意味の意味とは? −二つの意味 「デノテーション」と「コノテーション」
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「意味について研究しています」
そう自己紹介をすると「意味って、結局何なんですか?」と聞かれることがよくある。
意味の意味
意味という言葉自体は、特段めずらしいものではない。
多くの人が子供の頃から知っている言葉だろう。
この言葉の「意味は〜」とか、学校などでもよく聞く言い方だろう。
ところが、意味の「意味」を考えようとすると、これがなかなか謎なのである。
日常に、あたりまえのような顔をして存在しているモノが、実は深い深い光で充満した闇への鍵だった。例えて言うならそういう感じだろうか。
前にこちらのnoteで、「意味する」とは「置き換える」ということであると書いた。
意味は「もの」ではない。
意味という「もの」が存在するわけではない。
意味の正体は何か特定の形を持ったものとして存在しているわけではない。
意味ということは「置き換える」操作である。
それは手続き、処理、作用といった動的な過程である。置き換えが生じるところに、意味という作用が生じる。
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「りんご」という言葉の意味は、あの赤くて丸いモノのことである。
おや、そうなると、意味は「(あの赤くて丸い)モノ」じゃないか?
そう言いたくなるところであるが、違うのである。
何かのモノが、何か別のものの意味の「正体」であるかのように見えるのは、その前段で、置き換えるという処理がすでにおこなわれているからである。「りんご」を発声した時の音声あるいは文字列を、あの「赤くて丸いもの」に置き換えたからこそ、「りんご」という言葉の意味が、あの赤くて丸いモノのこと、になったのである。
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なるほど、意味というのは「置き換え」から始まるのか!
と、思っていただけたかもしれないが、実は「置き換え」が意味するということのスタートラインではない。
◇
置き換えの前に、もうワンステップ別の手続き、処理、作用の動的な過程が動いている。
それは即ち「区別する」ことである。
例えば、Aの意味がBですよ、という場合、AをBに置き換えることができるためには、大前提として、AとBが別々のものでなければならない。
当たり前だろうと思われるかもしれないが、このAとBが別々であるということは、まったくぜんぜん自明なことではない。
意味あるはずの世界で、意味があるようなないようなことに迷う
私たち人間が生きる世界とは、意味ある世界である。
私たちの周囲には私たちが感覚したりイメージしたりできるものたちが溢れている。
私たちは、その時、その都度の「いまここ」で、自分自身にとって意味のあるものたちを次々と発見しては、その意味あるものたちの提示する意味に従って、自分自身の行動を意味あるものにする。
それこそ「人生なんて、無意味だ。自分が生きるこの世界に何の意味もない」などと思う瞬間においてさえ、私たちは意味ある世界の圏内に捕えられている。
つまり「意味がある/意味がない」ということを区別・分別して、そして「意味がある方が良く」て、「意味がないのは悪い」のだ、と思っている。もちろん逆でもいい「意味があるなんてかっこ悪い」「無意味な方がかっこいい」というのもありである。
意味がある / 意味がない
|| ||
良い / 悪い
このような二項対立関係の重ね合わせ。これが私たちにとっての意味ある世界の最小構成単位である。
* *
例えば、初めて訪れたある駅のホームにいるとしよう。そこはいわゆる島式ホームで、一つのホームの両側に北行きと南行き、それぞれの方向の列車が入る。
さて、今私は「北行き」に乗ろうとしているとしよう。
ちょうどホームに列車が入線する。
さて、私は、この列車に乗るべきか、乗らざるべきか?
乗って良いかどうか判断するにはどうすれば良いか。
一番手っ取り早いのは、列車の行先表示をみるという方法だろうか。音声案内を聞くという手もある。「この列車は、北行きです」と書いてあったり、放送されていたりすればOKである。
ところが、もしこの表示が「県立スポーツの森駅行き」とある場合、どうだろうか。私は初めてこの街を訪れており、その「県立スポーツの森」なるものが、北方面の駅名なのか、それとも南方面の駅名なのか、知らないとする。
この時の私は、下記のような意味の世界に生きている。
北行き /<分別>/ 北行きではない
|| ||
乗っていい /<分別>/ 乗ってはダメ
乗るか乗らないか。
どちらを選ぶか?!
