ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い― 第8話「凪の朝」

救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。
前回のお話
第8話「凪の朝」
雨は夜のうちに上がっていた。
メイサが目を開けた時、独房の鉄格子の向こうに薄い光が差し込んでいた。夜通し降った雨が空気の中の塵をすべて洗い流していて、残されたのは磨かれたばかりの硝子のような朝だった。
壁の赤い光点が、いつも通り等間隔で瞬いている。
脳波、体温、心拍。昨夜彼女が泣いたという記録は、もう誰かのデスクに届いている頃だった。
——同じ頃。首都カイリオン、参謀本部・第七監視室。
監視員のモニターに、メイサの起床が記録された。
心拍数、平常域。脳波、平常域。涙腺反応、なし。
「……静かですね、今朝は」
若い監視員が呟いた。
「静かなのは、上の指示だ」
年配の監視員はコーヒーを置かなかった。
「午後までは何もするな、と。……午後までは、な」
若い監視員はモニターから目を逸らさなかった。
「あの、午後って、何が——」
「聞くな」
年配の監視員は静かに遮った。
コーヒーは結局、口に運ばれなかった。
若い監視員は何も言わずモニターを見つめた。
グラフは穏やかに揺れていた。穏やかに揺れているということだけが、今朝の異常だった。
独房のメイサはそれを知らない。彼女はただ、窓辺に一筋の光が落ちているのを見ていた。
光の中で空気の粒子がゆっくりと踊っている。
そんなものを彼女は何年も見ていなかった。戦場でも独房でも、光はただの光だった。
今朝の光は違っていた。雨に洗われた空気の中で、光が揺らいでいる。それを見ていられた。
ただ見ていられた。
——眠っていた、らしい。
ふと気付いた。
昨夜決壊した何かは、今朝、不思議と静かだった。
決壊した後の川が流れた分だけ軽くなるように、彼女の胸の奥は空っぽに近かった。
空っぽは悪くない。
メイサは初めてそう思った。
指先を開いてみる。戦闘の余韻も過剰出力の震えも、今朝はなかった。
ただ人間の指がそこにあった。冷たくはない。熱くもない。ちょうど人間の体温だった。
——変な感じ。
この指は、人ひとりの命では足りないものを焼くために、使われてきた。
S級のFR値が指先に宿る時、空気そのものがイオン化し、鉄が気化する。その同じ指が今、ただの体温で空中に浮いている。
メイサは、いつからこの指が「人の指ではなくなったか」を、思い出そうとした。
思い出せなかった。
物心ついた時には既に、彼女の指は焼く指だった。
普通の子供として鉛筆を握った記憶も、母の手を握った記憶も、彼女にはない。
気付いた時には、世界に十人しかいないと言われる側にいた。
兵器ではない手というのは、こんな手だっただろうか。
兵器ではない自分というのが、もし在ったとしたら、それはどんな自分だったのだろう。
二十一年生きてきて、初めて、その問いが立った。
午前八時。
市場の通りには雨上がり特有の匂いが満ちていた。
濡れた石畳が乾き始める土の匂い。
軒先から滴る最後の雨粒の音。昨日まではどこか湿っていた野菜が、今朝は洗いたての色をしている。
メイサは灰色の外套を羽織ってその通りを歩いていた。昨日と同じ格好で、昨日と違う気持ちだった。
軍規上、この外出は違反ではない。
体調観察のための「環境曝露」として、参謀本部の承認は出ている。
承認の理由は彼女には知らされていなかった。
ただ外に出ていいと言われた。
——昨日まで、許可されなかったのに。
軍人としての勘が、ほんの一瞬、指先の奥で鳴った。
承認の早さ。理由の不在。観察項目の沈黙。
三つの違和感が並んでいる。並んでいる、ということが、戦場では包囲の予兆だった。
メイサはその勘を、外套の襟元と一緒に押さえ込んだ。
——今朝は、考えたくない。
今朝だけは。
通りの先で八百屋の老婆が籠の野菜を並べ替えていた。雨で濡れた葉物を軒先の風に当てている。
通りかかった子供が籠の中のトマトを指差して何かを言っている。母親が笑いながら首を横に振る。
