ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い― 第9話「午後の演算」

救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。
前回のお話
第9話「午後の演算」
午後二時。
セラフィール港の鉄道駅に、首都発の特別装甲列車が滑り込んだ。
プラットホームには儀仗兵が二列に整列していた。
彼らの白い手袋は、午後の日差しを受けて、奇妙に清潔だった。
ハッチが開いた。
降りてきたのは、エドワード・カニンガム大将。
洗いたてのシャツ。完璧に磨かれた革靴。高価なコロンの匂いが、潮風の中でわずかに浮いた。
彼の右手には薄い革の鞄が握られていた。鞄の留め金は銀製で、磨かれていた。中には、たった一通の書類が入っている。
カニンガムはホームの中央で一度立ち止まった。
潮の匂い。
この港でメイサが昨日リンゴを食べたという報告は、彼の机にも届いていた。報告書の中で「補給兵との接触あり」と書かれた一行が、わずかに目に留まった。彼はその一行を二度読んだ。二度目に、線を引いた。
線を引きながら彼は思った。
——この女は、まだ「人」になり切っていない。だが、なりかけている。
——なりかけているうちに、戻さねばならない。
カニンガムは儀仗兵に頷きを返した。指揮車が彼を待っていた。
車に乗り込む直前、彼は革の鞄の留め金を指で軽く撫でた。書類の件名が頭をよぎる。
〈神経再構築計画(ニューロ・リコンストラクション)・症例第七号〉
カニンガムは件名を言葉にしなかった。言葉にする必要がなかった。彼の頭の中で、症例第一号から第六号までの結果が、すでに整列していた。
彼は、扉が閉まる前に、白いハンカチで革の鞄の留め金を拭いた。
まだ何にも触れていない留め金を。
午後二時十二分。補給基地の裏。
ラトは、古い倉庫の壁に背を預けて、リンゴを磨いていた。
妹に送る箱は、もう出来上がっていた。中には、選び抜いた六つのリンゴが、藁に包まれて並んでいる。あとは明日の朝、列車便に載せるだけだった。
彼は最後の一つを布で磨きながら、ふと、駅の方を見た。
いつもとは違う、儀仗兵の整列。
いつもとは違う、装甲列車の停車。
ラトの手が止まった。
補給兵として、彼はこの基地のあらゆる物流を把握している。今日、首都からの定期便は午前のうちに着いていた。午後に何かが来る予定はなかった。
ラトは磨いていたリンゴを布の上に置いた。
——首都からの、特別便。
——何かが、運ばれてきた。
彼の目が、駅の方向の細部を、自動的に読んでいた。
機関車の煤の量から、走行距離を逆算する。
首都からノンストップの直行便。随伴する貨車は二両だけ。装備品の輸送ではない。
文書か、要員か、その両方。
儀仗兵の整列の人数、十二名。
これは将官級の到着を意味する。連隊長や旅団長の場合は、儀仗兵は六名で済む。
補給庫の警備配置にも、変化があった。独房棟の周辺に、いつもより二名多い、白衣の歩哨が配置されていた。白衣の歩哨は医療要員。
医療要員が独房棟の周辺に配置される時、それは戦闘ではなく、内部的な処置を意味する。
ラトはすべてを五秒で読んだ。
補給兵は戦場では役に立たない。
だが、平時の基地のあらゆる物流の流れを、戦闘要員より細かく把握している。彼らは「いつもと違うこと」を、最も早く察知する位置にいる。
——大佐の身に、何かが、起きる。
彼の指が無意識に上着の内側に触れた。心臓に近い場所に、彼の手紙が隠されていた。兄に宛てた、誰にも届かない手紙が。
だが今、必要なのは手紙ではなかった。
ラトは磨きかけのリンゴを、もう一度手に取った。布で丁寧に表面を拭いた。その所作に、迷いはなかった。
彼はリンゴを藁の中に戻した。それから、箱の中をもう一度見た。
六つのリンゴ。
妹に送る、はずだった、六つ。
彼はそのうちの一つを、もう一度手に取った。
軸の傾いた、一番不格好な一つ。今朝メイサが食べた、あれと似た形のもの。
ラトはその一つを、藁の中から抜いた。
代わりに自分の上着の内ポケットから、何かを取り出した。古い、真鍮の、懐中時計だった。
文字盤の割れた、彼が直したもの。レイル・ガリアの夜、メイサの前で針を回し始めた、あの時計。
彼はそれを、藁の中の、リンゴが抜けた場所に収めた。
収める時、針の音が、聞こえた。
カチ、カチ、と。
規則正しく。
止まらずに。
ラトはその音を、しばらく聞いていた。
——時計は、止まらない。
——止まったら、直せばいい。
——文字盤が割れても、針が曲がっても、芯さえ生きていれば、また、動く。
補給品の物流記録には「リンゴ六個、藁包み」と書かれている。中身を確認する者はいない。妹宛ての荷物は列車便で運ばれ、首都の外れの教会に届く。
教会の司祭が、彼の妹にそれを渡す。
妹はリンゴを五個、受け取る。
そして時計を一つ、受け取る。
