見出し画像

「令和人文主義」なるものにかんする私的雑感

令和人文主義なる言葉が出回っているということを、ネットの記事で知る。「令和人文主義に異議あり!その歴史的意義と問題点」という記事である。

それによると、1990年前後に生まれた人たちが哲学やアニメ、漫画などをめぐって新書を出しているそうで、会社員によく読まれるようになったとのこと。「読書・出版界とビジネス界をまたいだ文化的潮流」として、流行っているらしい。文体が上の世代と違うとか、学生よりも会社員に向けているとか、反アカデミズムではないとか、教養主義とは違う人文知とか、いろいろ特徴はあるらしいが、自分は一度もその手の本を読んだことがないのでその評価が妥当かどうかは自分にはよくわからない。ただ、最近大学で学部生と話していたとき、どうやらその界隈の著者が学生の間でも読まれていると言っていたし、また、大学の書籍部に行ってもその手の本が平積みになっているから、学生の注意を惹いているのは確かなのだろう。だから、会社員に向けた人文知といっているが、学生にも支持されている、といっても良さそうだ。

自分が学生だった頃は、西部邁、柄谷行人といった人たちが元気で、また、講談社学術文庫で、廣松渉などの本が出ていて、だからそういう本をよく読んでいた。廣松渉は、近代の超克論が面白くて、何度も読んだし、柄谷の本は、内省と遡行、隠喩としての建築を中心に、やはり何度も読んだ気がする。ただ、それらの著作では、そこで紹介されているさまざまな文献、それこそマルクス、カント、ニーチェ、三木清、西田幾多郎を巡って、独自の考察が行われていて、そこから自ずとそれらの原典を読もうということになって、まあつまり、教養主義的な読書とでもいうものができた。だが、自分が学部時代お世話になった先生は、初対面で自分が「西部邁の知り合いなのですか?」と聞いたら、「そんなの読んだらダメだよ」といきなり言い、また、「柄谷を読んだって何にもならない」みたいなことを何かと言っていた。つまり、大学で勉強することと読書することは別物だみたいなことを言おうとしていたのだろうか。彼は当時、「公共性の概念が、これから重要な学問的問題になる」と何かといっていて、授業でも、アーレント、クリストファー・アレクサンダー、ジェーン・ジェイコブスのことをいつも話題にして、その文献を読みながらああだこうだと話していた。自分自身、博士論文はそういうテーマで書いたので、その限りでは、指導教員の言っていたことを忠実にこなしていたということになる。あまり出来の良い学生ではなく、不真面目だったが。柄谷の本も、実はトランスクリティークまでは、よく読んでいた。NAMを始めたあたりから読まなくなったが、それでも、冷戦後に「理念」なるものが空疎化し、経験主義的な風潮が広まることに抵抗し、思考し続けるというスタンスの大切さは、その著書群を読むことでわかったようにも思う。

自分が知っている学生には、令和人文主義のようなものには染まらぬようにとつい言ってしまうのは、そういう経験があるからなのだろう。自分も大学の授業では、 チャクラバルティ、ヒト・シュタイエルなどのテキストをベースにして、人間の条件みたいなことをめぐってあーだこーだと話をしているわけで、少なくとも、自分の授業に出たことのある人なら、少しはわかってくれるだろうとは思う。

ところで、令和人文主義の担い手の一人は、加速主義の思想にも関心があるそうだ。

それを一体どういう関心から評価しているのかよくわからないのだが、加速主義、暗黒啓蒙の中心人物であるニック・ランドが今の世の「創造的破綻(creative disruption)」の風潮の起点の一人であるということがヒト・シュタイエルの論考で書かれているということだけは言っておきたい。

自分がこのシュタイエルの創造的破綻をめぐる議論を分析した限りでは、そこでは小峰氏の記事で書かれている令和人文主義の特徴の一つである「市民社会の崩壊」についても論じられていて、その帰結が、社会の分裂というか、それこそ公共性の死みたいなことなのかな?と思わなくもない。

ちなみにこの文章を書きながら自分は大岡昇平の「成城だより」を思い出した。

そこにはこう書かれている。1980年10月の日記である。

「イ・イ戦争(イラン・イラク戦争)は、長期戦の様相を呈し、アメリカの大統領選挙はタカ派のレーガンの方が優勢だとすると、日本へのしめつけはきびしくなる。自動車は買わないが、軍備を増強しろ、と勝手なことをいう。ソ連はアフガンに居座り、世界各地で、クーデタ、革命が起こっている。地球的規模の危機は増大する一方である。このあしくなり行く世の中に、近くおさらばする身は、どうでもいいが、いたいけな孫の顔を見ていると、彼等がどんな生涯をすごさねばならないのかと思うと、可哀そうになる。気が狂いそうになる、といういのは大袈裟だが、本屋で目につく本は精神病の本である」。

令和人文主義なるものにおいて覆い隠されているのは階級的な亀裂の問題だと小峰氏は言う。自分もそうだと思う。ただ、さらにいうと、大岡氏のような人には見えていた地球的規模の課題そのものも、覆い隠されているように感じる。ロシアとウクライナの戦争の長期化(アメリカの代理戦争?)もそうだが、もっと深刻な事態が、日本を起点にして発生するのではないかという議論もある。

(追記)

さっき散歩しつつ思ったのは、「令和人文主義」の担い手たちは、自分よりずっと若い人たちだなあ、ということである。ただ、なんかこういうのは、前から繰り返されているようにも思う。

1995年4月に大学に入ったとき、オウム真理教事件の余波もあって、麻原彰晃を絶賛してしまったメディア系の論者が断罪されるとか、そんなこともあった。神戸の地震もあって、なんか世の中の根底が揺さぶられているという雰囲気もあった。自分が大学に入ったのはその頃だったからか、多幸感あふれる哲学的語りには冷ややかにならざるを得ず、世の混乱によって学者の議論の空疎さが暴かれていくのを冷ややかに見ていた。そして、その空疎さと同質のものを、大学の書籍部の「令和人文主義」コーナーの書籍の表紙に感じてしまうのである。

でもまあ、こういうのは、年長者の繰り言でしかないのかな?と思わなくもないが、令和人文主義なるものを「何か」の兆候ととらえる視点を持つことも大事だろうとは思う。その手掛かりになるのは、木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』だと思う。この本で言われている知的なものの崩壊の帰結の一つが「令和人文主義」なのだろう。

追記2

続きを書いた。これ以上はもう書かない。



いいなと思ったら応援しよう!