見出し画像

芸術は、民主主義の“レッスン”たりうるのか——“底”が抜けた世界で


今日は、同じ大学で働く、僕が尊敬している先生の最終講義を聴いた。テーマは「上演芸術と民主主義」。

その先生は、日本からニューヨーク、ニュージーランドまで、舞台の演出だけじゃなく、テレビドラマの演出まで手がけてきた人で、同時に文化人類学や哲学にも踏み込みながら、創作と研究と教育とジャーナリズムを行き来されてきた。言い換えると、作品をつくることと、世界を読むことと、人に伝えることを、ずっと同じ地続きでやってこられた方だ。

上演芸術 —とりわけダンスが、資本主義にだけ回収されない可能性についての話題で受け取ったのは、作品を完成させることよりも、その創作のプロセスのなかで、言葉や理屈よりも先に「民主主義みたいなもの」を身体で体得していく可能性について。上演芸術は、制度としての民主主義 ー選挙や議会ではある意味でないやりかたで「私たちはどう一緒にいるのか」を稽古する場になりうる。そういう可能性を、先生は長く深く培われてきた経験を通して語っていた。

たとえば、意見が対立すること。さまざまな人種、さまざまな背景、さまざまな実存や生きづらさが、一つの舞台に、あるいは一人一人の身体に“根を下ろして”いく。そこで起こる摩擦や衝突は、ただの喧嘩ではない。議論であり、よりよいものをつくっていくための衝突であって。そして「よりよいもの」とは、よりよい作品であると同時に、議論の過程そのものを通して「よりよい私たちのあり方」をつくる絶え間ない運動でもある。民主主義は完成品じゃない。常に「未完のプロジェクト」として、何度も更新されていくー そんな感触が、講義全体に通底していた。

頷くところが多々ありながら、ひとつ、引っかかるものも同時にあった。いま、社会のなかで「民主主義」という共通前提をどれほど「そこは最低そうだよねー」というように、私たちは合意できているのか、ということだ。そこが、かなり危うい地点に来ていると、アメリカの状況などを見ているととりわけそう思う。

数日前に書いた『WARFARE 戦地最前線』の共同監督としても知られるアレックス・ガーランド監督の前作『Civil War (シビル・ウォー アメリカ最後の日)』に、忘れがたい場面がある。内戦状態のアメリカで、主人公のジャーナリストチームたちが武装した男(ジェシー・プレモンス扮する/これ、ほんとすごい演技)に遭遇し、「私たちはアメリカ人だ、助けてくれ」と訴える。すると男は言う。「どういう米国人だ?」と。その問いの前で、彼らのなかで生死のジャッジをされ、ある人は淡々と撃ち殺されてしまう。

「どのアメリカ人だ?」という言葉に、ゾッとした。たとえば「私たちは日本人です」と言ったときに、「ふーん、で、どの日本人?」と返されたらなんと答えるだろうか? 共通の前提、共通の感覚、コモンセンス。そういう対話の“底”が崩れ落ちて、同じ国民国家(この概念自体が怪しいものだろうけど)の内部にいながら、同じ言葉が同じものを指さなくなる。もう議論のテーブルに並ぶ以前に、同じ部屋に入れない。これがまさにあまりにも使い古されている「分断」という状況だ。

民主主義の議論って、本当は「前提が共有されている」からできるのかもしれない。けれど、その“底”までもが壊れてしまったとき、民主主義を前提に民主主義を語ることは、どれほど可能なのか。互いが思い描く「民主主義」自体がまったく違う(認識上というよりは実存上と言った方が合っている)状況に至っていたとしたら、僕らは何を土台に話し合えるのか。そもそも「話し合う」とは意味を持つのか。

講義会場に集まっている人たちは、まだ何かしらの共通感覚を持っているから、同じ物理空間にいられる。けれどSNSでは、そもそも「同じ場所にいる」という契約が成立しないし、もうとにかく言いっぱなしで、レッテル貼りで、相手を「人間」として扱わない速度が速い。

この状況で、僕は考え込んだ。じゃあ「参加」って何なんだろう?
それはほぼ「共在」と同義になってくるのではないか。
仮に、鍵括弧つきの「民主主義」が —理念としても物語としても— もはや成立しないとして。それでもなお、人は一緒にいられるのか。共通前提がないまま、銃で脅さず、攻撃せず、迫害せずに、どうやって隣にいられるのか。しかも「制度(いざとなれば権力ー暴力をいつでも発動できるルール)」にすぐに飛びつくのではなく、「倫理」という言葉では整理されないけど、強いていうなら倫理のようなもので。

上演芸術でも、美術でも、音楽、映画、文学でもいい。文化芸術には、「同じ結論に至る」こととは別の仕方で、「同じ空間にとどまる」技術があるのかもしれない。合意の前に、理解の前に、身体が同じ時間を過ごす。言葉が一致しなくても、呼吸や沈黙やリズムの層で、いったんとりあえず“共にいる”を成立させることはできるかもしれないとは思っているし、思いたい。

もちろん、それは万能薬じゃないし、芸術もまた資本主義に回収されるし、排除の装置にも十分なりうる。でも、それでも、少なくとも「この塩梅で参加する」という微妙な参加の形を、守り続けることはできるかもしれない。互いの「正しさ」の追求戦争に入らずに、けれど逃げずに、同じ場に留まり、ずれるままに関わり続ける。

民主主義が「議論の技術(Ars)」だとしたら、文化芸術は「共在の技術」なのかもしれない。前提が揃わない世界で、前提に頼らずに一緒にいるための、別の回路。

今日の先生の最終講義は、上演芸術が民主主義を体現する、という希望を語るだけでなく、僕にとってはむしろ、民主主義という言葉そのものが揺らいでいる時代に、僕らはどこから始め直せるのか、という問いを突きつけられたように勝手に感じている。共通前提が崩れたままでも、なお、それでも、隣にいられる可能性を、どんな「場」が持ちうるのか。これは、しばらく手放したくない問いだ。

いいなと思ったら応援しよう!