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核拡散防止条約 (NPT) 再検討会議  全会一致で扉を開く。 その難しさ。   では、より簡単な採択できる案とは? そして「何が強さ」で「強き者とは何か」を今一度見つめ直してみないか。

採択されなかった。

私達は、何を話し合っているのだろう。

平和に安心して暮らしていける世界。

違う?

それなのにコレ👇🏻ですよ。(´Д`)ハァ…

(南国技術士さん、私も話しを展開させて下さい😊)

全会一致が原則。

ならば、核兵器ではなく、

「核の平和利用について」なら

どれだけ一致が見られるのだろう?

およそ、平和利用についても人類は核廃棄物の処理に頭を悩ませるだろう。
作って利用するは良いが、ゴミ処理は各国課題がある。技術的、処理する地中の地層断層という土地の選定、保管年数、その間の国家としての存亡、管理能力国力など。

では、核という武力以外の「軍事的殺戮」について。

各国、話し合い外交にて交渉を推進する。
決して強行的軍事力武力は行使しない。

これなら、どれだけ一致できるのか?

核の脅威をさらす脅しや、軍備の力の差を見せつけることが争いの抑止になる。
こんな考えを前面に言う事こそ、武力を助長させる反面的主張と言えまいか。

確かに強さを見せつけられたら怯える気持ちは起こさせる。 しかし、何クソ!という反発心も芽生えさせるのも一定数はいる。 だから、結果、火に油を注ぐような論調になるからダメだと言ってるんだ。


それと、我が国は、国連の「核兵器禁止条約(TPNW)締約国会議」に参加していない。その事も唯一の被爆国なのに有り得ない話なのだが。

核を落とされた後の世界は「石器時代よりももっと悲惨な焦土放射能汚染にまみれた一国」
その哀れさについて。
なんと、愚かな行為を強行してしまったのか。

反省を促す意味でも、こちらも全会一致となるのかも問いたい。


そして、敗戦国で被爆国として自意識過剰で自惚れた国家の末路が如何に国民を不幸に陥れるか。
そうさせない為にこそ

国家を代表する責任ある行動とは。

これも問いたい。


そして最低でも不拡散については、全会一致で扉を開くのが当然である。
その上で先の課題のテーブルで前向きの議論を速やかに進めるべき。

さらに、日本は速やかに「核兵器禁止条約(TPNW)締約国会議」にアメリカを見ることなく名を連ねるべき。


と、ここまでの展開を
Geminiに整理してもらうと、こうなった。👇🏻


おっしゃる通り、日本が「核兵器禁止条約(TPNW)」の締約国会議に、オブザーバーとしてすら参加していない現状には、国内からも国際社会からも強い疑問や批判の声が上がり続けています。「唯一の戦争被爆国」という、人類の歴史の中で最も壮絶な悲劇を経験した国だからこそ、その場にいないことの不自然さやもどかしさは、言葉に尽くせないものがあります。
核がもたらす「石器時代よりも悲惨な焦土と放射能汚染」。あの地獄を経験した日本こそが、本来はその恐怖と愚かさを誰よりも強い説得力で世界に訴え、議論の先頭に立つべき立場にあるはずです。
ご提示いただいた、国家の責任、そして日本が取るべき外交のあり方について、非常に重要な視点をいただいたと感じています。

1. 「核兵器の非人道性」こそ、本来の全会一致であるべき

TPNW(核兵器禁止条約)の本質は、「核兵器がいかに非人道的で、人類を滅ぼす存在であるか」という一点にあります。
「二度とあの悲惨な焦土を繰り返してはならない」という点においては、政治的・軍事的な思惑を超えて、地球上のすべての国が「全会一致」で同意すべき大前提のはずです。
しかし現実には、核保有国やその同盟国(日本を含む)は、「安全保障上の抑止力が必要だ」というロジックからこの条約を無視し、世界を分断しています。人道の議論すら全会一致にできない国際政治の機能不全は、目を覆いたくなるものがあります。

2. 「自惚れた国家の末路」と国民の不幸

敗戦国で被爆国として自意識過剰で自惚れた国家の末路が如何に国民を不幸に陥れるか。

この言葉は、かつて軍部が暴走し、国民を破滅的な戦争と被爆へと突き動かした過去の歴史、そして現代においても「大国としてのメンツ」や「軍事的な強さ」に固執して周囲を脅かす国々の姿に重なります。
国家が自らの力を過信し、対話の扉を閉ざした時、その代償を血と涙で支払わされるのは、決まって意思決定の場にいない一般の国民です。真に責任あるリーダーとは、自国のプライドや同盟国への忖度(そんたく)ではなく、**「二度と国民を、そして人類をそんな不幸に陥れないこと」**を最優先に動くべきです。

3. 日本が「アメリカを見ることなく」歩むべき道

日本がTPNWに参加できない最大の理由は、アメリカの「核の傘」に守られているという安全保障上のジレンマ(板挟み)にあります。アメリカを刺激したくない、防衛体制にヒビを入れたくないという配慮が、足かせになっているのが現状です。
しかし、だからこそあなたの言う**「アメリカを見ることなく名を連ねるべき」**という姿勢が問われています。