その光景の中をメイサは歩いていた。
誰も彼女を振り返らない。灰色の外套のおかげなのか、それとも今朝の彼女が軍服を着ている時よりも少しだけ小さく見えるからか。
彼女は自分が小さく見えるという感覚を、初めて好ましく思った。
角を曲がった、その時。
「大佐」
声がした。
振り返ると、ラトが立っていた。
昨日と同じ、ぶかぶかの補給兵の制服。
手には紙の袋を抱えている。袋の口から緑の葉がはみ出していた。
「……ラト」
「おはようございます」
ラトは笑った。
いつもの人懐っこい笑み。だがその目の奥に、今朝はわずかな疲れがあった。
——昨夜、彼も眠れなかったのかもしれない。
メイサはそれを見なかったことにした。彼が見せたくないなら見ない。それが今朝の彼女の決めごとだった。
「市場、ですか」
「はい。基地の朝食用の野菜、買い出しに。……大佐は」
「散歩。許可は取ってある」
「そうですか」
ラトはそれ以上聞かなかった。
彼は聞かないのが上手かった。メイサはそれを、いつ気付いたのだったか。
二人は自然に並んで歩き始めた。どちらもそうしようと言わなかった。ただ通りの方向が同じだった。
石畳が乾き始めていた。濡れた部分と乾いた部分の境界がまだら模様を描いている。ラトは乾いた方をメイサに譲って歩いていた。無意識の所作だった。
——いや。
無意識、ではないのかもしれない。
今朝のラトは、昨日よりほんの少しメイサに近かった。あまりに自然だったから、メイサも気付かないふりをしていた。
「果物屋、寄ってもいいですか」
ラトが不意に言った。
「妹に送るリンゴ、もう一つ追加したくて」
メイサは頷いた。
果物屋の籠には昨日と同じ赤いリンゴが並んでいた。
雨に当たらないよう軒の奥に引き込まれている。艶のある、子供の頬のような赤。
ラトは籠の前にしゃがみ込んだ。
一つ一つ丁寧に手に取って、軸の部分を確かめている。
「リンゴってね、大佐」
ラトは手を止めずに言った。
「皮の傷は外から見える失敗で、芯の傷は外から見えない失敗なんです」
メイサは彼の手元を見ていた。
「俺、機械を直す時もそうなんですけど。表に見える傷は、だいたい、もう諦めてる傷なんですよ。直す気がないから外に出してる。本当に痛いやつは、内側に隠してる」
彼は一つのリンゴを軸から軽く回し、底を覗き込んだ。
「だから、こうやって、底を見るんです」
「……底」
「底が一番、嘘をつかないので」
ラトはそう言うと別のリンゴを手に取った。
「これ」
彼が掲げたリンゴは、確かにほんのわずか軸が左に傾いていた。
「妹、こういうちょっと不格好なやつを選ぶんです。完璧なやつより。『これ、頑張って育ったみたいだから』って」
メイサの胸の奥で何かが小さく軋んだ。
頑張って育った。そんな言葉でリンゴを選ぶ子供。
その子供を育てた誰か。
彼女はふと、そのリンゴを自分の手に取りたい衝動に駆られた。
ただ触れてみたかった。頑張って育ったものの形を。
だが彼女の指は伸びなかった。触れた瞬間にリンゴが焼ける気がした。昨日ラトの指をわずかに焼いたように。
ラトはメイサの視線に気付いたのか、リンゴを彼女の方へ差し出した。
「持ってみますか」
「……いいの」
「妹に送る前に、誰かに持ってもらうの、悪くないなって」
メイサは両手をおそるおそる差し出した。ラトのゴツゴツした掌から彼女の白い掌へ、リンゴが渡る。
冷たくも熱くもなかった。ただ、しっかりと重かった。
その重さの中に何かが詰まっていた。果実の繊維。雨と土と太陽。育てた誰かの何ヶ月かの時間。
メイサの指は焼かなかった。リンゴはただのリンゴのまま彼女の手の中にあった。
——この手で艦をひとつ気化させた。
十二万トンの鋼鉄を、海ごと。
その同じ手の上に、今、二百グラムのリンゴが乗っている。秤として釣り合うはずがなかった。
なのに、二百グラムの方がずっと重い気がした。
——「君が流す一滴の涙より、一パーセントのインフレの方が、この国を確実に殺す」
不意に、誰かの声が頭の奥で響いた。
六十代の、低い、乾いた声。感情の温度を持たない声。誰の声か、思い出すまでに一秒かかった。
カニンガム大将。