どちらを選ぶか決定するために、北行きか北行きでないか、を分別しなければならない。この時「北行きです」のアナウンスは端的に「北行きではないではない」と宣言しており、これを聞いたなら「よしこれに乗ろう」と意味ある行動をとることができる。
しかし、未知の駅名「県立スポーツの森駅」では、北か、北ではないか、分からない。そう、まさに分からない。読んで字の如く「分」かることができない。こうなると、「県立スポーツの森駅」という情報は、今目の前に入線した列車に乗るか乗らないかを分別しようという私にとっては意味がないものになる。
北行き /<分別>/ 北行きではない
|| ||
乗っていい /<分別>/ 乗ってはダメ
?||?
〜 〜 県立スポーツの森駅 〜 〜
「県立スポーツの森駅」が北と南の間を行ったり来たり、漂っている。
*
器用な人であれば、駅のホームに立った時の時刻と太陽の位置を確認することでどちらが北か分かる場合もあるだろう。午後四時くらいで、ホームに立つと、ある方向から鋭い直射日光が目にとびこんできたとしよう。これだけでもう、大体どちらが「西」であるかわかるのであり、そうなれば、自動的にどちらが北であるかも分別できる。
北
西 東
南
ホームに立って太陽の方角を確認しただけで、どちらか北か分かる。この場合、ホームの向きだけですでに意味ある情報となる。
(・・いや、この話は、線路が南北方向の直線でないと成り立たない。ホームが東西方向に伸びていたら北の方角はわかるとしても、東へ行く列車と西へ行く列車、どちらがこのあと北方向にカーブしていくのかは謎である。あらかじめ地形と鉄道のルートとを重ねて記憶しておかないといけない。あるいは路線自体が、U字やJ字をしており、北行きの列車は当駅から一旦南に向かった後にぐるりとカーブして北方向に進路を変えるのだとすれば、乗車地点で北方向に向けて出発したかどうかは、「北行きである/ない」「乗って良いかダメか」について何の意味もない。・・・)
分けるから分かれる
物事をどのくらいの分解能で(解像度で)区別識別できるかは、個々人の知識やアクセスできる情報による。さらに言えば、個々の生命の、生物の、個体の、神経システムの性能あるいは癖による。
ユクスキュルの『生物から見た世界』にあるように、小さなダニのような生物でも食べられそうなものと食べられなさそうなものを区別識別して、食べられそうなものが接近してきたと思えば、それまでじっとしていたものが飛び跳ねるといった行動を起こす。
個々の生命個体は生まれ持った基本的な自他識別のためのシステムを駆使して、自分自身とその環境世界(環世界)を区別し、その区別を再生産し続けるように、栄養分を取り込み、廃物を外に出すように動き続けることで「生きて」いく。
※
分けること、重ねること(重ねる向きを選ぶこと)
意味するということは、その時々で、分別された二項の対立関係を、二つ重ねる、ということに他ならない。この例は、
北行きにー乗りたい / 非-北行きにー乗りたくない
という話であるが、これは
1)北行き / 非-北行き
2)乗りたい / 乗りたくない
この二つの二項対立関係をピッタリと重ね合わせて一つにしたものである。
北行き / 非-北行き
|| ||
乗りたい / 乗りたくない
この重ね合わせの向きは逆になることもある。
例えば私が、無事に北行きに乗って、目的地を訪れ、そして滞在先に戻るとしよう。今度は言うまでもなく「南行き」に乗らねばならず、「北行き」に乗っても目的地から遠ざかるばかりである。
北行き / 非-北行き
|| ||
乗りたくない / 乗りたい
北行きであるかないか、と乗りたいか乗りたくないかは、別々の分別(二項対立)であり、この二つの二項対立をどちらの向きで重ねるか、その重ね合わせの向きは、さらに別の二項対立、この場合は目的地に近づいていくか/遠ざかっていくか、と言う分別によって定まるのである。
