読書ノート|浅田彰講演(抄録)「中平卓馬という事件」(『ART iT 第03号[特集]日本の写真』)
読書ノート|浅田彰講演(抄録)「中平卓馬という事件」(『ART iT 第03号[特集]日本の写真』)
本ノートは、『ART iT 第03号[特集]日本の写真』収載の、浅田彰講演(抄録)「中平卓馬という事件」(日本語・英語併記)の本文を最優先に読み、必要最小限の周辺情報を補って作成しました。引用・準拠箇所は本文の行番号付きで示します。
要約(チャプターごと/未読者向け)
1) このテキストの出自
2003年の横浜美術館「原点回帰—横浜」展に立ち会った経験を起点に、浅田は「中平卓馬は今も“現役の写真家”として生きている」と再確認した――この講演(抄録)は、その場で得た確信を背景に、「中平卓馬という事件」をあらためて捉え直す試みである。浅田は、展示全体のプロセスをつぶさに見て「やはり中平は“事件”だった」と述べ、発言の機会に感謝して話を切り出す。
2) 序文
浅田は自らを「写真に関しては素人」であり、中平を継続的に追ってきた専門家でもない、と前置きする。十分な準備をして臨む類の講演でもない、と断りを入れつつ語り始める。
3) ゴダールとの類似性
1968年に遅れてやってきた世代としての自己位置づけから、浅田は中平の「事件」を、同時代的に映画のジャン=リュック・ゴダールの実践(たとえば『東風』周辺の転回)と並置しつつ語る。ゴダールもヴェトナムには行かなかったが…と映画的文脈に差し込み、世代経験と媒体横断の比較枠を示す。
4) なぜ、「植物図鑑」か
中平の有名なスローガン「植物図鑑のような写真」は、“動物(あまりに生々しい)”と“鉱物(はじめから彼岸の堅牢さを誇る)”の中間にあるものとしての「植物」を指標にする。ベッヒャー夫妻の建築タイポロジーに代表される「鉱物的=安定・完成の図鑑」や、森山大道の「犬の視線」に喚起される“動物的=生臭さ”とも異なる、中間で揺らぐ像をめざしたと浅田は解釈する。
5) 「イノセンス」という誤謬
1977年の中平の倒れ込み以後、日本写真には「主観性・内面性への後退」が顕著になるという視点から、浅田は“イノセンス(無垢)”的傾向を批判的に扱う。これは「植物図鑑」的な複雑で不安定な次元(後述)から離反する、安直な“内面”への回帰だと位置づけられる。
6) 主観性と客観性のはざまで
浅田の読みでは、中平の「植物図鑑的な客観性」は、安定した鉱物図鑑型でも、内面の主観でもない。“主観でも客観でもないもの”を、不安定に揺らぐ次元でとらえる態度であり、近年の横浜の風景作品群にもそれが貫かれている。構図の“クリティカルな傾斜”がその端的な徴候として指摘される。
7) 「私写真」との決定的な違い
質疑応答では、長島有里枝やHIROMIXら“私写真”的実践との違いが問われる。浅田は“私生活=そのまま”が作品にならないと断ずるのではない、としつつ、作家本人を知ることで写真がよく見えて“転向”を余儀なくされた経験を明かす。同時に、“少女写真家の私写真”一般が本当にリアルと言えるのか、その意味が問い直される。つまり、中平の写真にある「言語によってくさびを入れる」批評的回路(後述)と、“生活のそのまま”を煽る回路の差異が、決定線となる。
論点整理(本文の骨格)
「事件」としての中平
2003年展覧会を見て“中平=事件”を再確認。
「植物図鑑」概念の核心
鉱物=安定・堅牢、動物=生々しさ、の中間としての植物。中平の志向は“図鑑”だが、安定した鉱物図鑑ではなく“植物図鑑”の不安定な揺らぎにある。
「主観でも客観でもない」領域
“植物図鑑的客観性”=主観/客観の二分を溶解する第三の地平。近年の横浜風景作にも継続する。
“イノセンス”批判と時代状況
1977年以降の写真界で内面/主観への退行が強まる流れに、批判的距離を取る。
ラカン語彙による位置づけ
“イマジナリー/シンボリック”を削ぎ落とし、“リアル”に迫る写真の思考として中平を捉える(言語による切断=批判的操作を含む)。
形式面の徴候:クリティカルな傾斜
水平・垂直ではなく、“不安な斜め”の構図が継起する。これは中平初期からの特徴でもある。
「私写真」との差
“そのままの私生活”と“言語(批評)によるくさび”の差異。私写真一般の“リアル”概念の吟味。
用語解説(本文で重要なキーワード)
「アレ・ブレ・ボケ」
1960年代後半の日本写真で称された粗粒子・ブレ・ピンぼけの表現傾向。浅田の冒頭説明で、中平は70年代にこれを「完全自己否定」した、とされる。「植物図鑑的客観性」
