長編小説|Another Horizon #07
#07 ケーララにて
その夏、航太は翔太郎に連れられて、さまざまな国を旅した。
アフリカのタンザニア、セレンゲティ国立公園。乗っていたジープがヌーの大群に囲まれるという体験もした。『ヌーの大移動』だ。
ベネズエラ、ギアナ高地エンジェルフォール。東京タワーの3倍にあたる遥か高みから舞い落ちる水は、地面に届くことなく霧散してしまう。
ヨルダン、ペトラ遺跡。屹立する絶壁の狭間、シークと呼ばれる道を歩いた果てに辿りつく砂岩を彫り抜いて造られた宮殿『エルカズネ』
印象的だった遺跡や街の名をあげれば、きりがない。
カンボジア、アンコールトムのバイヨンの微笑み。ウズベキスタン、ブハラのターコイズブルーのモスク。クロアチア、ドブロブニク、紺碧のアドリア海と橙色の屋根瓦の街並み。ギリシャ、メテオラの断崖絶壁に聳えたつ修道院。
「パリとか、ロンドンとかニューヨークとか有名な都市がないんだね」
航太は素朴な疑問を口にする。
誰もが憧れる観光都市、満を持して登場するかと思いきや一向に出てくる気配がない。ヨーロッパの古都にしても、ルーマニアのシギショアラ、チェコのチェスキー・クルムロフと、いったいどこですか?と訊ねたくなる街が多い。
出てこないよ、と翔太郎はあっさりと航太の疑問に答えてみせた。
「ああいった有名都市は、至るところで肖像権や著作権に引っかかるからね。例えばパリでお客さんに『ルーブル美術館でモナリザが見たい』なんて言われても、応えようがないんだ。撮影禁止だから映像が手元にないし、そもそも俺に公開する権利がない」
なるほど、と航太は合点がいく。翔太郎はさらに言葉を重ねた。
「旅行というのは、美しい風景を堪能する、現地の美味しい食事に舌鼓を打つ、美術鑑賞や観劇などの文化的体験、……ショッピングも含まれるかな。そういった総合的な経験のことだろう?そのニーズを、VRの世界は満たせないということだよ」
「だから、視覚に訴える景勝地を選んでるんだ」
「そう。あとは、狡い言い方になるが……。こちらが主導権を握れるという利点もある。情報の少ない土地だと、人は受け身になるからね」
へぇ、と航太は相槌を打つに留める。正直なところ、圧倒されていた。これだけの構想を、いつから翔太郎は胸に秘めていたのだろう。
「自由入場と、ガイドつきの差は?違いは翔太郎が案内するってだけ?」
『Another Horizon』における料金体系。自由入場を指す『Entrance Fee』とガイドつきの『Tour Guide』。その価格差は3倍近い。
さすがに自惚れすぎじゃないの、という航太の指摘に翔太郎は苦笑する。
「自分の価値が3倍あると自負してるわけじゃない。一番の違いは、自由入場は誰でも入場できる。赤の他人同士がその場で交流もできる。ガイドつきの特典は、景色の完全な独占だ」
オーバーツーリズムってヤツか、と航太は胸のうちで独白する。
人でごったがえす景勝地にうんざりする、なんて経験は誰にでもあるだろう。美しい景色を赤の他人と共有することを是とするか否か。
「あとは、演出の差だ。ガイドつきのほうは、景勝地を劇的に見せるように演出してる」
「劇的って、例えば?」
そうだな、と翔太郎は顔を巡らす。
「焦らす、ってことだよ。例えばウユニ塩湖だと自由入場者はログインすると、いきなり塩湖の中央に出る。ガイドつきのほうはウユニの街から始まる。おまえが一旦はがっかりしたみたいに、期待を裏切っておいてから、不意打ちで期待を上回る絶景を見せる。ペトラ遺跡も、わざとシークを歩かせてから、突然現れる宮殿を見せる。タンザニアのサファリも、簡単には動物は見せない。そういうことだ」
航太は思わず沈黙する。それは、つまり……。
「俺って、翔太郎の掌のうえで転がされていたんだね……」
ふふ、と翔太郎は堪えきれないように笑いを漏らす。ごめん、と言いながら。
「だから、モニターとしての役目を果たしてくれ、とお願いしただろう?そういう意味で、おまえは実にいい仕事をしてくれたよ。反応が素直だから、助かる」
ふーん、と航太はそっけなく返事をする。素直と言われても、褒められている気はしない。むしろ馬鹿にされてはいないか。