北行き / 非-北行き
|| ||
乗りたくない / 乗りたい
|| ||
目的地から遠ざかる / 目的地に近づく
ちなみに目的地に近づく/遠ざかるの分別も、目的地に近づく方が「良く」、目的地から遠ざかるのが「悪い」と言うことであり、良い/悪いと言う二項対立が重なっている。
こういう具合に知らず知らずのうちに、無意識のうちに、私たちはいくつもの二項対立関係を区切っては重ね合わせながら、対立する二項のどちらを選ぶのか、北行きを選ぶのか、南行きを選ぶのか、といったことを判断しながら生きている。
私たちが経験する世界はこのように、いくつもの二項対立関係があらかじめ重ね合わされた場としてできている。
*
ところで、この二項対立関係の重ね合わせは、それほど確固たるものでもない。重ね合わせの向きはクルクルと入れ替わる。この入れ替わりの動きそのものを感じ取ってしまう時、私たちは、「選べない」と言う状況に直面することもある。
二項対立関係の一連の重ね合わせから、どちら側を選ぶのか、と言う問題は、要するに二項対立関係の重ね合わせの連鎖の終端に、選ばれる方/選ばれない方の分別をつなぐ、と言うことである。
私たち人類が、この身体をもってしては同時に複数の地点に存在することができず、同時に何百もの映画を見ることもできなければ、同時に何百の曲を聴くこともできない(もちろん、スクリーンを100枚並べて当時に映画を映せば、”同時に”多数の映像の光を眼球に反射させることはできるが、しかしそれは「映画を見た」と言うことにはならない)。
私たちは、いつも常に、何かを選ばなければならない。
つまりある分別、二項対立の連鎖について、どちら側を選ぶのか、選ばれる側と選ばれない側を分別しないといけない。
ところが、ある二項対立(Aと非Aの二項対立)に対して、選ばれる/選ばれないの二項対立をどちらの向きに重ねるかは、自在に逆転する。
1)
A / 非-A
|| ||
選ばれる / 選ばれない
2)
A / 非-A
|| ||
選ばれない / 選ばれる
この1)と2)はどちらも可能である。
ここで1)か2)か、どちらかを選ぶためには、何か別の切実に切迫した分別が必要である。
例えば、
Aが苦手な食べ物
非-Aが好きな食べ物だとしよう。
A / 非-A
||
苦手な食べ物 / 好きな食べ物
この場合、どちらを選ぶかと言われたら、非-A=好きな食べ物を選ぶというのが自然である。
しかしここで例えば、次のような二項対立が連鎖するとしよう。
体に良い / 体に悪い
医者に推奨されている / 医者に禁止されている
腐っていない / 腐っている
||
A / 非-A
||
苦手な食べ物 / 好きな食べ物
こうなってくると、Aを「非-A」を「好きな食べ物だから」と言う理由づけをして、選ぶことはできない。体に良いから、医者が薦めるから、といった理由で、苦手なものでも選んで食べる。また「腐っている」となると、それは好きだからということを理由には選べない。
ちなみに理由づけと言うのは、選ぶ/選ばないのA/非-Aへの重ね合わせの向きを一方に決める時に、その決めた「理由」を他者から尋ねられた時に、「なぜなら〜〜だからです」と、説明すると言うことであり、そこには「体にいいから/体に悪いから」、「医者に決められているから/禁じられているか」といった別の分別、二項対立が引っ張り出されてくる。こうした理由づけをする二項対立が、しばしば選ぶ/選ばないの二項対立に直結している。
私たちは、自分が何かを何か以外から分別して選ばざるを得ない時、選んでいると言うこと、選ばれる方と選ばれない方を分別しているのだということを必ずしも自覚していないこともある。
あるいはまたこの選択において、なぜこちらを選ぶのか、と言う理由づけのためにどう言う分別、二項対立を直結しているのか、と言うことについても自覚的でない場合が少なくない。
