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千円払うたびに五千円払っている気がして滅入る話

5,000円札といえば、新渡戸稲造

私は、20世紀も残すところあと21年くらいという、まだたっぷり20世紀が残っている年の生まれである。

我が幼少期における5,000円札といえば新渡戸稲造氏を肖像に戴いていた。

新渡戸稲造氏をご存知だろうか?

こちらである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%83%E5%86%86%E7%B4%99%E5%B9%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Series_D_5K_Yen_bank_of_japan_note_-_front.jpg
より
2000年代の前半まで流通していた。

素晴らしい。
どこからどう見ても5,000円。
this is the JPY5000。
こういうのでいいんだよこういうので。5,000円は

あれから40年。
・・いや、多分まだ十数年。
近ごろ、日本の街を歩いていると、以下のような紙幣が流通しているのを目にする

https://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/

こちらである。

さて、よく見てほしい。

・・

数字は見なくて良い。人物だけを見ていただきたい。

・・・

新渡戸先生!

お久しぶりです!
メガネ、替えられました?!


失礼、人違いでした。。



・・新渡戸稲造氏と北里柴三郎氏。

似ている

ご本人同士が似ているかどうかは存じ上げないが(というか色々な写真で拝見すると似ていないと思うが)、しかし、紙幣になると似ている。似ていると私は感じる

もちろんよく見れば似ていない

メガネは円と楕円で異なっている。
髪型も分け目が左右逆だ。
口髭の傾斜も赤城山と榛名山くらいちがっている。
ネクタイの色も形もちがう。
全然違う。

・・よく見れば。

AI生成、赤城山と榛名山
初見で吃驚したが(「AIも雑な仕事をするものだ」
眺めているうちにモンタージュっぽくていいかもと思える


しかし逆に言えば、よく見ないと違いがわからない、ということである。

どちらも同じような丸っこい細いフレームのメガネをかけていらっしゃるし、髪型も分け目の位置が左右対称だが概念としては同じ髪型であるし、どちらも山型の口髭を整えていらっしゃるし、礼装という点も同じである。

・・よく見ないと、同じような人に見えるのである。

ご両者は異なるが同じ同じだが異なる、非同非異の関係にある。
お二人は、二でありながら一、一でありながら二、二即一にして一即二とも言える。

実は何を隠そう私はこの非同非異・二即一一即二ということに取り憑かれて博士号までとってしまったような人間である。

よく言えば、異なっているところに同じさを見つける神経が鍛えられているとも言えるし、悪くいえば、物事の分別が緩くなっている、とも言える

もちろんこの良くいう悪くいうというのも一概にガッチリと分けられることでもない。例えば松長有慶氏は次のように書かれている。

空とは何かというと、分別ということを否定することなのです。分別とは、もともと仏教の言葉です。「あの人は分別がある人だ」というふうに、現在ではいい意味に使います。「あいつは無分別なやつだ」といったら、これは悪い意味です。ところが仏教では反対なのです
仏教では本来、分別があるのは悪いことです。無分別のほうがよろしいのです。なぜかというと、分別というのは分ち別つことです。だから、自分と他人を分ち別つ、自分と外界のものをすべて区別してしまう。仏教では、これはいけないのです。本来、みな一つなのです。「一切衆生」といいますが、生きとし生けるものはみな同体である。だから、他人と自分とを分けてしまうのはけしからんことなのです

松長有慶『理趣経』p.34

分別 / 無分別
||     ||
いい / わるい

この四つの言葉の関係を目に焼き付けておこう。
見て欲しいのは「分別」「無分別」「いい」「わるい」といった語ではない。焦点を合わせて欲しいのは「/」と「=」と表記したところである。

/   
||     ||

「/」である何かXと、そのXではないこと非-Xを分ける。
そしてそこに、良い/悪い(よくない)を「/」で分けたものを持ってくる。そしてそして、X/非-Xと良い/悪いを、「=」でくっつける。くっつける向きは実はどちら向きでも良い。
そうして、
私たちは「良い」方、つまり”よくなくない”方を「選ぶ」。

分別するという時、私たちの心身ではこのような感じのプロセスが動いている

人の心が霊妙であるのは、この「/」と「=」は、日常生活の表面ではなんとなくかっちりと固まっているように見えて、その外観の同一性は、実は揺れ動く「/」と「=」の振動が、たまたま継続的に同じようなパターンで振動し続けているが故に、安定した波紋が浮かび続けているといった具合での安定性であり、つまり何かの弾みで「/」の動きは揺らぐし、「=」の動きも揺らいでくるくると回転し始める、ということである。

そして他でもない、北里先生は、私にとってこの「/」を揺るがせ「=」を回転させる蝶番、いや、ボールベアリングのようなものになっているのである。


新渡戸先生であるようなないような

私はこのところ、日常生活上である困難を抱えている。

財布の中にちらりと北里先生のご尊顔をお見受けすると

今、わたしの財布には、5000円札が入っている!

