なぜ「共同体」や「家族」を「解」にしないと気が済まないのか
さて、今日は改めて共同体と社会について考えてみたい。これは『庭の話』の中心的なテーマでもある。繰り返し述べるように、僕は共同体そのものを否定しない。人間は共同体を欲望してしまう生き物であり、それ自体を否定しても仕方がない。だからこそ社会には共同体の内部で劣位に置かれた人々や、共同体からパージされた人々(共同体の本質的に必ず発生する)のためにも、そして共同体に安住できる人が程よい距離感をもつためにも、一時的に共同体から自由になり、「何者でもない」存在になれる「公共空間」=「庭」が、それも資本主義のゲームとは違うかたちで存在しなければいけないというのがこの論旨だ。
「もちろん、人間は共同体から完全に逃れることはできない。共同体とは人間が本能的に生み出してしまうものであり、論理的に厳密には共同性から完全に自由な個人など成立しない。だからこそ世界には一瞬でも裸の個人になれると「信じられる」時間を与える回路が必要なのだ。」
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しかしこの主張はときにアレルギー的な反発を、あるタイプの男性からされることが多い。発売から3か月がたつが、よく見かけるのが上記の僕の主張、つまり実際に書いたことを無視して、「共同体、とくに家族を否定するな」と罵倒してくるものだ。
どう考えても僕は共同体の副作用を緩和する必要を主張しているだけだ(正確には共同体ではなく、個人の集合としての社会を想定しない限り、弱者切り捨てになってしまうことを指摘しているだけだ)。つまり別に共同体をつくるな、家族をつくるなとはまったく主張していない。「孤独になれる時間と場所が必要だ」とは主張しているが、「人間は孤独に生きて共同体や家族をつくるな」なんてまったく主張していない(考えたこともない)。
もちろん、プライドと能力が釣り合わない人間が「批判したいのに能力不足でできない」相手に出会ったときに、相手の主張を「捏造」して自分でも批判できているかのように見せるのは既に SNSでは日常的な光景だ。したがってポイントはなぜ彼らがここまでして「共同体」や「家族」を神聖視したいのかという点にある。
僕はただ、その副作用を指摘し緩和を主張しているにすぎない。しかし彼らは共同体(家族)という自分たちが信じる「解」に「水をさされた」と感じてしまうのだと思う。なので僕が書いていないことを「捏造」してでも、僕の共同体に対する批判的な検討を無理矢理「否定したくなる」のではないか。
ではなぜ、彼らはそこまでして共同体や家族を相対化されたくないのだろうか。ちなみにどんな対象でも、批判的な吟味を経てその弊害の緩和策が提示されてはじめてそれは「解」として機能すると思うのだが、この程度の思考ができなくなるくらい、彼等は僕の共同体に対する検討から目を背けたくなるのだ。
キーワードはおそらく「父」だろう。
僕は一貫して家父長制を批判している。そしてこの家父長制批判は、共同体の本質を考える上で大きなてがかりになる。共同体はトップダウンの家父長制的なものでも、ボトムアップの場の空気から生成するものでも、迫害される下位カーストや外敵の設定により安定し、共同体の存続を優先するとこれらの攻撃対象を頻繁に入れ替えていくことになる(連合赤軍やオウム真理教、論壇の党派など)。つまり共同体の生成、維持機能が迫害と排除の論理を不可避に生むというのが僕の理論だ。家父長制に陥らないようにマイルドに「父」になることを選んだとしても、構造が変化するわけではないので迫害と排除の論理は低減するが、消えない。人間が共同体や家族を作ってしまうのは避けられない。しかし社会のベースはあくまで個人であるべき(共同体や家族から逃げ出しても生きていける社会が正しい)と僕は考えるのだ。
この論理がある種の男性、つまりなんらかの形で「父」になること(共同体や家族の中心になること)で満たされてようとしているタイプの人は、自分の信じているものの価値を下げられてしまったように感じるのだと思う。試行錯誤しつつ「父」になり「共同体」「家族」をつくることを「解」にしたい人たちはその弊害を指摘され、ではどうするかというより進んだ、その先の議論をされるのが不愉快なのだろう。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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