妹はその時計を見て、何を思うだろうか。
兄が、妹に、時計を送る理由は、一つしかない。
——もう、自分が戻れないかもしれない、と思った時。
だが、ラトは、もう一つの意味を、その時計に、込めていた。
妹には言えない意味。誰にも、言わない意味。
〈時を、預ける〉。
——もし、俺が戻れなかったら。
——お前がこれを、動かし続けてくれ。
——いつか、俺がまた誰かの時間を、動かしに行くまで。
ラトは箱の蓋を閉めた。釘は打たなかった。
——明日の朝、まだ、開けるかもしれない。
開けて、時計を、戻せるかもしれない。
その可能性を、彼はゼロにはしなかった。
彼は、抜いたリンゴを自分の上着のポケットに入れた。今朝メイサに渡したリンゴと、同じ形のもの。
——これは、俺の、分。
何の分か、彼自身、よく分からなかった。
ただ、持っていたかった。
午後二時二十分。首都カイリオン、参謀本部・第七監視室。
モニターの中で、メイサの心拍が揺れていた。
平常域から、わずかに、上に。
戦闘時の昂揚ではない。
包囲を察知した、軍人の警戒の数値。
若い監視員はそれを見ていた。
手元の記録欄に、書く言葉を選びかねていた。
「〈警戒〉と書け」
年配の監視員が、後ろから言った。
「〈異常〉と書くな。書けば、ファイナライズの執行根拠が、また一つ増える」
若い監視員は、年配の監視員を振り向いた。
「……根拠を、増やしたくない、んですか」
「俺が言ったとは、書くな」
年配の監視員はそれだけ言うと、自分のデスクに戻った。コーヒーを啜る音が、いつもより長かった。
若い監視員はしばらく画面を見ていた。
メイサの心拍。脳波。皮膚電位。
数値だけのはずの彼女が画面の中で、ただ立っていた。
立って、何かを考えている。
彼は記録欄に書いた。
〈個体、警戒状態。範囲内〉
〈異常〉とは書かなかった。
書かなかったことが何を意味するのか、彼自身にもよく分からなかった。
ただ、書きたくなかった。
画面の隅で、別の通知が点灯した。
『カニンガム大将、現地到着。執行開始まで、二時間』
若い監視員はその通知を見なかった。
見ても、彼にできることはなかった。
彼はただ、メイサの心拍の数値を見続けた。
数値が平常域に戻ることを、祈るような気持ちで。
——だが、戻らないだろうことも、知っていた。
午後二時三十分。独房。
メイサは窓辺に立っていた。
頭の白い布は、もう解いていた。
代わりに、軍規通り、髪を結い上げていた。詰襟のホックも、きっちりと閉じている。
彼女の身体は、軍人の身体に戻っていた。
戻したのは、彼女自身だった。
テーブルの上に、布が置かれていた。畳まれて、四角く、小さく。
それはラトの白い布だった。
メイサはその布を見ていた。長く見ていた。
——返すか、燃やすか、隠すか。
演算が立ち上がった。
返せば、ラトに、何かが起きていることが伝わる。
燃やせば、何も残らない。
隠せば、——彼女がいなくなった後、誰かがそれを見つけるかもしれない。
答えはすぐに出た。
メイサは布を手に取った。それを軍服の内ポケットに入れた。
——燃やさない。返さない。隠さない。
持っていく。
ファイナライズの場へ。
彼女は初めて、自分のために、何かを選んだ。
その選択は、軍人としての合理性から、わずかに外れていた。
だが外れた分だけ、彼女は自分の身体の中に、自分がいるのを感じた。
窓の外で、太陽が傾き始めていた。
影が少しずつ長くなる。
彼女は、ラトの白い布を入れた、その胸の上に、手を当てた。
布は、まだ、温かかった。
——あと、一時間半。
その一時間半で、彼女は、自分の中の何を、整えるべきなのか。
軍人としての答えは、出ていた。〈規律通りの所作で、執行を待つ〉。
だが、もう一つの彼女が、その答えに、頷かなかった。
もう一つの彼女は、今朝、リンゴを甘いと思った彼女だった。光の中の粒子を見ていた彼女だった。
雨上がりの匂いに、何かを思い出しかけた彼女だった。
その彼女は、規律通りの所作の中には、いない。
——それでも、いる。
メイサは、初めて、その確信を、自分の胸の上に、置いた。
規律通りの所作の中にいなくても、いる。
軍服の中にいなくても、いる。
神経が組み替えられても——たぶん、いる。
根拠はなかった。
だが、その確信だけが、彼女にこの一時間半を、過ごさせた。
太陽が、また、少しだけ、傾いた。
遠くで、海鳥の声がした。
彼女は目を閉じた。
扉の向こうから、革靴の音が、近づいてくる気配は、まだ、なかった。
まだ。
◆ルミナール戦記(note連載小説)
◆自己紹介記事

いいなと思ったら応援しよう!
記事をお読みくださり、ありがとうございます🌸
皆さまからのチップは、今後の情報発信を続けていくうえで大きな励みとなっています。いただいたご支援は、私の活力の源であるみーくんの餌代として、大切に使わせていただきます。これからも素敵な記事をお届けできるよう、精一杯努めてまいります。