置き換えるやり方の二大方策 −ふたつの意味
意味が「置き換えること」であると書いたが、この置き換えるやり方には大きく分けて二つがある。そして置き換え方の二つのパターンに対応して「意味」にも二つのあり方がある。
◇第一のパターン:置き換え方を固める
第一の置き換えは、ある何かから他の何かへの置き換えを、いつも同じようなパターンで反復しようとする。
いわば同一性へと回帰しようとする反復である。このタイプの反復からは、安定的に再生産されるコード(辞書のようなもの)が形成される。そうして一度コードが形成されてしまうと、そのコード自体が参照項となって、さらに強力に同一パターンでの反復が繰り返され、コードはますますその同一性を強化されるようになる。
そうしてりんごをみかんとは言わないとか、馬を鹿とは言わない、といったレベルの日常の安定した所与のものという外観を呈した意味の体系が形成される。
※
◇第二のパターン:置き換え方を変えていく
一方、第二の置き換えは、この第一のパターンが作り出すコードから超出しよう、脱出しよう、とする置き換えである。
それは所与のものという外観を呈した日常の意味を逸脱するような、思いも掛けない「置き換え」を行う。そうして第一のパターンの安定した辞書的な意味の秩序の中には予め書かれていないような、意表を突く言葉と言葉、何かと何かの突く組み合わせを引き起こす。
※
この二つの意味の区別については、これまでコトバということの神秘を徹底的に思考した、さまざまな論者によってさまざまな概念のペアで呼ばれてきた。
例えば、ソシュールによるラングとランガージュ、信号(シグナル)と象徴(シンボル)、折口信夫の直接性と間接性、井筒俊彦のデノテーションとコノテーション、吉本隆明の自己表出と指示表出、あるいは中沢新一氏の非対称性の論理と対称性の論理(ロゴスとレンマ)の対比、などである。
デノテーションとコノテーション
井筒俊彦氏の『言語と呪術』(1956)では、意味の二つのあり方は、デノテーションとコノテーションという言葉で区別される。
その内容は次のように整理される。
デノテーション
まずデノテーションとは意味の外延的、指示作用的な側面であるという。
デノテーションはある言葉の意味のうちでも「現実の断片」と「直接連結」していると考えられるものであるという。デノテーションとしての意味は「名が正確に妥当するもののみを示す」ものである。ここでいう指示作用とは「言葉とそれが指す物との間にある直接的な関係」が想定される場合の置き換えである。
コノテーション
これに対してコノテーションとしての意味とは、内包的であり、論理的には「何であれ名によって呼ばれるために所有していなければならない複雑な特性あるいは特性の集合」である、という。
井筒氏の文脈からこの部分だけ切り離してしまうと、なんだか分からなくなってしまって恐縮だが、要するになんであれいろいろな互いに区別される事柄が一つにまとめられたり結ばれたりする、といったところである。
井筒氏は、コノテーションを「前論理的な境位」であるとする。
それは「いかなる種類の論理的な精緻化もいまだ受容されていない段階」である。コノテーションはデノテーション的な意味の「表示」や「指示」に先行し、それを可能にする意味生成の相であるという。
名としての言葉(名称語)の使用は,それが正確に何を指示(外延)するか知るまえですら,あるいは(より重要なことであるが)「外延対象」がまったくないときでも,「何か」を示唆したり心に呼び起こす傾向がある。[…]内包=心象がもつこの本来的な不鮮明さこそが,良かれ悪しかれ,言葉の意味の内的構造を作り上げ,われわれの言語を成立させているのである。
井筒俊彦氏は内包=コノテーションについて「それ自体では非常に貧弱なもの」であるとする。それは「せいぜいのところ,単なる心象」であり「曖昧で,不確定的で,まったく無力な何か」であるという。
意味生成
