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「何も起きていない」観測記録|第二回|どこにも届かない

第一回|何も起きていない



オフィスビルの話をしたのは、
ほんとうに、なんてことないタイミングだった。

カフェで仕事の愚痴と近況をひと通り話し終えて、
空気が少しだけゆるんだ頃。

「そういえばさ」

私は、何の気なしに切り出した。

「この前、取引先との打ち合わせで、先方のオフィスビル行ったんだけど」

友人は、ストローで氷をかき混ぜながら
「うん」と軽く相槌を打つ。

「立派なオフィスビルでさ。入館用のQRコード発行してもらって、それで向かったの」

「あるあるだね」

「でしょ。
で、いざ入ろうと思ったら、何か知らんけどエラーで入館不可だったの」

そこから先の話を、私は少し早口で続けた。

入館ゲートがどこにあるのか分からず、ただでさえ時間を食っていたこと。
やっと見つけたと思ったらエラーが出て、慌てて受付を探したのに見当たらなかったこと。

しばらくうろうろして、ようやく見つけた受付では先客がいて、
その人が終わるまで待たされて、
別の入館証を発行してもらって。

やっとエレベーターに乗ったと思ったら、今度は低層階行きだった。

「オフィスフロアは高層階なのにさ。いつもなら気をつけてるのに、間違えて乗っちゃって」

エレベーターを乗り直して、ようやく対面。

「なんかさ……
なんでこんなに大変なんだろ、って思っちゃって」

友人は笑いながら言った。

「大変だったね。
まぁ、それがセキュリティでしょ」

「まぁね。でもさ……」

そこで、私は一瞬、言葉に詰まった。
この「でも」の先を、どう言えばいいのか、
いつも分からなくなる。

「……あれ、変じゃない?」

友人の手が止まった。

「変、って?」

「なんかさ、
入ってる会社、めっちゃ偉そうじゃない?」

友人は少し笑って、「偉そう?」と言った。

「だってさ、用事があって行ってるのに、最初から“疑われてる前提”で入るじゃん」

「疑われてる、というより……」

「待って、最後まで聞いて」

少し強めの声になったのが、自分でも分かった。

「私はさ、
悪いことするつもりなんて一切なくて、
ちゃんと用があって、
ちゃんと約束して行ってるわけで」

「うん」

「それなのに、
“あなたは安全ですか?”
“あなたは通していい人ですか?”って、
何重にもチェックされる」

「安全のためでしょ」

友人は、笑いながら言った。

「そう。それが“正しい”のは分かってる」

私は一度、深呼吸した。

「でもさ、あの流れって“人を信じてない前提”で出来てない?」

もちろん、変な人が来る可能性はある。
注意することが大切なのも分かってる。

「そもそもさ、本当に必要なコア部分だけでよくない?
どんなに注意してても、変な人が来るときは来るじゃん」

言葉が止まらなくなっていた。

「あれってさ、施設側が“ちゃんとしてますよ”って、
言い訳するための建物に見えるんだよね。
ただ偉そうに振る舞っている感じ」

友人は、黙って聞いていた。

「本当に悪意のある人って、ああいうの、割とすり抜けるでしょ」

「まあ、ゼロではないね」

「でしょ?なのに、ちゃんとしてる人だけが、
毎回、毎回、身分証出して、名前書いて、ゲート通されて」

「それは公平でしょ」

被せ気味に言って来た。

「全員に同じルールを適用してるんだから」

「公平って、そういう意味?」

思わず、笑ってしまった。

「そういう意味だよ」

友人は、少し姿勢を正した。

「特定の人だけ疑うわけにいかないでしょ。
だから全員チェックする。
それが一番合理的」

私は、机の上で指を組んだ。

「でもそれって、“全員を疑う”ってことでもあるよね」

「疑う、じゃない」

友人ははっきり言った。

「管理」

その言葉が、テーブルの上に置かれた。

「大人の世界は、管理で回ってるんだよ」

私は大きく息を吸った。

「それ、分かってるよ。
社会が管理で回ってるのは分かってる」

「じゃあ、何が問題なの?」

「……問題って言われると、難しいんだけど」

私は言葉を探す。

「ビジネスってさ、お互いにメリットがあるから成り立つ場所じゃん。なのに、精神的にも時間的にもそのコストを訪問者に押し付けてるって、分からない?」

