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読書ノート|甲斐義明『ありのままのイメージ―スナップ美学と日本写真史』第3章「被写意識と反演劇性:木村伊兵衛の肖像写真」

(底本:甲斐義明『ありのままのイメージ—スナップ美学と日本写真史』東京大学出版会, 2021[A5判・360頁]。ISBN 978-4-13-080223-9。本文は書籍を最優先に参照・要約)


イントロダクション

ずっと積読だった甲斐義明『ありのままのイメージ』を読み始めたのは、自分の写真スタイルを日本写真史のどこに置くかを考え直すため。これまで「有名作家の系譜+ヴァナキュラー写真の補遺」という語りに寄りがちだったが、本書は日本の「スナップ」を単なる撮影技法ではなく〈ジャンル=制度〉として捉え、カメラ雑誌やメーカー、写真家/愛好家の実践が織りなす言説のなかで、その形成・流通・規範がどう出来上がってきたかを跡づける。読み進めると、当たり前と思ってきた「スナップらしさ」の背後に、規範や制度が作動してきたことが、手触りを伴って実感される(序論の枠組みについての詳しい提示は序論読書ノート参照)。
https://note.com/wayofseeing/n/n247b63e3e47f?sub_rt=share_pw


要約(第3章)

第3章の狙い(章総説)

第3章は、モデルの「被写意識」(撮られている自覚)が画面の表面に与える影響をどう回避しうるか、という課題を中心に、木村伊兵衛の肖像・スナップを検討する。ここで参照されるのが、美術史家マイケル・フリードの「没入と(反)演劇性」論である。本章は、スナップをキャンディッド・フォト(被写体に気づかれずに撮ること)とイコールにしない立場から、スナップ美学の核を「被写意識の忌避=反演劇性」として捉え直す。


1 木村伊兵衛の《文芸家肖像》

1930年代前半、名取洋之助の日本工房で開催された個展に合わせて構想・制作された木村の《文芸家肖像》は、当時の新興写真の文脈にありつつも、背景や環境と人物の関係に重きを置いた従来作から転じて、被写体の「顔・上半身」に焦点を絞り、表情・仕草の瞬間に表れる「個性」を捉えようとする。小型ライカと73mm相当の中望遠レンズを用い、距離と視角を調整して、顔貌のわずかな緊張や弛緩が立ち上がる瞬間を掴む撮影法が選ばれた。こうした指向は、プロマイド屋の演出的肖像や女性像のレトリックとは異なる方向を示し、短時間の「一発勝負」というよりは、複数回の撮影機会と相互の関係性のなかで「瞬間」が立ち上がるという理解に基づいていた。

また、同連作の一部は『朝日カメラ』1934年1月号に掲載され、当時の写真雑誌空間で受容・流通した点も強調される(掲載誌情報)。


2 被写意識

「被写意識」とは、撮影されていることの自覚(自己意識)が写真の表面(画面)に与える影響である。本章の核心は、その影響を画面に「表れさせない」こと=被写意識の忌避が、スナップ美学の規範として機能してきた事実を木村の実践から明らかにする点にある。ここで重要なのは、被写意識の忌避が「気づかれずに撮る」という狭義のキャンディッド・フォトの定義と必ずしも一致しないことである。被写体が撮影を知っていても、被写意識が画面に立ち上がらない構図・距離・タイミングを選ぶことで「自然さ」を成立させうる、という理解が示される。


3 スナップ美学と反演劇性

スナップ美学の核としての「被写意識の忌避」は、美術批評家マイケル・フリードの用語でいえば「反演劇性(anti-theatricality)」に近い。フリードの議論は本来、ミニマル・アート批判(1967)および1970年代末以降の大判・壁掛けのアート写真の制度的成立に際して、作品と鑑賞者の関係が「演劇的」になることを批判し、それに対置される「没入(absorption)」を擁護したものである。本章はこの語彙を援用しつつも、対象は1930年代日本の肖像/スナップであり、作家‐被写体‐媒体‐雑誌的受容という別の制度環境で機能している点に留意する(フリードの文脈との差異が本文で明示)。

(参考:フリードの原典的議論は「Art and Objecthood」(1967)が基盤で、写真論としては『Why Photography Matters as Art as Never Before』(2008)で現代写真の「(反)演劇性」問題を展開する。要点整理は下の用語解説に併記。) (The Claybucket, フリーズ)


論点整理(詳細)

  1. 《文芸家肖像》の方法論
     被写体の顔貌・上半身へ焦点化し、表情・身振りの「瞬間」に個性が閃く場面を狙う。中望遠73mmを含む小型ライカの選択は、被写体との距離・視角を微調整し、演出臭の少ない「自然さ」を作るための制度的・技術的決定だった。

  2. 雑誌制度と受容
     個展と雑誌掲載(『朝日カメラ』1934年1月号)という発表回路が、スナップ美学の規範化・普及に寄与した。

  3. 被写意識の定義と扱い
     被写者の自覚が画面に及ぼす「表面効果」をいかに制御し、画面上に出さないかが、スナップ美学の神経中枢だった。

  4. 「キャンディッド=スナップ」ではない
     狭義のキャンディッド・フォト(気づかれずに撮る)とスナップ美学(被写意識の忌避)は重なりもあるが同一ではない。木村は市井でのキャンディッドも撮るが、肖像では「気づかれているが被写意識が画面に立ち上がらない」瞬間を追求する。