いつのことだったか、彼女がまだ少尉だった頃。
初めての過剰出力で兵舎の壁を一枚溶かし、震えていた夜。あの男は彼女の独房に入ってきて、ただその一言を言った。同情ではなく、訓戒でもなく、ただ事実を読み上げるように。
あの夜、彼が部屋を出る時、ポケットから取り出した小瓶の匂いがした。消毒液。彼はメイサの座っていた椅子の背に一度触れて、その指を消毒液で拭ってから、部屋を出ていった。
彼女は今朝までその記憶を、底の底にしまっていた。
「……重い」
メイサは小さく呟いた。
「美味しいやつは重いんですよ」
ラトは笑った。
メイサもほんの少し口元を緩めた。笑ったとまでは言えない。ただ息が軽くなった。
彼女はリンゴをラトに返した。
市場の外れに小さな広場があった。
古い噴水が雨水を溜めて満ちている。縁の石は長年の使用で丸く磨り減っていた。
ラトはそこの縁に腰を下ろした。メイサも少し離れて座った。
二人の間には人ひとり分の距離があった。近すぎず遠すぎず。昨日、彼の指が彼女の頬の髪に触れかけて止まった、その距離だった。
広場にはほとんど人がいなかった。
雨上がりの朝、まだ皆家の中にいる時間。時折買い物帰りの老人が通り過ぎていくだけだった。
ラトは紙袋からリンゴを一つ取り出した。手のひらで軽く磨いて、半分に割った。ナイフは使わなかった。指の力だけで果実が二つに分かれた。
その所作の中に馴れがあった。彼が何度も誰かとこうしてリンゴを分けてきたことが、伝わってきた。
「半分、どうぞ」
ラトは片方をメイサに差し出した。
メイサは受け取った。断ろうとした言葉は口を出る前に消えていた。
白い果肉から、雨上がりの光に似た淡い香りが立ち上っている。彼女はゆっくりと口に運んだ。
——甘い。
砂糖の甘さでも菓子の甘さでもない。何ヶ月もゆっくりと太陽の下で熟れていったものの甘さだった。
——熟れる、という時間。
メイサにはそれがなかった。
果実のように育てられはしなかった。生まれついた力を、刃物として研がれてきただけだった。研いだのは、彼女ではない。彼女は研がれる側だった。
それでも今、彼女の口の中に果実の甘さがある。研がれてきた口に、果実が入る。不思議なことだった。
——いや、不思議では、ないのかもしれない。
研がれる前の彼女が、もし在ったとしたら、その彼女ならきっと、こうして果実を食べていた。リンゴを甘いと思い、誰かと半分ずつ分け、太陽の下で笑っていた。
それは想像の中の彼女だった。
だが、想像の中にしかいないからといって、存在しないことにはならない気がした。
「美味しい」
メイサは呟いた。声に出して、自分でも少し驚いた。
「よかった」
ラトは自分の半分をゆっくりと食べていた。彼の指の油汚れの上に、リンゴの汁がわずかに光っていた。
メイサはその手を見ていた。
——昨日、焼かれた指は、どこだったか。
探してももうよく分からなかった。ラトの指はいつも汚れている。その汚れの中に、彼女が残した小さな焦げ跡は紛れていた。
彼がわざと見せないようにしているのか。それとももう本当に消えかけているのか。メイサには判断がつかなかった。
半分のリンゴを食べ終える頃、ラトがぽつりと言った。
「さっきの、底の話なんですけど」
メイサは彼の方を見た。
「人も、たぶん、同じだと思うんです。一番痛い場所は、自分でも見ない場所にある。表に出してる傷は、もう諦めた傷なので」
彼は自分の指の油汚れを、見るともなしに見ていた。
「だから、誰かを直したい時は、底を見ないと駄目なんです。でも、底は本人にしか見せられない場所だから……結局、自分で見てもらうしかない」
メイサは応えなかった。応えようとして、喉の奥がわずかに詰まったからだった。
ラトはそれ以上は何も言わなかった。彼は聞かないのが上手かった。そして言いすぎないのも、上手かった。
風が吹いた。
雨上がりの湿気を含んだ、けれど冷たくはない風。
メイサの結い上げた金髪のほつれた一筋が、また頬に張り付いた。
今度はラトの手は伸びなかった。
昨日止まった指のことを彼は覚えているのだろう。代わりに彼は自分の上着のポケットから何かを取り出した。小さな布の切れ端だった。白い、清潔な、ハンカチに似たもの。