しかし、コノテーションは同時に「潜在的な可能性の宝庫」でもあり「条件が揃えば思いがけない分岐線にそってさまざまに展開しうる」ものである。この点でコノテーションは完成した論理的なコード体系をなすデノテーションの意味に先立ち,それを生成する過程ということになる。
後の『意識と本質』でも井筒氏は言語の伝達機能と意味分節的機能を対比し、前者に「不相応な重点が置かれる」ことの難を指摘し、「意味分節的機能にこそ第一の重点」が置かれなければならないと論じている。
この伝達機能というのがデノテーション、つまり同じ様なパターンを反復する置き換えに基づく日常的常識的な出来合いの意味の世界を作り出す。
そして意味分節機能というのがコノテーション、つまり何かと何かを自在に結びつける(結びつけては切り離す)ことで新たな置き換えの可能性を試し続ける意味創造のプロセスを動かす。
*
新しい意味を発生させる
言語学者の池上嘉彦氏も、その著書『記号論への招待』で、この二つの意味について論じている。
第一の意味とは、明確なコードの存在を前提する意味作用。
第二の意味とは、新しいコードの提案を含む意味作用、である。
井筒氏の用語で言えば、前者やまさにデノテーション、後者はコノテーションである。
明確なコードの存在を想定した意味の方が日常的な意味であり、そこでは送信者と受信者がコードを共有する。決まったコードに基づいて送信者は意味をメッセージに置き換え、受信者へと送る。受信者はメッセージを送信者と同じコードによって解読し、その意味を再生する。これはクロード・シャノンの情報理論が想定する通信のモデルと同じである。
コードが同じなら、送信者と受信者にとってメッセージの意味は理想的には全く同じになる。
というか、メッセージの意味を送信側と受信側で「同じ」にするために、コードの一貫性を徹底して保持することが必要なのである。
ところが人間同士の間では言葉の意味は同時に複数の異なるコードで解読しうる。言葉を日常のコードとは異なるパターンで組み合わせる時、コミュニケーションは既成のコードを超えた新しいコードの提案を含むことになる。
とはいえ日常生活は単一の固定したコードに基づく決まった意味を持つ記号によってその運行が支えられているように見える。
意味はいつも同じ既成のコードによって保証されるべきものとされ、言葉もまた表層的には一義的な信号、デノテーションとしての側面を際立たせる。
言語のコードを管理する社会
『レンマ学』の中沢新一氏が以前から論じている「非対称性の論理」と「対称性の論理」の対比もまた、この二つの意味の相を論じたものである。
(難解とも言われる『レンマ学』については、下記のnoteで詳しくわかりやすく(?)読み込んでいるので、ぜひご参考にどうぞ)
※
中沢氏はヒトの脳には異なる領域の情報をつなぎ合わせ、異なるものに「同じ」を見つける「対称性」を見出す能力があるとする。この能力は多義的な象徴を生み出す。これが言葉の基層となる。
ところが、一度出来上がった「つなぎ合わせ」方が同じパターンで繰り返され他のつなぎ方が排除されるとき固定的なコードが現れ、対称性の論理は破れ非対称性の論理が始まる。
非対称性の論理で動く固定的にコードされた記号は、世界の意味を誰にとってもいつでもどこでも同じもの、一義的なものにする。
非対称性の論理を支える一義的な記号は、都市、国家、あるいは文字の発展とともに数千年で世界を覆い尽くした。20世紀以来のマスメディアでも一義性に基づく非対称性の論理が駆動している。
このあたりの話は『精霊の王』に詳しい。
(ちなみに『精霊の王』についても、下記のnoteで精読しているのでご参考にどうぞ。)
中沢氏は、異なるものを結びつけたり、新たな置き換えの可能性を試したりすることで、新しい意味を生む「対称性の論理」の力を社会の表面に引き出す可能性を探っている。