という揺るぎのない確信が来居するのである。

・・・

例えば、財布に北里先生が3枚だけ、入っていたとしよう。

この時、気分としては私は「秒速で1万5千円持ち歩く男」になっている。

これはつまり、3000円しか所持していないのにタクシーで府中本町から羽田空港に行こうとする人になっているということである。これではラウンジでカレーを食べる前に、警察タクシーのプレミアム・シートへ無料アップグレード、最終のご搭乗のご案内である(シートベルトと手錠をしっかりとお締めください)

* *

また、コンビニで北里先生1枚で、300円分の市役所指定ゴミ袋を買うとき。

お釣りは700円、返ってくれば良い

頭ではわかっている。

アタマでは理解しているのだが、しかし、実際に、北里先生をお渡しして、100円だまがコロコロと返ってくるだけだと、

一瞬、

「あれっ?!」

と思ってヒヤリハットしてしまうのである。

そして「お先に大きい方から、1枚2枚3枚4枚・・」と数えてくれるイベントが始まるものと無意識に期待している自分がいるという事実に、愕然とするのである。

そしてさらに、なんだか4000円損したような気がして、残念な気持ちになる(完全な言いがかりである)。

ここでぼーっとして「あれっ!オレのお釣りの4000円は?!」などと放言しようものなら、またまた赤いパトランプのタクシーを配車してしまうところである。

* * *

もし今、私が隙間バイトでファーストフードのレジに入ったとすると、

「お釣り五千円です」

と無料のスマイルで豪語しながら北里先生をお客様にお渡しすることであろう。無料のはずのスマイルが4000円に。

そういうわけで、なんだか経済活動に参加することに怖気付いてしまっているうちに、知らぬまに財布の中の北里先生が増えていき(渋沢先生が9枚以下の北里先生に変身されることがある)、そして総資産の時価評価額が5倍くらい水増しされたような気分と、もらえるお釣りが4000円少なくて吃驚の気分との間を両極として激しく振幅を描いている気がする。


さて、何が言いたいかというと、人間の心というものは、異なりを感じる働き=分ける働きと、異なりを感じる働きを弱める働き(異なっているけれども似てる、同じ、類似、と気づく働き)という、二つの働きのバランスで動いている。先ほどの「/」と「=」の話である。

/   
||     ||

元はと言えば、「新渡戸先生」と「5000円」は、それこそ何の関係もない
全く別々に分別された事柄である。しかし、紙幣では、この新渡戸先生の肖像を「5000円」のシンボルとして利用している。シンボルというのは、「あるものごとAを、Aではないもので代理させる」ということである。

「りんご」という音で、あの赤くて丸いあれを表現するというのも同じである。「りんご」という音と、あの赤くて丸いあれとは、本来的には何の関係もないのだが、多くの人々でよってたかって異なるが同じ同じだが異なるの関係に繋いでおくときに、意味のある言葉になる。

私の場合、人生の最初の20年くらいで、

「新渡戸先生」=/=「5000円」

を非同非異に繋いでおく脳の神経の回路がかっちりと固着してしまったのだろう。しかし、その場合の新渡戸先生は厳密にはご本人の新渡戸先生ではなく「丸メガネ、口髭、七三分けの学者風の礼装の男性の肖像」というモヤッとした視覚的なイメージの記憶である。ここに北里先生の肖像が「同じ」になってしまっている。

丸メガネ、口髭、七三分けの学者風の礼装の男性のモヤッとした肖像(AI生成)

北里先生であるようなないような、新渡戸先生であるようなないような。
不可得な振動は日常の隙間隙間のいたるところに顔を出しているのである。


不可得

「構造主義」で知られる20世紀の天才的頭脳であるクロード・レヴィ=ストロース氏は、その大部の著書『神話論理』の冒頭に、次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上に描き直すと、概ね以下のような具合になる。

神話論理のアルゴリズム(動き方)

即ち、神話は、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す語り(ナラティブ)である

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く脈動の動きが語られる

両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする

β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方(どちらか不可得)をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

不可得なものたちの伸び縮みこそが、
私たちにとっての世界の意味を柔らかくし、
消えそうな意味を蘇らせたり、
意味を新たに発生させたりする。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

このような『神話論理』の世界にご興味がある方は、ぜひ上記から、適当にどれか読んでいただくとおもしろいと思います。

終わりに

さて、昨今の私にとっては「丸メガネ、口髭、七三分けの学者風の礼装の男性のモヤッとした肖像」が、図らずもこの両義的媒介項βとして、1000円/5000円の対立の間に挟まって、くるくると回転運動を引き起こしてしまっているのである。

1000円
||
丸メガネ、口髭、七三分けの学者風の礼装の男性のモヤッとした肖像
||
5000円

ちなみに、この状況を打破する方法も個人的には既知である

私はモヤッとした直観像記憶が優れているので、例えば、部屋を暗くして、他に何も置かない単色のテーブルの上に、一枚の北里先生を置いて、そこだけにスポットライトを当てる。その状態で30分くらい、余計なことを考えず「せんえん、せんえん、せんえん・・」と小声で唱えながら、視線の焦点を肖像にも「1000」の数字にも合わせずに、じーっと眺めていると、すぐに脳の神経に新しい回路が生成することであろう

高いパソコンを買わなくても、コードが書けなくても、自分の脳でできるディープラーニング(深層学習)である。

以上、身近な紙幣のデザインから、人間の心の深層の動きに触れることができる、というお話である。

おまけ

「Hey OK GPT, AIがこれでもかと普及した22世紀初頭の紙幣に描かれる肖像を予想してみて」


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