「川から帰ってきた妹」は、本当に私の妹だったのか――幼い日の疑念が大人になった今も消えない。
三歳の妹は近所の深い水路(以下:川)に落ちた。
母の腕に引き上げられたその瞬間、私は確信した――この子は、妹ではない、と。
その後、妹は普通に育った。
だが、私の中には、川に消えた“もう一人の妹”への問いがずっと消えずに残った。
第1話 あの日、川は妹を手放さなかった
妹が三歳のとき、川に呑まれた。
ただ流されたのではない。
水面の下で、まるで“誰か”に抱かれるようにクルクルと回りながら沈んだのだと、母は今でも震えながら話す。
駆けつけた母が腕を伸ばし、間一髪で掴んだその手。
だが、引き上げられた瞬間、私は見てしまった。
――母の腕にぶら下がっていた子は、妹ではなかった。
同じ顔をしているのに。
同じ髪、同じ手の大きさなのに。
妹の輪郭が、どこか違うのだ。
私はその日から、川の底をのぞき込むようになった。
泥の匂いのする下流まで歩き、消えた“もう一人の妹”を探し続けた。
幼い私にとってそれは、確かな現実だった。
ある夜、妹がふいに言った。
「川でね、ひとつだけ拾ったの。すごくきれいなもの」
それが何かを聞いても、妹は唇を濡らしながら「ないしょ」と笑った。
その笑いは、まるで水面を破って出てきた光のように揺らめいて、私は答えを追えなくなった。
――この子はもう、戻ってきていないのかもしれない。
そんな予感が、小さな胸に刺さったまま抜けなかった。
第2話 拾いものの妹
妹は小学生になると、生き物を拾ってきては家に持ち込んだ。
捨て猫、傷ついた犬、しっぽの欠けたトカゲ、ひび割れた甲羅の亀。
気づけば私の部屋は、小さな命の避難所になっていた。
世話をするのは決まって兄である私だった。
段ボールで寝床をつくり、古いタオルを敷き、エサの種類を探し、傷の処置を覚えた。
妹は命を拾うが、育てるのは私。
まるで妹が“拾ってきた存在”と私を、そっと試しているようだった。
そんな妹は、気づけば児童会長になっていた。中学では吹奏楽部長を任されていた。
派手な子ではないのに、なぜか周りに人が寄っていく。
凡庸な兄と、普通の家族のなかで、妹だけがいつも少し光を纏っていた。
ある夕暮れ、妹は窓際で遠くを見るような目をして言った。
「川で拾ったものね……あれ、想像力なんだよ」
その言葉は、夕日に透けて消えそうなほど淡かった。
それきり、思春期に入るとその話は封じられたかのように出てこなくなった。
私は確信した。
あの日、川から引き上げられた子は、
普通の子どもの姿をしてはいたけれど、どこか“別のもの”だったのだ。
第3話 空色カミュの背中
そして今、妹は糸島で「空色カミュ」と名乗り、
巫女のような衣を纏い、歌と踊りで人々の心を震わせている。
山のふもと、海辺の神社、古い森。
どこで舞っても、人々は静かに引き寄せられていく。
妹のまわりには、同じような衣をまとうファンたちが集まり、
風が吹くとその袖が一斉に揺れ、まるで海がひらめくようだった。
初めてその舞台を見たとき、
私の胸の奥で、長い間眠っていた“川の気配”がよみがえった。
――ああ、やっぱり。
あのとき、川から上がった妹は、私たちとは違う場所へ向かう存在だったのだ。
彼女の舞は、川底で拾った“想像力”そのものだった。
人々の顔つきが、妹の声に触れるたび、やさしくほどけていく。
妹は兄である私のほうを見ない。
舞台の光はその背だけを照らし、
その光は遠くへ、深くへ、澄んでゆく。
私は、その背中を追いきれない。
けれど、追いかける必要はないのだと思う。
妹は最初から“こちら側”ではなく、世界のほうへ返される存在だったのだから。
だから私は、少し離れた場所から見守る。
かつて拾われた小さな命たちを温めたときのように、
ただ静かに、そっと息を合わせながら。
空色カミュとして舞う妹は今日も、
私の知らない光のほうへ歩いていく。
その背中は、もう二度と川に沈むことはない。
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