機嫌を損ねた弟を見て、翔太郎は慌てたようだった。悪かった、と掌を拝み合わせるようにして謝ってくる。
「もうひとつ、連れていきたい国があるんだ。その国だけは、他と違う趣向を凝らしてるから是非とも体験して欲しいんだ」
「……… どこの国?」
インド、と翔太郎は答えた。
タージ・マハル、カレーライス、マハラジャ……漠然としたインドのイメージが、航太の脳裏を横切っていった。
♦︎♦︎♦︎
インド南西部、ケーララ州。
アレッピーからコーラムを結ぶバックウォータークルーズ。緩やかな河川の流れ。沿岸部には椰子の木が生い茂り、強烈な陽射しを和らげてくれている。風光明媚とは、まさにこのような風景のことを指すのだろう。
「翔太郎、飽きてきたんだけど…… 」
綺麗は綺麗だが、延々と椰子の木が織り成す景色が続き単調なのは否めない。
ん?と、燦々と降り注ぐ陽射しを浴びて昼寝をしていた翔太郎は、起きあがる。ガイドのくせに寝るとは何事だ。そもそもVR空間で寝るヤツがあるか。
彼の服装がいつもと違う。風通しのよさそうな綿素材の藍色の上衣に、ゆったりとした生成色のパンツを合わせている。
「それ、インドの民族衣装?」
航太が尋ねると、翔太郎は嬉しそうに、似合うか?と訊いてきた。
「別に、似合ってるけどさ。翔太郎って、形から入るタイプだよな」
それのどこが悪い、と翔太郎は反論する。
ちなみに上衣は、立襟に胸元までボタンがついているデザインだ。クルタと呼ぶらしい。そしてゆったりとしたパンツの名称は、パジャマだ。
「パジャマって、……もしかして、寝間着のパジャマ?」
「そう。日本で言うパジャマの語源は、この服のことだよ」
知らなかった、と航太は感嘆する。
民族衣装の販売もしようかと思ってるんだ、と翔太郎は話を続ける。お客さんのアバターに民族衣装を提供する、ということらしい。民族衣装で観光する。着物姿で京都を歩くのと同じ感覚だろう。
ちょうどボートが、橋の下を通りかかった。翔太郎が指し示す先にいるのは、母と娘らしきインド人女性だ。母親と思われる人物は色鮮やかなサリーを纏っている。娘のほうの衣装の名はわからない。
「サリーというのは、既婚女性が着る服だ。今は、必ずしもそうとは限らないかもしれないが。娘さんらしきほうが着ているチュニックみたいな服は、パンジャビドレス。こちらの方が、日本人女性には着やすいデザインかな」
「へぇ。じゃ、男性用は?今、翔太郎が着てるヤツ?」
んー、と翔太郎の返事はどこか歯切れが悪い。
「この服だとさ、つまらなくないか?日本で着ていても違和感ないようなデザインだし。ガイドの衣装としては適してるかな、と思って着用してるんだけどさ」
そういえば……、と航太は川沿いを行き交う人々を眺めながら、違和感に気がついた。道を行く男性の服は、翔太郎の着ているクルタが多い。もしくは何の変哲もないチェックのシャツに濃紺のジーンズ。
「インド人ってさ、ターバン巻いてるもんだと思ってた」
「ああ。こんな感じだろ?」
翔太郎のアバターが、突然変化した。
頭には白いターバン。金糸できらびやかな刺繍が施された衣装。口許には髭までたくわえている。いわゆるマハラジャスタイル。航太の想像するインド人だ。
( 全然、似合ってない …… )
吹き出しそうになるのを、航太は堪える。翔太郎はどちらかと言えば垂れ目で柔和な顔立ちだ。ちょび髭が、ここまで似合わない人物も珍しい。
「ターバンを巻いているインド人というのは、シーク教徒の人たちだ。北西部のパンジャーブ州に暮らしている。男性用の衣装として提供しようと思っているのが、このターバン姿ともうひとつ、あってさ……」
その瞬間、 翔太郎がいたずらめいた眼差しをした。嫌な予感が胸に到来する。次の瞬間には、航太のアバターが変化していた。
「………っんだよ‼︎ これ‼︎ 」
思わず叫んでしまう。航太は服を着ていなかった。いや、厳密に言えば全裸ではない。心許ないとしか言いようのない腰布で大事なところだけは隠されている。
「サドゥーの衣装だよ」
あっさりと翔太郎は種明かしする。
