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今起きているのは「共同性の危機」ではなく「公共性の危機」

さて、今日は右と左の共同体回帰の皆さんがそろってハマりがちな罠について、改めて指摘しておきたい。

これは教科書的な復習だけれど、リベラル・コミュニタリアン論争の頃によく言われていたように、公共性が機能するためには、最低限のメタルールが共有されないといけない。たとえば、「お前の意見は違う」と主張するのは自由だが、「お前は意見を言ってはいけない」と主張するのはNGである、というメタルールがそれで、これは共同性が機能する集団、究極的には国家のような暴力装置によって保障されるしかない。

そこでバカな、というか安直な共同体主義者は「だから共同性のほうが公共性より大事なのだ」、と考えてしまう。そして、それをあろうことかこういった「最低限のメタルール」ではなく、伝統とか属人性とかと結びついた共同性の擁護につなげてしまう。

当時の論争が教えてくれるのは、「かといって共同性が大事」という話にはならず、「共同性を最低限の必要枠として厳しく制限するためのシステムが重要で、その制限基準は公共性に根ざしている」、ということだ。

とりあえずリベラルを批判すればいいと思っている人がバカの一つ覚えのように攻撃するロールズ的な「負荷なき自己」は、このための理論的なモデルだ。だから、「全く共同性の影響を受けていない『負荷なき自己』なんていうのは幻想だ」と言うのは、批判にならない。そもそもそれは共同体の中で不利な位置に置かれた人間でもフェアに扱うことができるルールを考えるためには、「負荷なき自己」という人間像を想定したルールにするしかない」、という思考実験のためのイメージに過ぎないからだ。

要するに、共同体はどんな形であれ自然発生していくが、それらを公共性の原理で制御しない限り、特に弱者にとっては自由と平等は成立しないのだ。

そして僕の興味はむしろ、こういった「一度決着が見えたはずの問題」について、その歴史が都合よく忘却され、ものすごく低い次元の議論が流通していることにある。

その理由は明確で、要するに右も左も昨今の「共同体主義者」たちは「たとえ共同体の抱える排他性や差別性が発揮されても、自分たち強者が虐げられる側にはまずいかないから問題ない」と、本音では思っているのではないかと思うのだ。

まあバンスやデニーンの共同体主義というのは「トータルではそのほうが社会が安定するので、多少の人種差別や女性差別は認めるべき」だと実質的には主張しているのと変わらないし、左の共同体主義の人たちは全く理論的なモデルを出せずに「自分たちのような知的で優しい人たちによるコミュニティーなら問題ない」みたいな属人支配をハートフルなエピソードでごまかして正当化するか、中国的な相互監視社会を肯定するかという二つのパターンしか示せていない。

こういった幼稚さの背景にあるのは、結局、自分たちは虐げられる側ではなく、つまりケアされる側ではなくケアする側であり、施される側ではなく施す側である、という傲慢さなのだと思う。

もっと厳しいことを言えば、彼らがプレイしているゲームは既に世界をどう良くするかという次元にはなく、「どんなメッセージを出せば自分たちの村に搾取対象を呼べるのか」という動員のゲームでしかないのだと思う。

確かにコンプレックスを抱えていてメリトクラシーのゲームにも自分が思っているほど勝てない(Xに多いようなタイプの)男性がいて、そんな彼に「父になること」をロマンチックに語ってくれる人がいれば、その言説に依拠して、うっかり参政党的な家族観や男系男子みたいな言説に気持ちよくなってしまう自分を正当化できるのだと思う。

あるいは、自分は大企業とか大学とかクリエイター業界とかで良いポジションにいて、人間関係にもお金にも恵まれて生きていて、その罪悪感を解消しつつセルフブランディングするうえで、「人と人とのぬくもりのあるコミュニティーを作って、そこで弱い人をケアしよう」みたいなことを言うと、いろいろ都合が良いのだと思う。

しかし、そこで「救われるべきかわいそうな人」のポジションに置かれる人間の尊厳がどうなるかを少しも考えられないところに、この人たちのだめなところがある。

要するに、どちらも弱い人間に「共同体という物語のモブキャラ」とか、「救われるべきかわいそうな人」の役を押し付けることで、自分たちが気持ちよくなろうとしているのだ。その快楽を手放したくないという前提の上に、無理矢理ロジックを組み立てるのでおかしくなるのだ。

僕の考えでは、やはり人間がいつでも共同体から逃げられる社会を維持するべきだ。それだけが、若者を自由にするからだ。

そもそも問題を間違えていると思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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