として囲い込もうとする産業界の巨人は、
人間の知的好奇心という本質の前で脆くも崩れ去るのだ。

学問とはそういうものである。

出発点と到着点が一致するなら、

それは旅行パンフレットであって研究ではない。

昔の巨人軍は育成した。

若手をたくさん育てた。

二軍で鍛えた。

時間をかけた。

ところが近年は違う。

ほかのチームで活躍している選手を獲得する。

もちろん合理的だ。

育成は失敗する…場合が多い

歩留まりが悪いと業界では言うらしい。

補強は実績が見える。

そして私は気付いた。

企業の言う

「即戦力が欲しい」

とは、

「歩留まりの良い部品が欲しい」

と同義語なのではないか。


第三章:巨人とファブレス――あるいは模倣の系譜(The Illusion of Mastery)

自らリスクを負って魂を鋳造することを諦め、
他者が育てた成果(実績)だけを買い叩こうとする姿勢。

それは西洋の技術だけを効率よく模倣し、
自前の思想を育てようとしなかった明治以来の日本社会の、
歪んだ模倣の系譜そのものである。

「巨人軍はファブレス企業です、
集積回路はTSMCが製造しています」

という意味である。

すると奇妙な風景が見えてくる。

企業は大学に言う。

「即戦力となる人材以外は採用を控えます」

大学は高校に言う。

「基礎学力をしっかりと教育出来ている学生を!」

高校は中学に言う。

「学習習慣をしっかりと中学で育てなさい!」

中学は家庭に言う。

「生活習慣は親が教育することです!」

結果として家庭はスマホと格闘する日々が続く。

こうして責任は下流にたどりく。

まるで河川の汚染物質みたいだ。

そして最後には海へ流れ着く。

その海の小魚の名が

【大学一年生】

と呼ばれている。

第四章:濁流のゆくえ、虚の喪失(The Defiled Stream and the Crowded Room)


大学一年生は忙しい。


レポートの書き方を学ぶ。

統計を学ぶ。

情報リテラシーを学ぶ。

論理的文章を学ぶ。

プレゼンを学ぶ。

本来なら、高等学校という教育機関で終わっているはずのことを、
自分のチカラで一気に引き受ける。

私は長いあいだ、大学が高校のやり直しをしているように見えて仕方がなかった。


ところが調べてみると、

もっと恐ろしい事実に気付いた。

大学がやり直していたのはではない。

高校が高等教育を放棄した、受験資格認定施設だったことを。

旧制高校には教授がいた。

本物の教授である。

今の高校教師を馬鹿にしている話ではない。

制度の目的そのものが違った。

旧制中学校で相当高度な基礎学力を身につける。

その上で旧制高校へ進み、

哲学を学ぶ。

外国語を学ぶ。

自然科学を学ぶ。

文学を学ぶ。

つまり旧制高校は、

大学受験のための学校ではなく、

高等教育そのものだった。

ところが戦後、

高校は大衆化した。

これは悪いことではない。

むしろ素晴らしいことである。

問題はその副作用だった。

かつて旧制中学や旧制高校が担っていた学力形成の大部分が、

大学へ流れ込んだのである。

その結果、
大学一年生は

レポートの書き方を学び、

論理的文章を学び、

統計を学び、

情報リテラシーを学び、

時には「大学とは何か」まで学ぶことになる。

大学は専門教育機関であると同時に、
失われた高等教育を補う機関にもなった。


だから大学が膨張する。

専門教育をやりながら、

教養教育もしなければならない。

研究もしろ。

就職支援もしろ。

地域貢献もしろ。

国際化もしろ。

学生相談もしろ。

こうして大学は、

専門教育機関であり、

研究機関であり、

就職予備校であり、

補習校であり、

学生相談所であり、

地域振興センターであり、

時々大学である。

そして企業は言う。

「即戦力が足りない」

違う。

足りないのは即戦力ではない。

自分で育てる覚悟である。

トヨタが本当に必要とする人材を育てたいなら、
トヨタ自身が育てるしかない。
だからトヨタ学院がある。

大学はトヨタを作る場所ではない。

大学は学問をする場所である。

第五章:育てるという覚悟(The Art of Cultivation)

私は大学不要論を書いている。

だが本当に不要だと思っているのは大学ではない。

「大学が全部やればいい」
という発想である。


大学は研究する場所でいい。

専門を学ぶ場所でいい。

高校は本当の意味で高等学校に戻ればいい。

企業は人材育成の一部を堂々と時間をかけて
引き受ければいい。
現状がそうなのだから。

ところが誰も引き受けたくない。

だから大学だけが肥大化する。

あとがき:文化地理がっかり学会


土屋先生がこう言った。

「海尾君」

「君の話を聞いていると、大学改革論ではないな」

「では何ですか」

「責任の押し付け合い研究だ」

私は少し考えて答えた。

「教育制度を調べていたら、日本社会の構造が出てきました」

土屋先生は黙った。

しばらく黙った。

そして言った。

「それが学問としての問いだろう」

私は安心した。

学問というのは答えを見つけることではない。

調べていた問題より、
もっと困った問題を発見することである。

どうやら今回も、
その点だけは成功したらしい。

いいなと思ったら応援しよう!

海尾守【ジブチの象】 チップのお返しは・・・なにができるのか?思案橋です