  5. 反演劇性の導入とすり合わせ
     フリードの「反演劇性」は本来、(a)ミニマル・アート批判の文脈(1967)と、(b)1980年代以降の大判アート写真の展示文脈(壁面前の身体的距離)での議論だが、本章はその語彙を肖像スナップの「自然さ」と接続して読み替える。差異の自覚(規模・展示・観者関与の位相の違い)が本文で明示される。 (The Claybucket, フリーズ)

  6. 「人形写真」との距離
     過剰な演出・レトリック(プロマイド的演劇性)と一線を画し、「生じる瞬間」を尊ぶ。これは「無演出」ではなく、被写体/距離/視角/反応の調整による「演出の反転」である。


用語解説

  • 被写意識
     「撮影されることの自覚(自己意識)が画面の表面に与える影響」。スナップでは、その影響が画面に表れないことが理想とされる。

  • キャンディッド・フォト
     被写体に気づかれずに「自然な表情」を撮る手法。1920–30年代に小型カメラとグラフ誌の隆盛とともに確立。スナップと重なるが同一ではない。 (artscape)

  • スナップ美学(日本型)
     「自然さ」「非演出」「偶然性」を重んじるが、実際には制度(雑誌・メーカー・サークル)と教育・規範の産物として形成・流通し、作家と愛好家の実践を規定してきた。

  • 反演劇性(anti-theatricality)
     フリードによる概念。観者の存在を意識させて「舞台化」する芸術(演劇性)に対し、観者を忘れさせる「没入」を擁護。写真については、1970年代末以降の大判・壁掛け写真の制度化に伴って、観者と作品の関係をめぐる再調整が起きたと論じる。(The Claybucket, フリーズ)

  • 《文芸家肖像》
     1930年代、木村伊兵衛が文芸家たちを撮影した連作。中望遠(73mm)を主に用い、表情・仕草の「瞬間」を捉える方法で、演劇的演出から距離をとった。雑誌掲載(『朝日カメラ』1934年1月)も含め、雑誌制度の回路を通って評価された。

  • 新興写真
     1930年代のモダニズム写真運動。小型カメラによる新視覚・異化を経て、「自然な」映像の追求へ価値が反転していく文脈(第2章の射程)を背景に本章が展開。


批判分析(厳密モード)

  1. フリード概念の移植可能性
     本章の読み替えは説得力がある一方、フリードが想定したのは「大判・壁掛け・美術館」という観者距離・展示制度が強く関わる状況(1970s–)であるのに対し、木村の実践は1930年代の雑誌・工房・サロン的回路に依拠する。したがって「反演劇性」の効果因が、観者-作品関係よりも被写体-写真家-誌面の編集制度に大きく依存している可能性が高い。ここは本章も差異を明示しつつ導入しており、移植の慎重さが担保されている。 (フリーズ)

  2. 「自然さ」の構成性
     被写意識の忌避は、無演出の同義ではない。距離・視角・焦点距離・反応の時間差の設計によって「自然な表情」を構成している(73mm運用はその好例)。「自然さ」は実は高度に作られた規範=美学であり、偶然性の神話化に注意が必要である。

  3. キャンディッド・フォトの限界
     キャンディッドの定義(気づかれずに撮る)は、肖像撮影の倫理・関係性の問題を十分にカバーしない。木村の肖像は「気づかれているが被写意識が表に出ない」という関係の作り方を示し、キャンディッド=善/演出=悪という二分を脱構築する。 (artscape)

  4. ジェンダー/被写体階層の問題
     《文芸家肖像》は主に男性知識人を対象とする。プロマイド的女性像から距離をとる点は重要だが、被写意識の忌避がどのように対象の階層・職能・ジェンダーによって達成されやすさ/されにくさを変えるか、という権力布置の分析は、今後の課題として残る(本章は方向を示すが、制度史的補強が望まれる)。

  5. 「反演劇性」の倫理化のリスク
     被写意識の忌避=反演劇性が「より良い写真」という規範に直結すると、結果として「演劇的」表現や被写者と交渉する撮影(協働・演出)を不当に劣位化しうる。フリード批判が現代写真で再燃した理由(観者関与の再編)を踏まえると、多様な「演劇性」の使い方を評価する視座も併置すべきだろう。(CAAREviews)


まとめ(未読者向け着地点)

第3章は、木村伊兵衛の肖像実践を通じて、日本のスナップ美学が**「被写意識を画面に出さない」ための技術・距離・視角・反応の設計として成立してきたこと、そしてそれがキャンディッドの単純な同義ではなく、反演劇性という美学的規範として歴史化できることを示した。小型カメラの機動性は、偶然を待つ道具であると同時に、偶然を起こりやすくする環境設計**の道具でもあった——この「構成された自然さ」こそが、日本のスナップ美学の核心である。


参考文献(本章作成時に参照)

  • 甲斐義明『ありのままのイメージ—スナップ美学と日本写真史』東京大学出版会, 2021(書籍PDF参照)。

  • 同上,第3章(「木村伊兵衛の《文芸家肖像》」「被写意識」「スナップ美学と反演劇性」)の該当箇所。

  • 東京大学出版会ウェブページ「ありのままのイメージ—スナップ美学と日本写真史」(刊行データの確認)。(東京大学出版会)

  • Michael Fried, “Art and Objecthood” (1967)(反演劇性概念の基礎)。(The Claybucket)

  • Michael Fried, Why Photography Matters as Art as Never Before (2008)(写真における(反)演劇性の再検討:各種レビュー/要約)。(フリーズ, CAAREviews)

  • Artscape Artwords「キャンディッド・フォト」「スナップショット」(用語史の補足)。(artscape)


ハッシュタグ(20)

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