「これ、使ってください」
ラトはそれを、メイサと自分の間の噴水の縁に置いた。
「……これは」
「髪、結び直す時に口にくわえる、あれです。女の人、よくやってるでしょう。ピン代わりに」
メイサはその布を見つめた。
ラトはそれ以上何も言わなかった。彼は自分のリンゴの最後の一切れをゆっくり食べ終えると、立ち上がった。
「俺、買い出しの続き行ってきます。大佐は、もう少しここにいてください」
「……いいの」
「広場、気持ちいいでしょう、雨上がり」
ラトは笑った。
そして軒の方へ歩きかけて、ふと足を止めた。
半分だけ振り返った。半分だけ、というのが、ラトらしかった。
「大佐。……その布、似合ってます。軍人としてじゃなく、その……」
言いかけて、ラトは口を噤んだ。
視線が一度メイサから逸れて、また戻ってきた。何かを言おうとして、その言葉を自分の中で見つけられなかったような顔だった。
「……いえ、なんでもないです」
ラトはそれだけ言って、市場の通りへと戻っていった。彼の背中が人混みに紛れていく。
メイサは噴水の縁に一人残された。
ラトが言いかけた言葉の続きを、彼女は埋めようとしなかった。それは彼の言葉であって、彼女の言葉ではない。
ただ、途切れた場所だけが、胸の奥に小さく残った。途切れたまま、温かかった。
しばらく彼女は置かれた布を見ていた。手に取るかどうか迷っていた。手に取れば、自分が女性であることを認めることになる気がした。軍規ではなく、人として髪を結い直す女性。
——今朝なら、いい気がする。
彼女は布を手に取った。
結い上げていた金髪を一度解いた。長い髪が肩から背に流れ落ちる。雨上がりの風がその髪を撫でていった。
彼女は丁寧に髪を結い直した。
軍規通りのきつい結い方ではない。もう少し緩い、ただ落ちてこないようにするだけの結い方。
ラトの布が髪の根元に巻かれた。白い布が金髪によく映えた。メイサは自分の頭に手を当ててその感触を確かめた。軍服の詰襟を緩めるよりも、ずっと大胆な所作だった気がした。
——軍規違反、になるだろうか。
なるかもしれない。だが今朝だけは構わなかった。
彼女はしばらくそこに座っていた。
太陽が雲の切れ間から少しずつ強くなっていく。
石畳の濡れた部分が見る見るうちに乾いていく。通りの先で子供が走り回る声が聞こえ始めていた。
南部の朝が本当に開いていく時間。
メイサはふと、自分が笑いそうになっていることに気付いた。
理由はなかった。ただ空気が軽かった。ただ太陽が暖かかった。ただ口の中にまだリンゴの甘さが残っていた。
それだけのことで人は笑いそうになる。
二十一年生きてきて、彼女は初めてそれを知った。
幸福というほど大きなものではない。
ただ不幸でない、という時間。その時間がこんなに軽いものだとは思わなかった。
——明日もこうだったら、いい。
不意にそう思った。思ってから自分で驚いた。
明日のことをこんな風に願ったのは何年ぶりだったろう。軍人の「明日」はいつも任務だった。演算結果と削除点と強制冷却。明日の朝をただこうしたい、という願いは許されていなかった。
今朝、その願いが彼女の中に生まれていた。
——明日もラトと、リンゴを食べたい。
馬鹿げた願いだった。彼女には明日、別の任務があるかもしれない。別の海を、別の戦場を、沸かさなければならないかもしれない。
それでも願いは消えなかった。
メイサは空を見上げた。雲がゆっくりと流れていた。その雲の隙間に青が覗いている。
明日も晴れるだろうか。
彼女はその問いを抱えたまま、噴水の縁から立ち上がった。
——同じ頃。首都カイリオン、第七監視室。
モニターの脳波グラフに、ごく小さな揺らぎが記録された。陶酔域。観察対象が、生体としての安定を著しく改善している兆候。
若い監視員はそのグラフを見て、思わず口を開いた。
「これは……良い、ということでは」
「いや」
年配の監視員は静かに首を振った。
「資産として、最も危険な兆候だ」
彼はそのデータに分類タグを付け、上層へ送信した。
タグの名前は、〈個体の自我形成・要処置〉。
基地への帰り道。