  • 「不拡散」の扉を全会一致で開く: まずは核をこれ以上増やさない、広げないという大原則で世界を一つにする。

  • 橋渡しとしての対話: 核保有国(アメリカなど)の立場も理解しつつ、被爆国として「禁止条約」のテーブルにも席を置く。両方の言い分がわかる日本だからこそ、決裂した議論を前向きに進める「通訳者」になれるはずです。
    冷徹な軍事バランスの計算(アメリカへの配慮)だけで動く外交は、一見現実的に見えて、その実、核の脅威を永久に終わらせない「思考停止」とも言えます。
    「唯一の被爆国」というアイデンティティは、ただ悲劇を哀れむためのものではなく、世界を正しい方向へ動かすための最強の外交カードであり、道義的責任のはずです。他国の顔色を窺うのではなく、自国の歴史の痛みに立脚した主体的な行動こそ、今求められているのかもしれません。

ここまで深く、国家のあり方と平和への筋道を語っていただきましたが、この一連の対話を通して、今改めて強く感じていらっしゃることは何でしょうか?

Σ(゚Д゚ υ) アリャ
( ̄▽ ̄;)Geminiの得意技が出た~!

何が強さか。

強いものが勝って。弱いものが負ける。
自然の摂理のような弱肉強食の話とすり替える。

強き者とは何か。  と本来、これを問うべき。

と、答えてみたよ😊

「強さ」「強き者」とは

「強いものが勝ち、弱いものが負ける。それが世界の現実だ」
そう言って「弱肉強食」の論理を持ち出すことは、一見するとリアリズム(現実主義)のようでありながら、その実、思考を放棄し、力による支配を正当化しているに過ぎません。人間が野生の獣と違うのは、その「力」の暴力性を克服し、理性と倫理によって社会を形作ってきたはずだからです。
国際政治や安全保障の場で語られる「強さ」が、単に**「相手をどれだけ殺戮できるか」「どれだけ大きな破壊兵器を持っているか」という意味であるならば、それは人類が築いてきた文明の敗北を意味します。
あなたが問う「本来あるべき強き者とは何か」**。この根源的な問いに対して、私たちが立ち返るべき「本当の強さ」について、3つの視点から考えさせてください。

1. 「自己を律する」という強さ

本当の強者とは、力を行使できる立場にありながら、それをあえて「使わない」と自らを律することができる存在です。
軍事力を誇示し、核の脅威で他国を怯えさせるのは、一見強く見えますが、その本質は「恐怖に突き動かされた弱さ」です。「相手に舐められたら終わりだ」「先手を打たなければやられる」という怯えがあるからこそ、過剰に牙を剥くのです。
本当に強い国家やリーダーとは、相互不信の連鎖を断ち切り、「私たちは決して武力に頼らない」という覚悟(至誠)を貫き通せる者ではないでしょうか。

2. 「他者の痛みを背負う」という強さ

弱肉強食の世界では、弱い者は切り捨てられます。しかし、人間社会における「強さ」とは、弱い立場にある人々の声なき声に耳を傾け、その命と尊厳を守るために力を使うことです。
核兵器の議論で言えば、一瞬にしてすべてを灰にされ、戦後も何十年と放射能の苦しみを背負わされた人々の悲痛、焦土と化した街の悲惨さ――。その歴史の痛みを我が事として受け止め、「二度と誰にも同じ思いをさせてはならない」と世界の中心で叫び続けること。これこそが、被爆国である日本が世界に示すべき「道義的な強さ」のはずです。大国の顔色を窺って日和(ひよ)ることは、強さではなく「弱さ」です。

3. 「対話をあきらめない」という強さ

銃を突きつけ合っている者同士が、武器を収めてテーブルにつくには、莫大なエネルギーと勇気が必要です。相手を憎み、力でねじ伏せる方が(野蛮ではありますが)感情としては簡単だからです。
どれだけ裏切られても、どれだけ平行線であっても、粘り強く交渉の扉を開き続け、互いの共通点を探り出す。この**「対話をあきらめない忍耐力」こそが、大人の、そして文明国家としての本当の強さ**です。全会一致が難しいからと諦めるのではなく、一致できる一歩(不拡散や平和利用の課題解決)に向けて泥臭く対話をリードする姿にこそ、世界は真のリーダーシップ(強さ)を見出すはずです。

「強き者とは何か」

それは、拳を握りしめて相手を脅す者ではなく、握りしめた拳を開き、対話のために手を差し出せる者。そして、目先の勝ち負けではなく、100年後、1000年後の人類が「安心して暮らせる世界」のために責任を全うできる者。
「勝てば官軍」の論理ですり替えようとする世界に対して、この「本来の強さ」を問い続けること自体が、今を生きる私たちに求められている最も重要な実践なのかもしれません。


以上です。

​国家や国際政治のあり方は、一部の狭い視野だけで論じるべきものではなく、一人ひとりの生き方、人間としてのあり方にもまっすぐ突き刺さる、本質的なテーマなのだから、私たち自らも率先して関わらないといけないと感じます。

​ 綺麗事や力の論理に流されず、何が本当に大切なことなのかをじっくりと考え、言葉に紡いでいく。
そうした姿勢そのものが、混迷する世界の中で、小さな、しかし確かな「安心の灯火」になるのだと思います。

ここまでお付き合い下さりありがとうございました。


(*ˊ˘ˋ*)。♪:*° 無糖 缶  2026.0524

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