これは衣装とは呼ばない。ただの布だ。翔太郎が指先を何かを操作するように動かすと、何もない空間から鏡が現れた。そこに映った自分の姿に絶望する。
肌が褐色に変化している。全身に塗りつけられている白っぽい粉は、おしろいだろうか。そして頭からは腐った木の枝みたいなものが生えている。よくよく見れば、ドレッドヘアだ。
「サドゥーって、何?」
ヒンズー教の修行僧のことだ、と翔太郎は説明する。世俗的な欲を捨て、放浪する聖なる存在。白い粉の正体はおしろいではなく、灰らしい。
「そんな聖なる人を面白がって仮装大会の道具にしちゃ、まずいんじゃないの?」
そうだよな、ともっともらしく翔太郎は頷く。そして空を仰いで、サドゥーの皆さま申し訳ありません、と懺悔する。
そのとき、ボートが停まった。コーラムに到着したのだ。
行こうか、と爽やかな笑顔で翔太郎が促す。
冗談ではない。こんな格好で街を歩いたら、公衆猥褻罪で捕まりそうだ。本物のサドゥーではないのだから。
「翔太郎、てめえ……俺で、遊んでんじゃねえよ‼︎いいから、早く服を元に戻せ‼︎ 」
自分の衣服を取り戻した航太は、同時に冷静さも取り戻していた。よく考えれば、VR空間で警察に捕まるわけがない。盛大な溜息をつきながら下船しようとしていると、翔太郎が顔を寄せて耳打ちしてきた。
「ここからは、俺の実際の体験を追体験してもらおうと思って。航太のアバターは自分の意思で動かせなくなるから、了承してくれ」
他の国とは違う趣向、とはこのことらしい。
はっきり言って嫌な予感しかしない。そして、早くもその予感は的中する。
船着場に降り立った瞬間、航太はインド人に取り囲まれていた。全員が男性。肉体労働者らしく恰幅がよく筋骨逞しい。その彼らが、唾を飛ばさんばかりの勢いで話しかけてくる。
黄昏どき。さきほどまで降り注いでいた陽射しは消え失せ、周囲を夕闇が包んでいる。
航太のアバターが動きだした。眼前に立ちはだかるインド人を、押し退けている。実際に翔太郎がとった行動だと思うと、驚きを禁じ得ない。
「彼らは、オートリキシャーの運転手だよ。どこの街でもバスから降りた瞬間に取り囲まれるんだ。しかも、かなりぼったくってくる」
オートリキシャーというのは、屋根つきの三輪バイクタクシーのことだ。
『No Bus』という言葉が聞きとれた。アレッピーに戻るバスなんてない。俺の車に乗ってけ。さもないと、帰れなくなるぞ。
翔太郎は、いや航太のアバターは、押しの強すぎる勧誘を振り払い、道を進んでいく。途中で通りすがりのインド人を呼びとめている。すみません、バス停はどこ?
彼の指差す先にバス停はあった。行先表示の案内板もない、道路端に人が待っているだけの場所。そのバスを待つ女性客に話しかける。アレッピーに戻りたいんです。
バスが来た。ポンコツとしか表現できない古びた車体。やはり、行先表示はない。女性客に促されて乗車する。
「アレッピーに戻るバスはない、って言ってたけど、あるじゃん」
航太は、隣にいる翔太郎に話しかける。バスは満員だ。手摺に掴まりながら、人の視線を感じる。好奇心に満ちた視線。日本人が珍しいのだろうか。
インドのローカルバスなんて乗ったことはないし、これからも乗る機会なんて訪れないだろうから、少しワクワクしてしまう。
茶色の制服を着た車掌が近づいてきた。車内で料金を徴収する仕組みで、現金払いのみらしい。そして、翔太郎が目的地を告げる。アレッピー、と。
車掌のおじさんは、首をすくめる。アレッピーになんて行かないよ、とばかりに。そして切符をくれた。いや切符と呼ぶには陳腐なペラペラの紙切れ。
「直通バスはないっていう意味だったんだ」
翔太郎は、オートリキシャーの運転手の言葉の真意を明かす。
バスが停車する。え、もう?と航太は戸惑う。終点なのか、乗客はいっせいに降車していく。隣に立っていた青年が降りるように促してきた。仕方なく、彼の後ろについていく。
バスターミナルらしき場所だった。喧騒と混沌がそこにある。
そのあと、何度バスを乗り換えたのだろうか。
おそらくは、と翔太郎は説明する。コーラムの船着場から、バスターミナルへ。そして主要道路を走る路線のある大きな街へ。幹線道路を走るバスを降りて、さらなる街へ。そこまで行けばアレッピーへの直通バスが走っている。