「そうかもしれんけど、そうでもしないとリスクは回避できないじゃん」

友人は、言い切るように言った。

私は、少し間を置いた。

「じゃあさ、先方から見たらどうなんだろって思わない?
毎回、相手をちょっと疲れさせてから会う、みたいな流れ」

「そこまで考えないでしょ」

「じゃあ、訪問する側の気持ちは?」

「仕方ないって思うんじゃない?」

その一言で、何かが静かに閉じた気がした。

「だから必要なんだよ」

私は首を横に振った。

「必要なのは分かってる」

「じゃあ」

「うんとね」

言葉を、重ねる。

「“必要”だからってさ。この“気持ち悪さ”を、なかったことにしていいのかな」

友人の眉間にしわが寄った。

「そんな違和感だけで社会は回せないでしょ」

「うん。回せないけどさ……」

そこは、私も否定しなかった。

「でも、
違和感が全部切り捨てられていくのって、
なんか……」

私はすっと息を吸い、吐くように言った。

「息苦しくない?」

「息苦しい?」

「うん」

友人は、少しトーンを落とした。

「それは個人の感想だよ」

「そうだけど…」

「考えすぎなんだと思う」

その一言で、空気が一段階、変わった。

「考えすぎ、って?」

「そこまで深読みしなくていいってこと」

「深読み、かな」

「かな、じゃなくて。
そこまで考えなくていいよ」

ゆっくりとした声だった。

「普通に働いてる人と、会社を守るための仕組みだよ。
企業としても、社会としても、当たり前」

「むしろ、
ああいうセキュリティがなかったら、
怖くない?」

すぐには答えられなかった。

怖いか、怖くないかで言えば、たしかに、怖い。

「……怖い、かもね」

「でしょ?」

友人は、少し肩の力が抜けたように言った。

「だから必要なんだよ」

私は首を横に振った。

「必要なのは分かってる」

全身にむずがゆさを感じる。

「でもさ、あのゲート通るたびに、ちょっとだけ、自分が“人”じゃなくなる感じ、しない?」

「しないなあ」

即答だった。

「本当?」

「本当」

「何も感じない?」

「何も」

思わず、笑ってしまった。

「そっか……」

私は、言葉を失いかけて、でももう一度出した。

「私はね、あの瞬間、用事のある人じゃなくて、“処理される対象”になる感じがする」

「も~、考えすぎだよ」

友人は続ける。

「それに、感じたとしても、
それをいちいち問題にしてたら、
生きづらくなるだけだよ!」

「……」

「社会って、そういうものでしょ」

普通。
当たり前。
仕方ない。

その言葉たちが、また並び始める。

私は、最後の言葉を絞り出した。

「でもさ、その“生きづらさ”を感じないようにすることが、
正解なのかな」

「正解とかじゃない」

「じゃあ何?」

「適応」

友人は言った。

「適応できないと、しんどいよ」

そこで、私は完全に黙った。

たぶん、
友人の言っていることは、全部、正しい。

社会は管理で回っていて、
セキュリティは必要で、
それをいちいち疑っていたら、疲れる。

でも。

「私さ」

静かに言った。

「適応はできるんだよ」

「してるでしょ」

「してる」

「じゃあいいじゃん」

「でも、“納得”はしてない」

友人は、少し困ったように笑った。

「納得しなくても、生きていけるよ」

「……そうだね」

私は、それ以上、続けなかった。

続けられなかった、のほうが近い。

店員さんが水を注ぎ、別の話題に自然と流れていく。

仕事の話。
最近観たドラマ。
どうでもいい近況。

私は笑って、相槌を打って、ちゃんと会話を続けた。

けれど、
頭のどこかで、
さっきの言葉が回り続けていた。

考えすぎ。
普通。
当たり前。
適応。

オフィスビルのセキュリティは、正しい。
たぶん、誰が見ても、正しい。

それでも、
あのゲートを通るときの、
ほんの一瞬の
「私は最初から信用されていない」
という感覚だけは、

どうしても、
“普通”の箱に押し込められなかった。



この記録は、続きます。

第三回|正しいはずなのに 

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