人間に許された自在な「置き換え」の可能性を、固定的なコード=意味の再生産に切り詰めるのではなく、人々の間で意味の変容のプロセスを動かすために用いることを提唱する。
このあたりの話は、中沢氏とも関わりの深い安藤礼二氏の『列島祝祭論』にも、その具体的な姿を見ることができる。
あるいは山本ひろ子氏の『変成譜』も、荒ぶる象徴、置き換えの爆発に対して、どうにかこうにかコードの体面を与えようとした思想の一面を捉えている。
さらに言えば、フロイトやユングも、この二つの意味を重ね合わされた階層構造で捉えた所で、その上層階から下層階へ、下層階から上層階への上り下りを、なんとか合理的な言葉による記述にもたらそうとした格闘であるとも言える。
コードは単一ではなく複数であり、静的ではなく動的である
さて、意味には二つのことがある、という話は、人間が言葉をもって理解することができる世界というものが、出来合いのものではないということを教えてくれる。
いや、出来合いでありながら出来合いではない、といった方がいいか。
根強く出来上がってはいるが、それは置き換えのやり方がいつも同じように反復されてきた結果であり、ミクロな置き換えのやり方を変えれば、変えてしまえば、変えられてしまえば、意味の世界は吹き飛んでしまう。
その「危うさ」イコール「創造性」を、日々他者から受け継いだ言葉を組み合わせて喋ったり書いたりしているひとりひとりの「わたし」たちが、どこまで引き受けられるのか。
どうやらこれは、人類と言語の一番深いところにある問題なのである。
固定した意味は牢獄のようなものになることも
ここで身近な「意味」の経験の場に戻ってみよう。
例えば、職場でも学校でも、こちらを脅かしてくる人物が居るとする。
それを世間一般の定義に参照してハラスメントと呼ぶか、イジメと呼ぶか、といったことはとりあえずおいておこう。
まずは「私」がそれによって脅かされているという感じ、つまりそこから「離れたい」「遠ざかりたい」と、神経レベルで反応しているかどうかがまずは重要である。身体レベルで「離れたい」と直感していても、しかし私たちはしばしば、いろいろな理由を引っ張り出しては(意味づけをしては)、無理をして体を引きずってでもその職場や学校に行く。
身体に無理を強いる「意味」を自ら分節していくのである。
せっかく入った職場(学校)だから、勿体無い。
収入がなくなってしまったらどうするんだ。
逃げたと笑われたくない・・・。
家族に怒られる・・。
家族を悲しませる・・。
などなど、人によっていろいろな理由(「それでも行かなければならない意味」)を思考したり語ったり、自分に言い聞かせたり、する。ここに次のような分別(二項対立)の直結による理由づけ、意味づけが行われている。
この苦しみには「意味があるのだ」と。
勿体無い / 勿体なくない
収入が減る / 収入が減らない
逃げたことを笑われる / 逃げたことを笑われない
家族が怒る / 家族が怒らない
家族が悲しむ / 家族が悲しまない
||
選ばない方 / 選ぶ方
このように分別をして意味づけて体に鞭打ったとしても、しかし身体が、言語的な意味分節とは別のところで、その「場」を拒絶しているとなると、人は体を壊したり、何らかの心の病の症状を示すことになる。
この時にこそ、「意味分節」を自覚することが癒しのきっかけになることがある。
自分が何と何の分別(二項対立)を最終的な選ぶ/選ばないの向きの決定のために引っ張り出しているのか自覚すること。
二項対立の重ね合わせの向きは、クルクルと逆にひっくり返るし、ひっくり返して良いのだ(良いも悪いも無くひっくり返るものだ)と知ること。
試みに、今まで考えたこともなかったような二項対立を「理由づけ」の二項対立に用いて、選ぶ/選ばないの二項対立に直結してみること。
こういったことを試すことで、選びたくない方を無理やり選ばされたり、体が選びたくないといっている方を理屈で無理に選び続けたり、といったことを続けなくて済むようになる場合もある。
