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ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い―第2話「強制冷却」


メイサ・ヴァルキリー
救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。

前回のお話


第2話「強制冷却(フォースド・クーリング)」


垂直離着陸輸送機(VTOL)の貨物室は、重厚な油圧の唸りと、肌を刺すような冷気に支配されていた。
機体が揺れるたび、硬質な鋼鉄の座席がメイサの背を叩く。だが、その衝撃すら彼女の脳には「外部のノイズ」程度にしか届かない。

彼女の全身からは、高熱に焼かれた皮膚が発する白い蒸気が、陽炎のように立ち上っていた。
異能の過剰出力。血が内側から沸騰し、毛細血管の至る所が内出血を起こしている。

三メートル離れた位置では、電磁遮蔽機能を持つ厚い防護服を纏った軍医たちが、震える手でタブレットを操作していた。誰も近づこうとはしない。

今の彼女は、安全装置の壊れた高圧変圧器だ。不用意に触れれば、その瞬間に心臓が焼き切れる。

(……雨上がりの、アスファルト)
オゾンと焦げた油の匂いの奥で、ふいに記憶の断片が弾けた。

懐かしいはずなのに、肝心な風景がノイズに埋もれて思い出せない。掴もうと手を伸ばすたび、神経を焼く熱い痛みが意識を現実へと引き戻す。

「……冷却、まだ?」

掠れた声を出した瞬間、喉の奥の粘膜が焼ける音がした。

『あと五分だ、大佐』

壁のスピーカーから、操縦士の平坦な声が返る。

『今の君が発している電磁波で、機体のアビオニクスが全滅しかけている。これ以上は、共倒れだ』

メイサは、ひび割れた唇をわずかに歪めた。
(長いな。……この鉄の塊の方が、私より長生きするわけだ)

隣の席の若い医療兵が、不意に彼女と目が合い、短く息を呑んだ。彼はすぐに視線を伏せ、壊れたように指先を動かし続ける。

(……そりゃ、怖いよね)
責める気にはなれなかった。

小窓の外。雲の下には、宝石をぶちまけたような光の海が広がっている。ネクシア連邦「首都カイリオン」。
自分が今日、数万の命を燃料にして「守った街」。

灯りが、揺れて見えた。
街全体が巨大な吸血鬼のように、自分の命を吸い上げて輝いている。メイサは、静かに重い瞼を閉じた。


連邦軍特殊医療施設、地下七階。通称「ドック」。
格納されたVTOLのハッチが開く。メイサは、一人の人間として降りることは許されない。天井から降りてきた油圧式の機械アームが、彼女の軍服の背中にある緊急回収用のフックを無造作に捉えた。

「個体名:メイサ・ヴァルキリー。資産価値の点検を開始。強制冷却シークエンスへ移行」

機械的なアナウンス。
名前は呼ばれるが、それはシリアルナンバーを読み上げる響きと変わらない。メイサは、せめて一歩でも自力で歩こうと指先に力を込めたが、神経が焼き切れた右腕はピクリとも動かなかった。

(……吊るさないで)
声にはならない。
彼女の体は、そのまま過冷却溶媒が満ちた、垂直型の円筒タンクへと沈められた。

「あ――」

粘り気のある極低温の液体が、熱を帯びた全身を包囲する。触れた。冷たい。

次の瞬間、メイサの意識という名のガラスが粉々に砕け散った。
音が消える。視界が白熱化する。残されたのは、骨の髄まで噛み砕かれるような「温度の暴力」だけだ。

(……やだ)
思わず漏れたのは、訓練された大佐の声ではなく、迷子になった女性の泣き声だった。

熱いのか、寒いのか。
脳が混乱し、痛みの回路がショートする。
体内に閉じ込められていた過剰エネルギーが、冷却溶媒と激しく反応し、タンクの中で青白い火花が狂ったように瞬く。

(……誰か。誰でもいい)
吐息が、逃げ場のない泡となって昇っていく。
それが自分の最後の生命活動なのかどうかも、もう判別がつかない。

(……雨)
記憶の中の手。
大きくて、温かくて、雨を避けてくれた掌。

――行かないで。
メイサの指先が、虚空を掴むようにわずかに閉じた。
だが、冷酷な溶媒は、その小さな願いごと彼女を凍らせていった。


『神経伝達速度、正常域へ回帰』
『暴走リスク、消失。資産価値の損失、ゼロを確認』

防弾ガラスの向こうで、誰かが安堵の溜息を漏らす。
彼らはメイサを見ているのではない。
モニターに映し出されたバイタル・グラフが、適正な「商品価値」を示していることに安堵しているのだ。

三時間後。
タンクから引き上げられた彼女の肌は、陶器のように白く、静まり返っていた。床に落ちる水滴の音だけが、不気味なほど大きく響く。

右手が、ゆっくりと、震えながら動いた。感覚の消えかけた左手を、必死に握る。弱く、指の形をなぞる。

(……まだ、いる。私は、まだ、ここにいる)
その感触だけが、彼女をこの世界に繋ぎ止める唯一の証だった。

「大佐、聞こえるか」

完璧に磨き上げられた革靴の音が、硬質な床を鳴らす。
エドワード・カニンガム大将。
洗いたてのシャツと高価なコロンの匂いを纏った男が、彼女を見下ろしていた。

「見事だった。君のおかげで、連邦の信用は保たれた。……市民は君をこう呼んでいる。“歩く金利”とな」

メイサの指が、ピクリと止まった。

「……私は」

声は、肺に氷を詰め込まれたように掠れている。

「人を、殺した。……数万人」

「ああ、報告書で見た。二個師団が消滅した」

即答だった。

「敗走中に追撃で死んだ者を含めれば、五万に届く。
極めて効率的だ」

メイサは、少しだけ笑った。
喉がヒリつき、血の味がする。

「すごいね、私。……褒めて、ほしいのかな」

「君一人の『軋み』で、二億の市民の食卓が守られる。これほど安上がりな平和はない」

カニンガムは、まるで神学的な真理を説くように淡々と告げた。

「悲劇に酔う暇があるなら、次の利回りを計算したまえ。君が流す一滴の涙より、一パーセントのインフレの方が、この国を確実に殺す」

彼は背を向け、去り際に出口の消毒液で入念に手を拭った。まるで、目に見えない放射能か、あるいは穢れを忌避するかのように。

「明朝、南部へ移動する。海を沸かしてもらう。帝国軍の海上封鎖のせいで、物流が死んでいる。物価が上がれば、市民の不満が爆発するからな」

一拍。彼は扉を開け、最後にこう言った。

「市場が、君を待っている」

重厚な防爆扉が閉じ、メイサは再び、機械の唸り声だけの静寂に取り残された。
彼女はゆっくりと、傍らに用意された清潔な軍服を抱き寄せた。新品のはずの布地から、煙と鉄、そして自分の掌にこびりついた「焼きついた命」の匂いがする気がした。

(……まだ、分かる)
自分が犯した罪の感触。冷却溶媒ですら洗い流せなかった、このドロドロとした「人間」の感覚。

(……雨の音)
 遠い。けれど、まだ消えていない。

「……寒い」

誰にも届かない彼女の声は、次の「市場開放」を告げる無機質な警告音にかき消されていった。


◆ルミナール戦記 外伝(note連載小説)

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