中平が志向した“図鑑”は、静的で安定した「鉱物図鑑」ではなく、揺らぎを孕む「植物図鑑」型。主観/客観の二分法を撹乱する“中間”の不安定さを積極的に引き受ける態度。「イノセンス(無垢)」
1977年以後、写真界が“内面”へ後退した流れの標語として批判的に扱われる。浅田は、そこに“イノセンスという誤謬”をみる。イマジナリー/シンボリック/リアル(ラカン)
中平の写真=“イマジナリーな思い入れ/シンボリックな意味付与”を削ぎ落として“リアル”に迫る実践、と浅田は読む。写真の“ための”言語的切断=批評操作によって、像の“ノンセンスな輝き”を立ち上げる。ベッヒャー夫妻のタイポロジー
給水塔やサイロ等を“図鑑的に羅列”する高完成度の客観主義。浅田はこれを「鉱物的=安定性」と捉え、中平の「植物図鑑」志向と区別する。「クリティカルな傾斜」
水平・垂直ではなく、どこかに“傾き”が感じられる構図。主観でも純客観でもない“間”の不安定さを可視化する徴候。「私写真」
生活世界や私事の開示を写真表現の核にする潮流。浅田は一律に否定せず、その“リアル”概念を問い直し、中平の“批評としての言語的くさび”との違いを強調する。
批判分析(初学者向けに平易に)
強み—二分法を壊す読み
浅田は、中平の“図鑑”スローガンを紋切り型に解さない。主観/客観の二択を外し、“中間で揺れる像”を撮るという読みは、写真の本質をめぐる古典的な対立をうまく越境する。形式上の“傾斜”にまで目配りし、それを知覚倫理(どこに立って見るか)として読み替えるのも説得的だ。方法—「言語によるくさび」を擁護する理由
浅田は、言語論や記号論のために写真を語るのではなく、写真のために言語で切断を入れるのだと明言する。これは、像の“ノンセンスな輝き”(意味づけを払い落としたリアル)に近づくための“批評としての技法”だと位置づけられる。写真を言説で押さえつけず、像を立ち上がらせるための最低限のくさびに言語を使う、というバランス感覚がある。争点—「イノセンス批判」の射程と限界
“1977年以後の内面回帰”への批判は、当時の言説状況を踏まえれば首肯できる。しかし、「私写真」全般の多様性(性差、階級、世代、メディア環境)を、単一の“イノセンス”で括ると、個々の実践がもつ政治性/社会性/制度批評性を見落とす恐れがある。浅田自身が長島有里枝の作品理解で“転向”を語るくだりは、その再評価の動きをすでに内包している。むしろ本質的な分岐は、“そのまま”の提示か否かではなく、「見る位置(傾斜)」と「言語による臨界の挿入」をいかに組み込むかにあるのではないか。比較—ベッヒャー的客観主義とのズレ
中平の「図鑑」は、安定した鉱物的タイポロジー(ベッヒャー)とは違う。完成度や規範値で固定せず、中間での揺らぎと偶発の侵入を許す。ここに**「植物」という比喩の力**がある――生長や季節、環境への開放性を帯びるからだ。浅田の読みは、図鑑という語の字面の“硬さ”を、ゆらぎの操作へと反転させる。含意—現代の撮影実践へのヒント
“主観でも客観でもない”領域を探ることは、AI時代の画像生成やアルゴリズム的類型化への対抗にも通じる。型(タイポ)に回収されない“傾き”を意識的に作る、言語で最小限の臨界を入れるといった所作は、今なお有効な実践原理である。
まとめ(結論先出しの要点)
中平=「事件」:70年代の自己否定を経て、「植物図鑑」概念で写真の原理を組み替えた転回そのものが“事件”。
「植物図鑑」=中間の倫理:主観/客観の二分法を外し、不安定な“中間”で像をとらえる操作。
批評としての言語:言語は写真を縛るためではなく、**リアルに迫るための“くさび”**として使われる。
“イノセンス”批判:77年以降の内面回帰を相対化。ただし「私写真」一般には多様性があり、一律化は慎重であるべき。
参考文献(参考文献リスト形式)
浅田彰「中平卓馬という事件(講演抄録)」『ART iT 第03号[特集]日本の写真』REALCITIES, 2004, pp.62–72.(本ノートは当該本文に拠る)
横浜美術館「原点回帰—横浜」展(2003)—本文内参照。
(比較参照)Bernd & Hilla Becher のタイポロジー—本文内の対比文脈に基づく。
(比較参照)Jean-Luc Godard『東風(Vent d’est)』周辺への言及—本文内の並置に基づく。
ハッシュタグ(20)
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注:本文の日本語テキストを中心に参照し、英語版を適宜照合しました(本誌はバイリンガル構成)。引用はいずれも『ART iT 第03号』の該当箇所です。