* *
意味を分節する二項対立を柔軟にするという観点からすると、次の松長有慶氏が書かれていることはとても味わい深い。
空とは何かというと、分別ということを否定することなのです。分別とは、もともと仏教の言葉です。「あの人は分別がある人だ」というふうに、現在ではいい意味に使います。「あいつは無分別なやつだ」といったら、これは悪い意味です。ところが仏教では反対なのです。
仏教では本来、分別があるのは悪いことです。無分別のほうがよろしいのです。なぜかというと、分別というのは分ち別つことです。だから、自分と他人を分ち別つ、自分と外界のものをすべて区別してしまう。仏教では、これはいけないのです。本来、みな一つなのです。「一切衆生」といいますが、生きとし生けるものはみな同体である。だから、他人と自分とを分けてしまうのはけしからんことなのです。
分けて、どちらを選ぶべきでどちらを選ぶべきでない、とこだわることが人間を苦しみの淵に追い込むと言うのは、仏教の教えの核心である。
この教えを全身で、心と体のすべてでもって体得するために、一見するとあれこれに区別され分離され対立し食い喰われる関係にあるように見える「生きとし生けるもの」たちの全てが「同体である」と感じられるようになるまで、瞑想をしたり、如来の論理で日常意識の表層の分別の連鎖の固着した部分をときほぐしたりする。
こういうと、分別がダメで、無分別がヨイのだ!と、分別したくなるところであるが、松長氏は次のように注意を促す。
大事なのは、日常性を超えてしまえということです。といって日常性を否定しているわけではないのでそこを誤解しないようにして下さい。善悪の善を否定して、悪だけを取り上げようとしていると理解されると、分別になってしまいます。あれが善いかこっちが悪いかということになりますから、密教ではそういう分別を否定します。[…]自分と大日如来が一つになるということは、そういう小さな倫理、理屈を捨てろということなのです。こういうふうに思いきった書きかたをしているので、漢訳するときにはそのまま訳せなかったのでしょう。
ここでいう日常性というのは要するに、
A / 非-A
||
選ぶべき方 / 選ぶべきでない方
といった二項対立関係の重ね合わせが硬く固定されたパターンである。
例のデノテーションである。
これを「超える」のである。
超えるというのは否定することではない。
否定するというのは肯定に対する否定であり、「あれが善いかこっちが悪いか」という分別そのものである。
否定するでもなく、肯定するでもなく、そういう肯定否定の分別さえも、軽々と「超える」。
峠道を通って山を「越える」ために、何も山全体を大爆発させて吹き飛ばして更地にし「峠はその存在自体が消滅しました」などとやる必要はない。ただ険しいなあと思いながら、上を歩いて通り抜ければ良いのである。峠はそのまま、山はそのまま、そのまま「越える」。
人間は生命である以上、分別を”しない”ということはできない。
自/他を分別し、食べられる/食べられないを分別し、生/死を分別し、地球/地球外を分別し、といった分別はせざるを得ないし、大いに分別すれば良い。
問題は、分別することというよりも、この分別された二極のどちらを選んでどちらを選ばないか、この選ぶ/選ばないの分別と、その理由づけのための分別とを重ねて固めてしまうことにある。しかもそれを、知らず知らずのうちに、無意識のうちにやってしまう。
分別することを止めるというのは生死に関わることであるが、分別を「重ねること」の重ね方、分別の重ね方を「固めること」にフォーカスし、この固着を柔らかくする、という道もありそうである。
生きられる世界の意味を柔軟にして衝撃を吸収してしまうのである。
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