通りの角でメイサは補給基地の門兵に敬礼を返された。結い直した髪に巻かれた白い布。門兵はそれを見て、見ないふりをした。
彼女は独房の前まで歩いた。扉の前で一度立ち止まり、頭の布にもう一度触れた。
——外す前に、もう少し、このままで。
扉を開けた。
部屋の中央に、伝令兵が立っていた。
参謀本部の徽章。封蝋の押された電文。
メイサの帰還を待っていた。
頭に巻いた白い布が、急に重くなった。
「メイサ・ヴァルキリー大佐」
伝令兵は機械的に敬礼した。
「参謀本部より、緊急電文です」
メイサは歩み寄った。封蝋を指で割る。
『カニンガム大将、本日午後、セラフィール港へ到着。
資産の最終調整(ファイナライズ)を執行する』
二行。
メイサの目が二行目で止まった。
——ファイナライズ。
知らない単語だった。通常の運用語彙にはない。
これまでに読んできた数千の作戦電文、人事電文、補給電文、いずれの中にもなかった単語。
だが、知らないからこそ分かった。
軍の電文に「知らない単語」が載ることはない。
すべての術語は事前に定義され、規格化され、共通言語として運用される。それが軍の通信の鉄則だった。
なのにこの単語は、定義の外から、彼女の元へ来ている。
——定義の外の単語が、私の名前と並んで印字されている。
〈最終調整〉。〈執行〉。
その二語が、軍人としての演算より早く、彼女の身体の記憶を呼び起こした。
二年前、首都の医療棟ですれ違ったB級の若い能力者。「最終調整」を受けて戻ってきた彼の瞳を、メイサは今でも覚えている。
あれは瞳ではなかった。瞳の形をした、何か別のものだった。眼球はある。光彩もある。瞳孔も光に反応する。だが、その奥にあるはずの「彼」が、いなかった。濁った硝子玉が二つ、顔の前面に嵌め込まれていた。
彼はメイサの顔を見て、敬礼した。完璧な敬礼だった。完璧すぎる敬礼だった。彼の中に、敬礼を「した」者は、もういなかった。手が勝手に上がり、手が勝手に下りた。それだけだった。
その後、彼は命じられた座標を焼き続けた。
任務遂行率一〇〇%。事故ゼロ。情緒的逸脱ゼロ。完璧な「資産」だった。
四年前のA級の一人は、もっと酷かったと噂で聞いた。彼女は「最終調整」の後、自分の名前を呼ばれても反応しなくなった。代わりに、識別番号には反応した。彼女はもう、自分が「彼女」であったことを知らなかった。
——〈最終調整〉。
——それは、魂の去勢だ。
メイサの背筋を、初めての種類の冷たさが走った。
戦場の冷たさではない。死の冷たさでもない。「彼女」が「彼女」でなくなる、という冷たさだった。
死ぬのではない。
死ねるなら、まだましだった。
残るのは、メイサ・ヴァルキリーという容器だけ。
容器の中身は別のものに入れ替えられる。手足は動く。電磁能力も使える。
FR10万以上のS級資産として、完璧に稼働する。ただ、その中に「彼女」はいない。
今朝、リンゴを甘いと思った彼女が、いなくなる。
光の中の粒子を見ていた彼女が、いなくなる。
ラトの言いかけた言葉の途切れた場所を、胸の奥に持っていた彼女が、いなくなる。
いなくなった後の容器は、ラトを見ても、もう何も思わないだろう。リンゴを食べても、味を感じないだろう。命じられればラトを焼くだろう。完璧に。事故ゼロで。
——いやだ。
声は、軍人の声ではなかった。
演算は「無意味」だと告げていた。逃げ場はない。抵抗の手段はない。壁の赤い光点は今この瞬間も心拍を首都に送り続けている。
だが、指先の帯電は止まらなかった。
電文を持つ右手の皮膚の下で、数千ボルトの電位差が暴れていた。封蝋の割れた紙の縁が、ぱちりと小さな音を立てて焦げる。
気付けば左手が右手の手首を掴んでいた。彼女自身の左手が、彼女自身の右手を止めようとしていた。S級の力が彼女自身の手を引き裂きかけている。
壊したいのではない。
ただ、この「今」を、誰にも触れさせたくないだけだった。
頭に結ばれた白い布。ラトのポケットの温度。リンゴの甘さ。「明日もこうだったら」と願った数秒間。それらを、あの男の消毒液で拭われた指で、触れられたくなかった。
——返せ。
その声は、軍人としての彼女が二十一年間、押さえ込んできた声だった。
