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國分功一郎さんに改めて尋ねたいこと

明日は國分功一郎さんと、「宇野書店」で話す。

チケットは瞬殺されて、今からではもう買えなくて(ありがとうございます!)、設備の関係で配信もないのだけれど、後日YouTubeの『PLANETSチャンネル』のプレミアムコースで動画を公開するので、そちらに登録して観てもらいたい(「いま」登録すると既に配信中の8月1日の内沼晋太郎さん、篠田真貴子さん、三宅香帆さんとのオープニングイベントに加え、9月8日の安宅和人さんとの対談イベント(こちらも完売)が全部見られるので(結果的に)かなりお得な設計になっている)。

テーマは一応、お互いの新著(『手段からの解放』と『ラーメンと瞑想』)に引っ掛けた「事物を享受する」という硬めのものになっているのだが、展開次第では僕はこのタイミングで國分さんにぶつけてみたいことがあるのだ。そして展開次第ではぶつけられないので、先にここに書いてしまおうというのが今日の趣旨だ。


半年前に、僕は國分さんと『庭の話』について対談した。いろいろな話題が出たのだけど、このときちょろっと出た話題が、僕はずっと引っかかっている。その場で追求しなかったのは、それが「本題」ではなく、少し脱線した話題だったからだ。それは端的に言えば、国内政治やトランプ現象を念頭に置いた話題で、國分さんは概ねこのようなことを述べていた。

いま、世界中で起きているのは「権威」の崩壊で、自分(國分さん)もその崩壊があったから世に出られたと思っている(これは暗に「宇野君もそうだろう?」と言われたのだと思う)。しかし今の自分はそう考えない。今日の状況(現代の国内政治や、SNS論壇のことを指していたのだと思う)を考えると、やっぱり「権威」が機能していないとダメなんじゃないか、と。これは僕を信頼して言ってくれたことだと僕は思った。なぜならば國分さんの「出世」を妬んでいるような人にこんなことを言えば、「それはお前が東大教授になったから言えるんだ」的な、不毛極まりない方向に話が向かってしまうことは自明だからだ。僕は國分さんがポジショントークではなく「本気で」そう考えているのが、すぐに分かった。その上で、こう応答した。いま、國分さんが言った「権威の復活」は、いまはびこっている「グー」に対して、強い「チョキ」を再生しようといっているようなものじゃないか、と。たとえばトランプや参政党の差別発言をどれだけ「正しく」論駁しても、そのことが逆に彼らをアンチヒーローとして輝かせてしまう。だから僕はちゃんと「パー」を出せるようにしないと、何が「パー」として機能するかを考えないといけない……そんな話をしたのだ。

そして僕が明日、「宇野書店」で國分さんに改めて伺いたいのは、果たしてそこでもう一度既存の権威を持ち出すことが、本当に「解」になるのかということだ。いや、僕は日本維新の会も参政党もどうしようもないと思うし、どうしようもないものが出てきたときに、そこにビビッドな民意の表れ、時代精神があるのだ。頭の硬い権威的なリベラルはどうしようもないと、自分が普段から嫉妬している「うまいこと権威についた人たち」を殴るために、参政党的なものを「オレは支持しないけれど、奴らのことをちゃんと扱わない権威的なリベラルはダメだ」といった言説を展開して、実質的に参政党を支持してしまうような言動をするやつも、同じくらいどうしようもないと思う。お前のルサンチマンを発散するために、差別や疑似科学を「容認」するなと、心底思う。

そしてその上で、やっぱり僕は問いたい。そこで、「権威」に回帰するのは間違っているんじゃないかと、僕は思うのだ。大事なのは、参政党的なものをしっかり「批判」しながら、既存の権威もしっかり疑っていく(じゃないと社会は永遠にアップデートできない)ことじゃないかと僕は思う。

以前、このnoteでも何度か吉本隆明の『マチウ書試論』について取り上げた。吉本は人間の思考はその人が生まれ、投げ込まれた時代や場所の社会秩序との「関係」に規定されると考えた。そしてその「関係」を3つに分類した。その3つとは「ルター型」「トマス・アクィナス型」「フランシスコ型」だ。


國分さんはトマス・アクィナス型の思考をしていると言える。つまり「とはいえ、社会をしっかり回さなければいけないのだから」という立場に立って、既存の社会秩序を(改善は認めるが)とりあえず「維持」する方向で考える。それに対して、「平成」の改革勢力から参政党、山上徹也まで通底しているのは「フランシスコ型」の実存で、要するに既存の社会秩序が延命している限り、自分は救われないという決定的な実感を抱え込んでいる。いや、まあ、参政党のそれはせいぜい学園祭のステージでちょっと注目されるとか、飲み会に混じっていた有名人に話をちゃんと聞いてもらえた程度で満たされるような気もするが……まあ、それはそれとしてだ。

僕は國分さんのこの発言に(そして政治的には真逆の思想だが先崎彰容さんの発言に)トマス・アクィナス型の思考を感じる。しかし、この立場からはどうしてもフランシスコ型の人間が取りこぼされてしまう。それが、どれほど強い「チョキ」を再建しても今、氾濫している「グー」に勝てないという意味だ。僕自身は、フランシスコ型の人間のことを視野に常に置いた、ルター型の人間でいたいと思っている。吉本が以前、インタビューで自分はルター型だと述べていて「フランシスコ型のくせにウソをつくなよ」と苦笑したことがあるが、今の僕にはその気持ちが分かる。僕自身、フランシスコ型の人間だという自覚があるからこそ、ルター型に接近することが必要だと考えているのだ。

では、ルター型=「パー」のアプローチとは一体何か。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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