好きは、勤務時間の外にだけあるわけじゃない
昔の私は、仕事と好きなことを、わりときれいに分けて考えていた。
仕事は、やるべきこと。
好きなことは、仕事が終わってからすること。
定時になったらパソコンを閉じて、家に帰って、本を読んだり、文章を書いたりする。そこからが自分の時間で、そこからが「好き」の時間なのだと思っていた。
でも最近、その分け方が少し雑だったのかもしれないと思う。
私は公共施設で働いている。ホールや会議室を貸し出し、催事が無事に終わるように整える仕事だ。華やかな仕事に見えることもあるけれど、実際には、机を並べる、導線を確認する、看板の位置を見る、マイクの本数を数える、搬入口の時間を調整する、非常口の前に物が置かれていないか確認する。そんな細かいことの積み重ねだ。
誰かが壇上で拍手を浴びているとき、こちらは客席の後ろで時計を見ている。
誰かが「今日は最高だった」と笑って帰るとき、こちらは忘れ物と原状復帰を確認している。
正直に言えば、面倒なことも多い。予定通りにいかないこともある。苦情もある。急な変更もある。なぜ今それを言うのですか、ということも、まあ、ある。
それでも、ときどき思う。
私が今日そろえた椅子に、誰かが座っていた。
私が確認したマイクで、誰かが初めて人前で話した。
私がふさいではいけないと思って空けておいた通路を、誰かが安心して歩いた。
私がただの業務として処理した一日は、誰かにとっては、ずっと覚えている一日だったのかもしれない。
そう思う瞬間、仕事の中に、ほんの少しだけ「好き」が混じる。
それは、わかりやすいやりがいとは少し違う。
胸を張って「この仕事が天職です」と言えるほど、毎日が美しいわけでもない。
ただ、誰かの大事な時間の外側を支えている、という感覚がある。
舞台に立つ人だけではなく、舞台に立てる状態をつくる人もいる。
拍手をもらう人だけではなく、拍手が無事に起きる場所を守る人もいる。
私はその裏側にいる。
そして、たぶん私は、その裏側が嫌いではない。
不思議なことに、私にとって「好きなこと」である文章を書くことも、いつも楽しいわけではない。締切が近づけば苦しい。応募要項を確認し、字数を数え、直して、削って、また直す。好きで始めたはずなのに、途中から完全に「作業」になる。
好きなことなのに、ワークになる。
仕事なのに、ライクが混じる。
そのことに気づいてから、私の中で、仕事と好きの境界線が少しだけ変わった。
たぶん大事なのは、何をしているかだけではない。
その時間の中に、自分の意思がどれだけ残っているかだ。
同じ資料を作るのでも、「早く終わらせなければ」と思うだけなら、ただの作業になる。けれど、「これを読んだ人が迷わないように」と一文を直すとき、そこには少しだけ自分の意思がある。
同じ家事をするのでも、「やらされている」と思えば重い。けれど、家族の誰かが少し楽になると思えば、そこにはほんの少しだけ温度が戻る。
同じ文章を書くのでも、「受賞しなければ」と思えば苦しい。けれど、「この感覚を、まだ言葉にできていない誰かに渡したい」と思えた瞬間、また書きたくなる。
ワークとライクは、別々の箱に入っているのではないのだと思う。
むしろ、同じ一日の中で、何度も入れ替わる。
朝は義務だったものが、夕方には誇りになることがある。
好きで始めたものが、夜には自分を追い込むこともある。
それでも、完全に嫌いにならずに続けているものの中には、たぶんまだ、消えていない火がある。
私にとってのワーク〈ライク〉バランスは、好きなことだけで一日を満たすことではない。
やるべきことの中に、好きの小さな火種を見つけること。
好きなことが苦しくなったとき、それでも最初に好きだった理由を忘れないこと。
そして、自分が支えている誰かの時間を、ただの業務として片づけすぎないこと。
非常口の前に、物を置かない。
マイクの電池を替える。
椅子の列をまっすぐにする。
案内表示の矢印を、少しだけ見やすい位置に変える。
どれも、仕事としては地味だ。
けれど、その先に誰かの発表があり、誰かの再会があり、誰かの拍手がある。
好きは、勤務時間の外にだけあるわけじゃない。
誰にも気づかれない確認の中にもある。
名前の出ない準備の中にもある。
終わったあと、誰も振り返らずに帰っていく通路の明るさの中にもある。
だから私は今日も、やるべきことをする。
ただし、できるだけ、好きだった理由を失くさないように。
そのくらいのバランスで、今はいいと思っている。
#ワークライクバランス