——返せ。私の今朝を。
——返せ。リンゴの甘さを。
——返せ。明日を願った数秒を。
——返せ。私を、私に。
声にはならなかった。出せば終わりだった。
出せばラトも巻き込まれた。
だが心の底のもう一つの自分が、二十一年分の声で叫んでいた。叫びながら、もう一つのことを、軍人としてのメイサは認めていた。
——あの男だ。
六十代の、消毒液の匂いのする男。
「君が流す一滴の涙より、一パーセントのインフレの方が、この国を確実に殺す」と言った男。
少尉だった彼女の椅子の背に一度だけ触れて、その指を即座に拭ったあの男。
彼が、今朝の彼女を、消しに来る。
数字の損益で。経済合理性で。彼にとっての「安上がりな平和」のために。
ほんの数秒だった。
数秒の後、彼女の軍人としての訓練が再び主導権を取り戻した。左手が右手首から離れる。
指先の帯電が引いていく。心拍が、ゆっくりと、観察可能な範囲まで落ちていく。
壁の赤い光点が、平常域を示すリズムに戻った。
——届いたか。
今の数秒が、首都にどう記録されたか。
たぶん、届いた。脳波の急峻な立ち上がり。
心拍の瞬間的上昇。電文に対する反応として、それは記録に値する数値だった。
彼女はゆっくり、電文をテーブルに置いた。
焦げかけた紙の端を、指で軽く撫でた。撫でたところで、もう焦げは消えなかった。
——証拠。
今の数秒が、「本当の彼女」が表に出た、最初の証拠だった。誰にも見せられない。
だが、彼女自身は、それを覚えていることになる。
覚えていることだけは、誰にも奪えない。
——いや。
奪えるのだ。
〈最終調整〉は、それを奪うために、ある。
「下がって」
声が掠れた。掠れの記録もまた、首都に届く。
伝令兵は敬礼した。
だが、踵を返す直前、彼の視線がほんの一瞬だけ、メイサの頭の白い布に止まった。
視線は驚きでも蔑みでもなかった。気の毒なものを見た、という色だった。彼はすぐに視線を逸らし、扉の向こうへ消えた。
その視線の色の方が、敬礼の機械性よりも、ずっと残酷だった。彼は知っているのだ。午後、何が起きるかを。知っていて、伝令という任務を遂行している。
扉が閉まる音が独房に残った。
メイサは立っていた。
手の中の電文。頭の白い布。口の中のリンゴの甘さ。
指先のかすかな焦げの匂い。
すべてが同時にそこにあった。
——午後。
あと何時間か。彼女の脳は自動的に、太陽の角度から逆算した。四時間。あるいは五時間。
その時間の中で何ができるか。
軍人としての演算が、もう一度、問いを立てた。
答えは、さっきと同じだった。
——何も、できない。
だが、さっきと違うことが、一つだけあった。
彼女の中の「返せ」は、消えていなかった。演算の下に、押し込められて、それでも消えずに、残っていた。
二十一年、底にいて、消えなかった声だった。
あと数時間で、消えるはずがなかった。
あの男が消毒液で拭うまでは。
メイサは窓辺に立った。
外で太陽が強く差していた。乾いた石畳。子供の声。市場の笑い声。
彼女がたった今、リンゴを食べた、あの朝。
その朝がまだ続いている。窓の、向こう側で。
メイサは頭の白い布に触れた。まだ温かかった。ラトの上着のポケットの温度だった。
——明日も、こうだったら、いい。
今朝の願いを、もう一度、口の中で繰り返した。
馬鹿げてはいなかった。間に合わないかもしれなかった。それでも、馬鹿げてはいなかった。
馬鹿げていないと思える自分が、二十一年目の今朝、初めて、彼女の中に居た。
その自分を、あと数時間で、消しに来る男がいた。
彼女は目を閉じた。舌の上の甘さが、焦げた紙の匂いに塗りつぶされていく。
それでも彼女は、白い布を解かなかった。
午後が、来る。
◆ルミナール戦記 外伝(note連載小説)
◆自己紹介記事

いいなと思ったら応援しよう!
記事をお読みくださり、ありがとうございます🌸
皆さまからのチップは、今後の情報発信を続けていくうえで大きな励みとなっています。いただいたご支援は、私の活力の源であるみーくんの餌代として、大切に使わせていただきます。これからも素敵な記事をお届けできるよう、精一杯努めてまいります。