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「自立」はいかに可能か

『庭の話』はあまり攻撃の対象にならない本なのだけれど、何度か述べるようにアレルギー的な反発を受けることがたまにある。それはロマンチックに共同体への「回帰」が「解」だと思っているタイプの人で、僕と同世代前後の「男性」が多い。

要するに、プラットフォーム資本主義が人間を個人化(1アカウントとして扱う)しすぎた結果として、現状のようなポピュリズムや陰謀論が拡大しているので、共同体を、具体的には家族や地域や趣味の集まりを再興して、人間は共同体のメンバーとして「承認」を獲得するモデルに回帰したほうが社会が安定するというものだ。

斎藤幸平からサンデルまで、つまり左右を問わずこの処方箋は共通しており、共同体を束ねる物語(イデオロギー)に差異があるだけなのだけれど、『庭の話』はその「先の話」をしている。つまり、こうして「回帰」した共同体はこれまで以上に強者のための場所になり、弱者を(「救われる役」の「かわいそうな人」としてしか)包摂できないのではないか? という疑問を突きつけたのだ。

結局、共同体=物語の主役や重要な脇役の位置につけた人にとって、そこはさぞかし居心地の良い「居場所」になるだろうが、端役や共同体の結束のために「敵役」にされてしまった人間には「地獄」が待っている。この「先の話」を僕がしているのが、ロマンチックに「共同体への回帰」を「解」にしている人には都合が悪いのだと思う。

比喩的に言えば「妻子」を所有する「父」(家庭)や、部下に飲み会でおべんちゃらを使われる会社のオーナーか管理職(職場)がないとメンタルが安定しない人たちにとって、これは随分と痛いところを突かれた指摘で、この指摘をなんとか回避したい(潰したい)という感情が生まれやすいのだろう。

これ自体はかなりどうしようもない話で、サクッと軽蔑すればいいだけのことなのだけど、それこそその「先」の問題を考えることには価値がある。

僕は人間が本能的に家族や共同体を求めるのは避けられないと考えている(『庭の話』にはっきりとそう書いている)。だからこそ、その「呪い」を一時的にもキャンセルできる公共空間が必要だと考えるのだけど、このキャンセルの可能性がどこにあるのか、どうすればキャンセルできるのかという問題を考えることが重要だと思う。そのためにはこのトランプ現象の背景にある(特に男性)労働者のアイデンティティの問題(戦後日本的に言えばこの主の「さびしいおじさん」問題)を考えることが必要だと思うのだ。

このとき手がかりになるのが、吉本隆明の「自立」が『マチウ書試論』的なものから、その後の『共同幻想論』に至る課程で、確実に変化してしまっているという問題だ。

『マチウ書試論』における「自立」は、人間が秩序そのものから絶対的に疎外されているケースを想定することで可能になるもの(フランシスコ型)だ。対して『共同幻想論』を記した時期の吉本の「自立」のイメージは対幻想に依拠することで共同幻想を相対化するというもの(家族回帰)に変化してしまっている。つまり一神教的、普遍宗教的な家族や共同体のメンバーシップを問わないものから、共同幻想(国家)から対幻想(家族)を切り分けることで救出する、という操作を用いた家族回帰モデルに変化しているのだ。

我地に平和を与えんために来たと思うなかれ
我汝らに告ぐ
然らず、むしろ争いなり
今からのち、一家に五人あらば、三人は二人に、二人は三人に分かれて争わん
父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に

これは、押井守が『機動警察パトレイバー2 The Movie』で引用した新約聖書の一節で、吉本の『マチウ書試論』では、同じエピソードのマタイ福音書のものが引用されている(同じように柄谷行人も、このエピソードを引用している)。

要するに、これはナザレのイエスの主張した普遍宗教(原始キリスト教)が脱家族的な「個」を単位にしたもの(神の前ではいかなる共同性も無効化される)であることを述べたものだ。

当時アンダーソン的な「想像の共同体」というか、国民国家が成立していないことを考えれば、普遍宗教が離脱すべき対象がまず「家族」であったことは自明だ(「出家」という言葉が指すように)。しかし、1968年に全共闘のイデオローグとして君臨していた吉本は共同幻想(国家や前衛党)からの「自立」の根拠として「対幻想」(家族や性愛)を掲げている。ここで吉本は変質しているのだ。

吉本のこの処方箋は、たとえば上野千鶴子からフェミニズム的な批判を受ける。吉本の処方箋は戦後日本的なマイルドな家父長制の延命と結託するものであるというのがその骨子で、その対案として上野は「性愛」にとどまることを主張する。村上春樹もまた吉本的な家族回帰に抵抗してあくまでパートナーシップにとどまることを提示してきたが、そこで提示される関係性は男性優位性が強く、やはりフェミニズムから批判を受けることになった(近年の村上春樹は、ポストファミリーというかたちでの「家族」回帰志向を示し、より保守的になり、吉本に接近している)。

と、いうふうに歴史をまとめることができるのだが、今日はちょっと変わったことからこの問題を考えてみたい。僕が常々考えているのは僕に家族回帰を批判された男性たちの、なんというか、実存を賭けた「必死さ」のようなもので、僕は一緒によりよい未来を考えるために知恵を絞っているつもりなのに、彼らは「ためらいながらも父になることを引き受けた自分の選択を批判する宇野は許さない」とばかりに、「なんとかこいつを否定したい」といったトーンで迫ってくるケースが多いのだ。

そしてこの異常な「必死さ」がそこから生まれるのかについて、今日は考えてみたい。

前々回取り上げた『思想はいかに可能か』で、柄谷行人は「思想」を可能にする自己批判の究極形として三島由紀夫(明晰)、吉本隆明(自立)、江藤淳(成熟)、の三類型を示していた。しかし柄谷は最後の一文で、この三類型にはまらない第四の論点を提示する。それが「自分」という謎だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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