「共同体」としての本屋と「公共」としての本屋
先日、千葉県松戸市で開催された「まつどブックフェス」のトークイベントに出席してきた。テーマは「本によるまちづくり」で、つまり書店や図書館の存在が都市に与える効果についてのものだった。僕は8月に「宇野書店」のプロデュースを始めたので、そのチャレンジについて話してきたのだけれど、今日はそこで考えたことについてまとめておきたい。
僕が「宇野書店」をプロデュースするにあたって考えたことは二つある。ひとつは持続可能なモデルをつくること。もうひとつは、僕の考える「公共」空間であることだ。
まず前者については詳細はこちらの朝日新聞に寄せた文章や、こちらのnoteの記事を読んで欲しいのだけれれど、要するに昭和の古いオフィスビルに付加価値を与えること、ひいては大塚駅北口のエリアマネジメントの起点になることが「宇野書店」のミッションで、不動産ビジネスでリクープする(本やイベントの売上に依存しない)モデルだ。もちろんこれだけが「正解」だとは思っていない。こういう攻め方「も」あることを証明したいというのが、僕の考えだ。
では本屋じゃなくて「図書館」でいいのではと思う人もいるかもしれない。しかし、違うのだ。いや、図書館は図書館で僕は大好きだし、いつかやってみたいのだけれど本屋には本屋の良さがある。
それが後者の、二つ目の「考えたこと」にかかわっている。それは要するに、自己肯定感の違いだ。図書館で読みたい本を借りてくるときの充実感と、本屋で読みたい本を買ってきたときの充実感は違う。図書館の「タダで読みたい本が読める」ことの与える世界への信頼感はとても高い。これはこれで僕も大好きな感覚なのだけど、本屋で好きな本を「買う」という体験は、またちょっと違う。
他のものを買うこともできるお金を払って、この一冊を自分のものにすることができたという達成感はまた格別で、これはこれでやっぱりいいものだと思う。そしてこの達成感は、強い自己肯定感につながっているように僕は思う。
どこの誰だろうと、どんな家族を持ち、どんな共同体のメンバーかを問わず、つまり何者かを問わずに、肯定する回路としての「買い物」のことを、過小評価するべきじゃない。
それがDCブランドなど、顕示消費につながりやすいものもあるが、本はそうでもない……と言いたいところだけれど、SNSやソーシャルブックマークや有名ブックカフェなどには、今日も「本が好きな自分が好き」なだけの人の顕示読書が溢れていることは触れておかないとフェアじゃない(まあ、僕なんかは買って読んでくれたらそれでも全然ありがたいと言うのがホンネなのだが、それは書き手&出版社経営&書店プロデューサーとしての典型的なポジショントークだろう……笑)。
だからせめてもの「抵抗」として、僕は本屋からコミュニティの、共同体の要素を排除した。なので「宇野書店」には店員がいない(無人書店)し、ワークスペースや読書椅子はあっても、向かい合って談笑できるテーブルはない。おしゃべりは、近くのプロントやロイヤルホストでやってもらえればよくて、この「宇野書店」は純粋に人間と事物(本)がコミュニケーションが取れる場所にしたいのだ。
そしてこの問題は僕の「公共」についての考えと結びついている。多くの人が公共性と共同性を混同している。しかしこの二つはむしろ対立する概念だ。メンバーシップを認める人間を尊重するのが共同性で、ルールさえ守ればどのような家族や共同体の一員であろうがなかろうが尊重するのが公共性だ。だから、僕は図書館や銭湯、子ども食堂など「公共」を求められる場所に共同体が発生し、特定の人間関係でよい扱いを受けなければ居心地が悪い場所になるのは絶対に避けるべきだと思う。
この問題は「宇野書店」の選書スタイルにも結びついている。
たとえば僕はオープン前にシェア型書店の形態も検討したが、それを捨てたのはこの辺に理由がある。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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