『人の善意』という名のバスに乗っていたのだ、と翔太郎は語る。
自分は馬鹿のひとつ覚えのように『アレッピー』と繰りかえしていただけ。ただ人に促されて、あれだよと言われたバスに乗るだけ。受動的であることの極みだ。
「まあ、地図で確認しようにも載っていないし、行き方を自分で調べようにも、インドの路線バスなんて複雑怪奇すぎて無理なんだけどね」
途中まで一緒に付き添ってくれたのは、隣に立っていた青年だ。
まだ学生らしく教科書らしきものを抱えていた。翔太郎に対して何も尋ねてこない。寡黙に隣に佇んで、バスが停まると降りようと促してくる。そして最後の街でアレッピーへのバスを指し示すと、握手を求めてきた。
そこでようやく、その街が彼の目的地だと悟る。ありがとう、と翔太郎の声がする。名乗ることもなく爽やかな笑顔だけを残して、彼は去っていった。
アレッピーまでのバスの中で、女学生のグループに声をかけられた。
ひそひそと囁きながら、こちらを窺っては俯くことを繰りかえしている。そして好奇心を押さえられなくなった一番小柄な三つ編みの子が、意を決したように話しかけてくる。
─── どこから、来たの?
日本、と翔太郎は答える。ジャパニ‼︎ と歓声があがる。
─── これから、どこへ行くの?
アレッピーへ。そこに宿をとっているんだ。
そこからは、延々と質問責めだ。アレッピーのあとは、どこへ行くの?バックウォータークルーズはもう体験した?綺麗だった?インドは初めて?そのカメラ、かっこいいね。日本製?マサラドーサはもう食べた?おいしかった?
尽きることのない質問に、翔太郎はひとつずつ答えていく。
微笑ましいというよりはおかしいのが、周囲の大人の乗客の反応だ。興味ありません、という冷静な表情をしながら、耳をそばだてている。話が進むに連れて、目が輝きはじめる。
「これさ……翔太郎ずっとカメラまわしてるの、知ってるんだよね」
カメラ、と女の子が指摘して、航太はふと思い至る。
隣に立つ翔太郎は、頷いた。承諾は得ているよ、と。
「カメラを向けられて、これだけ自然体でいられる国民性も珍しい。カメラを嫌がる人間が皆無なんだ。被写体としては、最高だよ」
「インドだけは他の国と趣向が違うって、このこと?」
今までの旅との明らかな相違点。人の数が違う。人の姿を加工して消していない。ありのままの喧騒と混沌に溢れたインドという国の姿。カメラの焦点は景色ではなく、人なのだ。
それもある、と翔太郎は首肯する。
そのとき突然映像が、乱れた。一瞬何が起こったか、と航太は瞠目する。
ジャパニ‼︎ アレッピー‼︎
乗客が、口々に叫んでいる。運転手に停まれと指図する乗客がいる。どうやら、アレッピーに到着したらしい。終点ではないのだ。このまま乗車していたら、とんでもない場所まで運ばれていってしまう。映像が乱れたのは、呑気に女の子と会話していた翔太郎が、慌ててカメラを落下させたのが原因だった。
バスを降りると、見覚えのある路地が視界に入った。
道路沿いに食堂が軒を並べている。VR空間では食事は楽しめないと承知していても、提示されている写真つきのメニューに、磁石のように航太の視線は吸い寄せられる。
「あの子が言ってた、マサラドーサってこれのこと?」
筒巻き状で、クレープにそっくりだ。黄金色でパリパリに焼かれている。
「そう。中身はジャガイモのカレー炒めだ。旨いよ。ちなみに隣のウタパームは、南インド版のピザだ。イドリーは蒸しパン。プーリは揚げパンのことだ」
「カレーライスは食べないの?」
「カレーライスは、こちらだと『ミールス』という。バナナの葉にインディカ米がのってて、小皿に盛られたカレーが数種類ついてくる。あと、付け合わせにヨーグルトとアチャールという漬物。ちなみに南インドの主食は米で、北インドはチャパティというパンだ。日本で食べられているナンは、実はインドでは一般的じゃない」
へぇー、と航太は相槌を打つ。聞けば聞くほど空腹感が募りそうだ。
帰ろうか、と翔太郎は笑った。きっと、現実のおまえが腹を空かせているんだろう、と。
